表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/26

十二

十二


 舞台の女形(おんながた)背後(うしろ)向きの姿で、綿(わた)かと思える柔らかな背を見せながら、そのこしらえ物の姿見(すがたみ)に向かって(むしろ)に座ると、しなった白い線を白脛(しらはぎ)で引くように、左の片膝(かたひざ)を立てた。

 膝は松崎の方へ向いている。身を寄せて重心を置いた右側には、美しい(ひと)と若紳士が座った縁台がある。

 まだ顔を見せないままで、向き合った青行燈(あおあんどん)の引き出しを引くと、そこに小道具が準備されていた。夢の覚際(さめぎわ)にほんのりと咲いた合歓(ねむ)の花のような白粉(おしろい)刷毛(ばけ)を手に取ると、(なま)めかしく化粧をはじめる。

 知ってはいても、それが男の子だとは思えない。耳たぶにまで黒子(ほくろ)がない、(なめ)らかな美しさである。松崎が、自分が腰かけている踏み台のあたりにいる()をしきりに気にしたのは、むやみにその子に(たか)って、血を吸ったりしたら(いた)ましいと思ったからだった。

 踏み台の蚊は、最初に腰かけたときからブーンと一匹、ブーンとまた一匹、穴から(うな)って出てくる。……足と足を()りあわせたり、頭を振ったりして払い除けていたが、日盛りを過ぎたせいなのか、おかしなことに、この(とき)を狙っていたかのように、ぶくぶくと(どぶ)から泡が()きだすように数を増した。なぜか、(むしろ)の舞台にいる白い体に(たか)らせたくないと思うのだが、それも人情だろう。後ろのほうへ、町のほうへと払いのける気持ちで、両袖(りょうそで)をばたつかせた。

 この、血に飢えて(うめ)き声を上げる虫が次第に勢いを増したことからして、天気が崩れるのではないかと心配になり、座ったままで視界の届くすべての空の様子を(うかが)ってみた。しかし、どこかの煙突の煙が、一方向に崩れたらしい(かげ)はあったものの、雨雲とおぼしきものの影はなかった。ただ、町の静けさが広がるばかりだ。そんな、人のいない、板の間の乾いた浴場のような町に、暖かい(かすみ)が輝きながら(とど)まって、(ただよ)いつつも満ち満ちている。そこに()きだした蚊は、群れをなして波間(なみま)を泳ぐ海月(くらげ)を思わせ、その、(うめ)きながら血を吸うさまはといえば、(ほこ)を小脇に、()えた虎の唄を(ぎん)じながら敵の首を()ねる武人のようである。

 これほどのまがまがしい群に(たか)られたなら、庭の()目垣(めがき)あたりに咲きかけた牡丹(ぼたん)の花も、色を失うことであろう。……蚊は(くちばし)を鳴らしながら、ひらりひらりと縦横無尽(じゅうおうむじん)に踊っている。

 しかし、のどかな昼日中(ひるひなか)妄想(もうそう)めいた光景(ありさま)を思い浮かべていられたのは、そこまでであった。

 そのうちに、蚊が踊るどころではなくなったのである。やがて舞台には、(きつね)やら(たぬき)やらが、太鼓を(たた)き笛を吹く。……本所(ほんじょ)名物の楽器に合わせて、まず踊ったのは猫が三匹。夜具(やぐ)をかぶって仁王(におう)立ちになったのは、一尺樽(いっしゃくだる)ほどの大頭の三ツ目入道で、裸の子供といっしょになって、(おおぎ)の差す手、手ぬぐいの引く手で、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)(そろ)って踊りだしたころには、俄雨(にわかあめ)を運んでくる機関車のような黒雲が、世間の不条理を集めて()()ぜたかのような、あまたの木賃宿(きちんやど)行燈(あんどん)が薄暗くなるほど、屋根を圧して、音もたてずにむくむくと、両国橋から本所にかけての空を渡ったのである。

 話が前後してしまった。

 それより前に、行燈(あんどん)姿見(すがたみ)に向き合って裸体を見せていた男の子が、(えり)もとに襟白粉(えりおしろい)を長く引いた濃い化粧でくっきりと(よそお)うと、刷毛(はけ)といっしょに白粉(おしろい)を、カタンと音をたてて行燈の引き出しにしまった。と思うと、なよなよとした立て(ひざ)のまま、客席のほうにひょいっと顔を見せた。

 島田結いの(かつら)ばかりがふさふさとして、なんと、目も鼻もないのっぺらぼうであった。

 それだけは白粉(おしろい)で埋めてしまわなかった唇が、雪景色に(とも)紅梅(こうばい)のようで、(しべ)のような白歯(しらは)を見せて、にっこりと笑う。

 美しい(ひと)はハッと身を引いて、肩に当てた白い手を落とすと、若紳士の(ひざ)に乗せた。

 (ひたい)にも(ほお)にも、どれほどの厚さか、小鼻も隠れてしまうほど、よくも塗り()めたものだ。白粉(おしろい)で消した顔だとはわかっているはずの松崎でさえ、ひと目見て、奇妙に思えるほどだった。

 先に述べた三ツ目入道が、どろどろどろと登場したのは、このときであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ