十七
十七
「あの妙齢であの容色ですからね、もう以前から、縁談もいろいろとあったそうですけれど、お決まりの、ここがよくてもあれがどうも、といった具合で決めかねていたといいます。そこに、お稲ちゃんが二、三年前まで通っていた……それでも、お稽古のお披露目会では高台で演奏していたのだとかいう……長唄のお師匠さんが橋渡しをして……。
お相手の家は千駄木あたりで、お父さんは陸軍の大佐だか少将だかを退役した方で、その息子さんなんです。なんでも法学士になったばかりなんですって。……そのお家がね、ぜひお嫁さんに欲しいって言ったんですとさ。
以前から時々顔を見合っていたから、もうお見合いなんて済んでるようなものなの。男のほうはたいへんな惚れかたなのよ。もっとも家同士、知り合いでもなんでもないんですから、そりゃ口を利いたことなんてなかったんでしょうけれど、ほんとに思えば思われるっていうやつだわね」
半纏を着た蘭菊は、火鉢の縁を指先でちょっと触りながら、
「お稲ちゃんのほうでも、嬉しくないことはなかったんでしょう。……でね、内心でもその気になっていたんだって。……と、お師匠さんが言うんですとさ。……お隣の女房さんの話によると、よ。
まだ卒業前だったから、婚約は、いずれ学校が済んでからってことで、延び延びになっていたんだそうですがね。
去年の春、お茶の水の学校の試験が終わると、さあ、その翌日にでも結納を取り交わす勢いで、男のほうから催促してきたんでしょう。
けれども、お稲ちゃんの家のほうじゃ煮え切らない。というのがね――あの娘にはお母さんがいません。お父さんも病身で、めったに戸外へも出なさらない。なんでも中風かなにからしいんです。その妹さんが後家さんで、お稲ちゃんには叔母にあたる、ハイカラ趣味のお婆さんが取り仕切って、家のことは、お稲ちゃんの兄さん夫婦がぜんぶやってるんだわね。
その兄さんというのが才物で、なんとかいう、朝鮮や満州や台湾にも出店している大きな株式会社に勤めているんです。
あれなのよ、その会社の重役の放蕩息子が、春の歌留多会でお稲ちゃんの手を、ダイヤの指輪をはめた手でネチョリと押さえたりして。おお、いやだ」
と、払いのけるしぐさをして、
「それが原因で、学校も落第した。もうたくさん」
「どうだか」
「ほんとうですとも。それからそのネチョリが……」
「さっきのがきっかけで、ってことか」
と言って春狐は、ああと嘆息する。
「ええ。お稲ちゃんにぞっこんになって。たっての希望で欲しいって言うの。この話に兄嫁が、まっ先に乗り気になったでしょう」
「お決まりの展開になりやがった」
「だいぶ、お芝居の筋書きみたいになってきたわね」
「余計なことを言うんじゃない……それから?」
才物の兄さんも、やっぱりその気だもんですからね。法学士からのいよいよという話が出たときに、兄さんのほうからきっぱり断ってしまったんですって。――ご縁がなかったと思ってお諦めください、とかなんとかでさ」
「その法学士のほうにも縁がなかったような、その言い方がとんでもないな。てめえが勝手に人の縁を、顎にシャボンの泡を塗って鼻の下を伸ばしながら横撫でに髯をあたる西洋剃刀で切ったんじゃないか」
「ねえ……お稲ちゃんは、鬱いでいましたとさ。初心な娘だし、世間知らずだから、なにも口に出しては言わなかったそうだけど。……だんだんと食が細くなってね。好きなものもちっとも食べない。
そのくせ、身綺麗にすることといったら。朝に夕に髪を撫でつけて、鬢の毛一本乱していたことはない。肌着も毎日のように取り替えて、お風呂にも欠かさず入って、綺麗にお化粧をして、寝るときは必ず寝化粧をしたんですって。
白歯に紅よ。夜更けにそんな艶色を想像してみてよ、凄いじゃない。
そのうちに、夜中に起きて、帯をお太鼓結びにきちんと締めているところを、家の人に二、三度見つけられました。なにをしているのと叔母さんが咎めると――私はお母さんの許へ行くの――。
そう言ってね、枕許にきちんと座って、目をぱっちり開けて天井を見ているから、起きているのかと思うと、正気を失っていたんですとさ。
思い詰めたものだわねえ」