十一
十一
長年の恨みや情けを貯めこんだかのような煤にまみれながら、赤く咲きこぼれる丁子の花のように火を点し続けたこの古行燈が、針の穴を通して聞こえたような女の声で不意に口を利いたのには、松崎もぎょっとした。
饂飩屋は驚きのあまり詰めていた息を吸いこむと、きょとんとしていたが、
「おいら、嫌だぜ」と、押し殺した小声で独り言を言ったと思うと、ばさりと開けた紙幕の端に身を包むようにして、ふらつきながら幕内によろけ込んで、姿を消した。
ちなみに「私……行燈だよ」と言ったのは、美しい女であることに、松崎も気づいていた。――驚いて楽屋に逃げた子供の様子の可笑しさに、にっこりと笑みを含ませた、燃えるように赤いその女の唇を見た。
「つい言っちまったのよ」
と、女は若紳士のほうを向く。
「困った人だね」
と、ステッキを手に取って、立ちあがりそうにしながら、
「さあ、行こうか」
「いいえ、もうちょっと……」
子守の娘の袂にぶら下がった小さな子が、
「恐怖いよう」
と、子守の袖を引っぱって言う。
「こわいものかね。行燈がしゃべったんじゃないわ。あの、綺麗な奥さんが言ったんだわ」と子守は言うと、背中に背負った子を揺り上げた。
舞台を取り巻いた大勢の子供たちは、わやわやとざわついていたが、子守のことばと同時に皆、声をあげて笑った。……小さい子らがぐるりと二重、三重になって、まるで黒い塊のようになって沈黙していたのが、ここまで変に間を置いて、思い出したように、逃げこんだ饂飩屋の滑稽な図を笑ったので、そのどっというどよめきが、空き家の裏の、町を一つ越したあたりに反響して、壁を隔てて聞くようにぼやけたのが、どこか寂しい。
「東西、東西」
青月代が、あの色白の、ふっくらした童顔を真正面に向けて舞台に出ると、猫が耳を撫でるような手つきで手を挙げて観客を制しながら、おでんと書かれた角行燈をひょいと回した。そうして立て直した行燈の裏を見せると、かねて用意がしてあったその一こまが、藍の絵の具でべったりと真っ青に塗ってあった。
行燈が鏡に化けると言っていたのは、この青い面が鏡のつもりなのだろう。行燈は、上に黒布をかぶせたせいで、沈んだ青の色が際だって見える。舞台の間近にある縁台のちょうど正面に据えられていたので、美しい女の、雪のように白い顔にその影が差して、それが凄艶にも見える。
青月代はひらりと幕内に潜った。
それまではどれもこれも、吹き矢に当たった的がバッタリ倒れると細工物が現れるといった具合に、役者の登場がだしぬけで、幕に描かれた小松茸や大きな蛤の役者が十人ほど一度に転がり出しそうな様子であったのだが……。
蒼い鏡が舞台の雰囲気を一転させた。
そこに一座の立女形が、はじめて白玉のような姿を現す。なで肩をなよなよと内股を崩さず、褄を取った姿で、可愛らしい足を内輪に運びながら進み出た。一糸まとわぬ白い素肌を露わにして、雪の練り糸を操るように、しなやかな身のこなしである。
それも、背丈、体格からして十一、二の男の子が、文金高髷の鬘をつけて、恥ずかしがるのか、それとも、後の筋のための仕込みの演技なのか。胸に口がつくほどのうつむき加減で、前髪の艶やかな冷たさが、見る者の身に染みるといった風情である。すべすべと白い肩をすくめたのは、乳を隠す媚態を作って見せたらしい。片方の腕の、柔らかな肘を外に向けて、指を反らせた手で口もとを隠す動きで姿を決めて、額も見せないでなよなよと筵に雪のような踵を散らして、静かに行燈の青い紙の前に向き合った。