十五
十五
「兄さん、他のものじゃ間に合わない?」
あきれ顔をした舞台の二人に、美しい女は親しげにそう言った。
「他のものって?」と青月代は、ちんまりとした眉の下で目をぱちくりさせている。
「羽織では」
美しい女は、華奢な手を、着ている羽織の襟もとに当てた。
「ああ、そんなうまい話があればいいけど、前掛けでさえケチってるんだもの、貸してくれる人がいるもんか。それにね、羽織なんてだれも持ってやいませんぜ」
と、饂飩屋は吐き出すように言う。なるほど、羽織りを着ている子供など、一人として見あたらない。
「よければ私のを貸してあげるよ」
美しい女は、そう言うやいなや、白魚が柳を潜るように腕を撓らせながら羽織を脱いだ。篝火のような紅い裏地がちらめき、紋はおそらく結び雁金である。
「品子さん……」
若紳士は止めようとして、勢いよく立ちあがる。
「いいのよ、あなた」
と、その女は紳士のほうを見返りもしないで、
「帯がないじゃないの。さあ、これがいいわね」と、白と薄紫の、山が霞んだような色合いの派手な薄物のショールを、そう言いながら肩をすべらせると、舞台に置いた羽織の上に落とした。……
雪女は、すぐに心得て、ふわりとその羽織を着た。緋色の襦袢に黒縮緬の紋付を襲ねて、霞のようなショールを、結び目を前にしてすらりと結んだのが、よく似合っている。子供の背丈なので裾を曳いて、三尺の長さに影を垂らしたような振袖は、左右に水のしたたるような美しさである。その不思議な艶めかしさは、借りた小袖に魂が入って立ち上がったかのようでもあるし、行燈の灯を覆った裲襠の袂に蝶々が宿って、胡蝶の夢を見せるかのようにも思える。
「ありがとう」
「奥さんありがとう」
青月代と饂飩屋が、鬘頭を揃ってぺこぺこさせながら、嬉しそうな顔をする。
美しい女は、雪女が、その、鏡台になぞらえた行燈に向かって立つ後ろ姿を見つめて、
「島田髷もいい具合ね。このまま角隠しをして、嫁入り姿にしたいくらいだわ。……ああ、でも扱帯が前結びというのはどうなの。遊女のようではなくって」
「構わないの。お稲さんが寝衣を着ている場面だから」
「ああ、ちょっと……」
と、美しい人がなにか訊きたげに留めようとしたところを、饂飩屋はスッと楽屋に引っこんだ。
「あら、やっぱりお稲さん、お稲さんですわ、あなた」
と言いながら、若紳士のほうをふり返った美しい女の睫毛が動いて、瞼がキッと引き締まった。
「いや、稲荷だよ、おい、稲荷だろう」
紳士も同じように身を乗りだして、観客の子供たちの上から、舞台に中折れ帽を突きだしていた。
「ねえ、この人の名は?……」
黒縮緬を着た雪女は、さすがに一座の立女形の誇りを保とうとするのか、島田髷の頭をわずかにも動かさず、きちんと済まして口を利こうとしないので、美しい女は青月代に同じことを訊いた。
「嵐お萩っていうの……東西東西」
と言うなり、ひらりと姿を消す。
「芸名じゃないの。役の娘の名を聞かせておくれ。なんていうの。ね、お前さん」
と美しい女は、いささか焦燥を見せながら言うと、病持ちなのか胸を押さえた。羽織を脱いで、寒そうな肩を晒した、小袖一枚の痩せ姿である。そのさまを雲間から姿を見せた月に見立てれば、月から離れた雲は一着の羽織となり、雲を纏った雪女は、墨絵で描いた艶やかな青柳の枝といった風情である。
凄艶なまでに真っ蒼な、春の月かと思える姿見の前で居住まいを正して、
「お稲です」
と言った雪女が、ふとふり向くと、水に朧な影が映るといったものではけっしてなく、目鼻のはっきりとした顔立ちである。