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 音というか響きというか、汽車の(とどろ)きにも()もれず、なにか(さまた)(さえぎ)るものがあれば、ひらりと軽く体をかわし、形もなく、勝手気ままな音を()きだし、空を舞いめぐる太鼓に(つばさ)があるかのように、その鳴り物は打ち(はや)されていた。目路(めじ)の先には、斜めに交差した道の角に、黒塀(くろべい)で囲まれた広々とした敷地があり、その片隅には松の低い木立があって、その枝の間から朱塗(しゅぬ)りの堂の屋根を(のぞ)かせた、稲荷(いなり)様だという神社がある。松崎は、その境内(けいだい)でなにかしらの催しがあって、そこから音が聞こえるのであろうと思っていた。

 けれども、欄干(らんかん)から身を乗りだして、もうひとつ先の橋のその先まで目を()らしても、神社の門は寝静まったように(とざ)されていた。

 いつの間にか、トチトチトンとのんきそうな響きに心が誘われて、駅と書かれた本所(ほんじょ)停車場(ステイション)の立て札も、(うまや)と読みたくなるほどで、白日(はくじつ)(もと)で菜の花を見ている気分である。忙しい世の中で人目を引く、真っ赤なダルマが背面とんぼ返りをしているパン屋の看板さえ、遠い鎮守(ちんじゅ)(もり)にある鳥居(とりい)のように思えてしまう。田んぼ道でも歩いている気がしながら、江東橋(こうとうばし)の停留所に着いた。

 空いた電車が五台ほど、(つばめ)が通り抜けそうなほどにがらんとしていた。

 乗るわ降りるわで混雑して大人数が入り乱れるといった、激烈な戦場を行き来してきた強者(つわもの)にとって、相撲(すもう)巡業中の回向院(えこういん)が不意に野原になったかのような、あまりにも()いた電車の様子は、いささか拍子抜けといったところで、お望み次第でどれに乗ろうかと思いながらも、かなり歩きまわった疲れも混じって、松崎は、駅前にトボンと立っていた。

 例の音は地の底から、草が()されるかのように、色に出る、()え出ずる、といった様子で、止まることがない。

狸囃子(たぬきばやし)というんだよ。昔から本所(ほんじょ)の名物さ」

「あら、(うそ)ばっかり」

 ちょうどあの橋の上に、美しい人と若紳士が居あわせて、こんなことばを交わしたのを、松崎は聞いていた。

 となると、空耳ではないらしい。

 若紳士がそう言ったのは、おいてけ(ぼり)片葉(かたは)(あし)、足洗い屋敷、埋蔵(うめぐら)(どぶ)小豆婆(あずきばば)、送り提灯(ちょうちん)と、この狸囃子を、本所七不思議の怪異として歌いこんだ、流行歌(はやりうた)をふまえてのことだ。

 言ったほうもふざけて言ったのだし、それを聞く(ひと)も冗談らしく打ち消したが、松崎は、失念していた伝説(いいつたえ)を、かえって夢のように思い出した。

 なんとも面白い。

 春の日は(なが)い。

 仕事に悩んで、今宮(いまみや)あたりの仏堂や神宮で絵馬を見ながら過ごしたという、患者のいない医者といっしょで、(ひま)を持て余した身体(からだ)だから、電車はいつでも乗れる。

 となると、家へ帰るにはまだ早い。……どうやら橋の上で聞いたよりも、同じくとりとめない音ではあるが、ここに来てみると囃子(はやし)の音が間近に聞こえ、はっきりしてきたように思われる。その音が響くのは自分だけではないと、確かめられたからでもあるだろう。

 そのうえ、世を捨てた仙人が()を打つ響きでもなく、(すすき)に隠れた女郎花(おみなえし)(つゆ)(しずく)に打たれる音でもない。……音色こそ違うが、見世物の囃子(はやし)と同じように、気をそそって人を寄せる鳴り物のようだと思うから、耳を傾けた方角へ誘われるままに駅前を離れて、(さび)しい横丁へと足を進めた。

 日向(ひなた)に向かって立つ姿の、背後(うしろ)は水で、思いがけず町なかに咲いた一本の菖蒲(あやめ)かと思った。……その美しい人の姿は、橋で別れてきた背中に、ひやひやと()みるようだ。

 そんな松崎を、チャンチキ、チャンチキと、(あざけ)るかのように(はや)したてる。

 がらがらと音をたてて、電車が出る。突如(とつじょ)として、どどん、じゃん、じゃん。――ぶらぶら歩きだすと、ツンツンテンレン、ツンツンテンレン。


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