十九
十九
女房は話し続けた。
「お稲ちゃんが、あれほどまでに身の回りを美しく整理していたのは、後で人に見られても恥ずかしくないようにという躾だったんだわね。――そして隙さえあれば、すぐに死ぬ気でいたんでしょう。寝る前にお化粧をするのなんかもそれで。
ですから病院に入ったあとも、針箱の引き出しにも、着物や髪の道具を包んだ畳紙のなかにも、皺になった千代紙一枚も、油染みた髪飾りの布一掛けもなかったんですって。綺麗にしておいたんだわ。……友だちから来た手紙なんか、なかには焼いたのもあるんですって。……心がけていたじゃありませんか。惜しまれる娘は違うわね。
ひどく思い詰めて、気が違ってしまった日は、晩方に髪結いさんが来て、鏡台に向かっていたときですって。夏のことでね、庭に紫陽花が咲いていたせいだかわからないけれど、その姿見の蒼さったら、月だってそんな色にはならないだろうって言ってたんですけどね。――そして、お稲ちゃんのそのときの顔ぐらい、色が白く見えたのは思い出せなかったんだって。
髪結いさんが、隣の女房にそう話したんです。
お稲ちゃんの家と同じ髪結いさんが廻ってますからね。
隣の家とお稲ちゃんとことが同じだったのはそりゃいいとして、まあとんでもないことには、あの法学士さんの家も同じ髪結いさんだったんです。それだもんで、つい先頃、法学士さんがよそからお嫁さんを貰ったって……それで箱根へ新婚旅行に行って、帰ってきた日に呼ばれて行って、髪を結ったんだってことを……いいですか……お稲ちゃんの島田髷を結いながら、髪結いさんが話したんです」
「ああ、なんて間が悪い」
と、春狐は聞きながら、眉を顰めた。
蘭菊もまた同じように、ぐっと眉をしかめて、つげの櫛で鬢の毛を、押しつけるように撫でつけた。
「……気をつけないと……あちこちの事情を知ってる髪結いさんが、得意先の女の髪の毛を一筋ずつ持って帰って、内緒でだれかとだれかのを結びつけるような、そんな真似をやたらとするようになってご覧なさい。
世間はすぐに、戦争よりも乱れると、私は思うんですよ。
お稲さんは黙ってうつむいていたんですって。そのとき髪結いさんは、左挿しにする銀の平打ち簪を前髪の根に向けて、毛筋を通して挿し込もうとして、先が突き刺さるんじゃないかと思った。ハッと抜き戻したはずみで、簪は庭の飛び石へカチリと落ちました。
――口惜しい――とお稲ちゃんが言ったんですって。上手だと評判の髷の根揃えをして、締めたばかりの元結いがプッツリ切れて、長い髪がさらさらと音をさせながらサッと乱れたから、髪結いさんは尻餅をつきましたとさ。
でも髪結いさんは、あの娘の髪のことばかり言って惜しがってるそうですよ。あんな美しい、柔軟な、艶のいい髪は見たことがないってね。――遺体を病院から引き取るときも、看護婦二人が横抱きにして担架に移そうとすると、背中を覆うように髪が振りかかって、裾よりも長かったんですって。……ほんとうにことばどおり、丈にも余る黒髪っていうもんだわね」
「ああ……話を聞くだけでも惜しい娘だ。……なんのために、髪までそんなに美しく世の中に生まれてきたんだ」
春狐は思わず、詰るかのように急き込んで火鉢を叩いた。
「ねえ、私にだってわかりませんわ」
「で、どうしたんだい」
「お稲ちゃんは、髪を結ったそのとき以来、夢のなかなの。べつに、どこかへ行ってしまうとか、手がかかるとかはなかったんだそうですけれど、ただでさえ細くなっていた食が、もうまるっきり喉を通らなくなって。
機嫌を取っても、叱りつけても、だめだった。
しようがないから、病院に入れたんです。お医者さんも最初から首をお傾けだったそうですよ。
まあね、それでもできるだけ手当をしたにはしたそうだけれど、やっぱり……ねえ……おとむらいになってしまって……」
と、女房のぼんやりとしてきた目のなかが、サッと光を取り戻すと、涙になってこぼれ落ちる。