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十六

十六


 舞台は居所(いどころ)がわりになるものだ、と楽屋で役者が言った。――俳優は人に知られぬことをよしとして、化け物が踊る間、うつむき伏している間に、こぼれる涙を(ぬぐ)うのである。……(まゆ)は鮮やかに、目は引き締まってぱっちりと、口もとの(りん)とした……いささか気が強そうではあるが、妙齢(としごろ)のふっくらとした、濃い生え際に白粉(おしろい)が目立つこともない色白なその娘の顔。

 松崎は、それを見てゾッとした。……

 しかもその名が――お稲です――と。

 似ているどころではない。今年の二月、白い日の光のなかに紅梅(こうばい)が咲いていた朝、御殿町(ごてんまち)あたりにある、松崎が住む同じ町内の、ある家の門から、しめやかに行われた内輪だけの葬儀で送りだされた娘である。……その日は(しも)が消えなかった。――湯屋(ゆや)でも髪結(かみゆい)でも、いまだに近所の細君(さいくん)やお女房(かみさん)たちの(うわさ)話が絶えない、お稲ちゃんといった評判娘にそっくりなのだった。

「私もいま、はじめて聞いてびっくりしたの」

 そのとき、松崎の女房は、二階へばたばたと駆け上がり、戦国時代の御注進(ごちゅうしん)という場面だとすれば、(しま)半纏(はんてん)(よろい)で、短い格子(こうし)の前掛けは草摺(くさずり)といったところ。それでも話題が弔事(ちょうじ)だけに、手をばたばたとさせもせず、すぐに黒繻子(くろじゅす)(えり)を合わせてしとやかに身繕(みづくろ)いをすると、火鉢(ひばち)の向こうで中腰に身をかがめた。……

 髪は櫛巻(くしまき)で、繻子(しゅす)の帯が()り切れているのは、平素(へいそ)の場面であるから、まあしかたがない。亭主の筆名が春狐しゅんこであるから、狐つながりのことばで、仮に蘭菊(らんぎく)とでも盛って名づけておこう。

 小机(こづくえ)に向かっていた春狐は、身を横に、座布団(ざぶとん)から斜めになってふり返ると、

「へーぇ、ちっとも知らなかった」

「私もさ……さっきね、うちの出窓の前にお隣の奥さんが立って、通りのほうを見ながらしくしく泣いていらっしゃるから、どうしたんですって聞いたんです。かわいそうに……お稲ちゃんのお葬式(とむらい)が出るところだって、よその()でも最惜(いとし)くってしようがないって言うでしょう。――そういえば、なるほどそうだわね、近頃はしばらく姿を見なかったわね。ほらお前さん、あの()が歩いてきたって言うと、(はし)をカチリと置いて、出窓から(のぞ)いてなさったものだよね」

 春狐(しゅんこ)殿は苦笑いである。

「余計なことを言うんじゃないよ。……それにしても惜しいね、ここいらにはちょっといないぜ、あのくらい絵になる綺麗な()は」

「下町にだって、間違ってもいるもんですか」

「そんなことを言ってるがね、お前も月並みな長屋の主婦(かみ)さんだよ。……生きてるうちは、そうまで()めないってやつさ。顔がちょっと(きつ)すぎるとかなんとか言ってな」

「ええ、それは庇髪(ひさしがみ)でお茶の水の女学校に通っていたときの話ですわ。もう去年の春に卒業してからは、すっかり娘らしくなって、島田(まげ)に結ってからといったら……そりゃもう、食いつきたいようだったの。

 髪の美しさなんて、たとえようもないほど。もっとも、娘盛りも娘盛りですから」

「いくつだったんだ」

「数えで十九……年が明けたらですよ」

「ああ」と、春狐は思わず煙管(きせる)を落とした。

「もちろん、お婿(むこ)さんは、決まってなかったようだね」

「ええ、そのお婿さんのことで、亡くなったようなものですよ」

 春狐は、ハッとして、

「やっ、自殺か」

「おお、びっくりした。……お前さんはせっかちだねえ、いいえ、自殺じゃないけれども、私が考えるところだと、やっぱり(おんな)じだわ、自殺をしたのも」

「じゃあ、どうしたんだよ」

「それがだわね」

「じれったい女だな」

「ですから静かにお聞きなさいね。稲ちゃんの家じゃ、なるべく内緒に(かく)していたんだそうですけれど、あの()はね、去年の夏ごろから――そのことで――気がふれてしまったんですって」

「あの、綺麗な()が」

「まったくねえ」

 とうつむいて、また半纏(はんてん)(えり)を合わせる。


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