十二
十二
舞台の女形は背後向きの姿で、綿かと思える柔らかな背を見せながら、そのこしらえ物の姿見に向かって筵に座ると、しなった白い線を白脛で引くように、左の片膝を立てた。
膝は松崎の方へ向いている。身を寄せて重心を置いた右側には、美しい女と若紳士が座った縁台がある。
まだ顔を見せないままで、向き合った青行燈の引き出しを引くと、そこに小道具が準備されていた。夢の覚際にほんのりと咲いた合歓の花のような白粉刷毛を手に取ると、艶めかしく化粧をはじめる。
知ってはいても、それが男の子だとは思えない。耳たぶにまで黒子がない、滑らかな美しさである。松崎が、自分が腰かけている踏み台のあたりにいる蚊をしきりに気にしたのは、むやみにその子に集って、血を吸ったりしたら傷ましいと思ったからだった。
踏み台の蚊は、最初に腰かけたときからブーンと一匹、ブーンとまた一匹、穴から唸って出てくる。……足と足を擦りあわせたり、頭を振ったりして払い除けていたが、日盛りを過ぎたせいなのか、おかしなことに、この刻を狙っていたかのように、ぶくぶくと溝から泡が噴きだすように数を増した。なぜか、筵の舞台にいる白い体に集らせたくないと思うのだが、それも人情だろう。後ろのほうへ、町のほうへと払いのける気持ちで、両袖をばたつかせた。
この、血に飢えて呻き声を上げる虫が次第に勢いを増したことからして、天気が崩れるのではないかと心配になり、座ったままで視界の届くすべての空の様子を窺ってみた。しかし、どこかの煙突の煙が、一方向に崩れたらしい蔭はあったものの、雨雲とおぼしきものの影はなかった。ただ、町の静けさが広がるばかりだ。そんな、人のいない、板の間の乾いた浴場のような町に、暖かい霞が輝きながら留まって、漂いつつも満ち満ちている。そこに湧きだした蚊は、群れをなして波間を泳ぐ海月を思わせ、その、呻きながら血を吸うさまはといえば、槊を小脇に、飢えた虎の唄を吟じながら敵の首を刎ねる武人のようである。
これほどのまがまがしい群に集られたなら、庭の四つ目垣あたりに咲きかけた牡丹の花も、色を失うことであろう。……蚊は嘴を鳴らしながら、ひらりひらりと縦横無尽に踊っている。
しかし、のどかな昼日中に妄想めいた光景を思い浮かべていられたのは、そこまでであった。
そのうちに、蚊が踊るどころではなくなったのである。やがて舞台には、狐やら狸やらが、太鼓を叩き笛を吹く。……本所名物の楽器に合わせて、まず踊ったのは猫が三匹。夜具をかぶって仁王立ちになったのは、一尺樽ほどの大頭の三ツ目入道で、裸の子供といっしょになって、扇の差す手、手ぬぐいの引く手で、傍若無人に揃って踊りだしたころには、俄雨を運んでくる機関車のような黒雲が、世間の不条理を集めて貼り交ぜたかのような、あまたの木賃宿の行燈が薄暗くなるほど、屋根を圧して、音もたてずにむくむくと、両国橋から本所にかけての空を渡ったのである。
話が前後してしまった。
それより前に、行燈の姿見に向き合って裸体を見せていた男の子が、襟もとに襟白粉を長く引いた濃い化粧でくっきりと粧うと、刷毛といっしょに白粉を、カタンと音をたてて行燈の引き出しにしまった。と思うと、なよなよとした立て膝のまま、客席のほうにひょいっと顔を見せた。
島田結いの鬘ばかりがふさふさとして、なんと、目も鼻もないのっぺらぼうであった。
それだけは白粉で埋めてしまわなかった唇が、雪景色に点る紅梅のようで、蕊のような白歯を見せて、にっこりと笑う。
美しい女はハッと身を引いて、肩に当てた白い手を落とすと、若紳士の膝に乗せた。
額にも頬にも、どれほどの厚さか、小鼻も隠れてしまうほど、よくも塗り埋めたものだ。白粉で消した顔だとはわかっているはずの松崎でさえ、ひと目見て、奇妙に思えるほどだった。
先に述べた三ツ目入道が、どろどろどろと登場したのは、このときであった。