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「おい、出て来ねえな。おーい、大入道、出番じゃねえか、遅いなあ」

 芝居に少々の間が空いて、三人に(だま)された場面から段取りを進められないままでいる饂飩小僧(うどんこぞう)は、照れた顔をして、幕ごしに楽屋へ声をかけた。

 幕の(はし)から前場の青月代(あおさかやき)が、うつむいて(かつら)だけを(のぞ)かせたのは、黒子(くろご)後見(こうけん)のつもりなのか。しかしその姿は幕に描かれた絵の狐の面が抜けだしたようにも見えたし、使い古しの綿(わた)でこしらえた黒雲から、新粉細工(しんこざいく)で作った三日月が(のぞ)いたようにも思えた。

「まだじゃねえか、まだお前、その行燈(あんどん)が鏡にならねえよ……芝居の段取りが抜けてるぜ、早くやってくれよ」

 と言って、青月代(あおさかやき)はスポッと頭を引っこませた。――はてな、行燈が鏡に化けるとはどういうことか、と松崎は、脚がガタガタする踏み台の上で腰を乗りだした。

 美しい(ひと)も、面影(おもかげ)がそこに留まりそうなほどに、じっと舞台を見つめている。若紳士だけが気のない顔をして、背を()らせながらステッキの柄を手袋の先にもたせかけて、ぐったりとそれに寄りかかった。

 饂飩屋(うどんや)行燈(あんどん)に向き直ると、だれもいないのに、一人で気弱に挨拶(あいさつ)をはじめる。

「おいでなさいまし。……すぐに汁を温めて差しあげます。ねえお前さん、いま、飛んだ馬鹿な目に()いましてね。火も消えてしまったのでございます。へい、(つじ)の橋の玄徳(げんとく)稲荷(いなり)のお(きつね)様は、ご身分も高いお方ですので、こんな悪戯(いたずら)はなさりません。(たぬき)(かわうそ)のしわざでござりましょう。迷子の迷子の、なんて言いながら(かね)を叩いて来やがって、饂飩を八杯も食い逃げしました。……お前さん」

 と、おどけた眉毛(まゆげ)を寄せたり、離したり、目をくしゃくしゃさせたりしてしゃべっていたが、

「やっ、一言もお返事なしだね。黙然坊(だんまりぼう)様。鼻だの、口だのをぴこぴこ動かしてばかり。……あれ、だれか客人だと思ったら、――私の顔だ。道理で兄弟分のように頼もしく思えたのか。……空に流れる川はなし。七夕(たなばた)様でもないものが、銀河(あまのがわ)には映るまい。星も雲に隠れた。真っ暗」

 と言いながら、仰向けに空を見る。すると仕掛けをしてあったのか、饂飩(うどん)小僧の頭の上にある船板塀(ふないたべい)上辺(じょうへん)よりも高く、幕の内から左右に掲げられた竹に張られた真っ黒な一張りの布が、(むしろ)の上にふわりと落ちて、サッと広げられた。

 演出だと知りながらも、それを見た松崎は、突如として雲が()いたかと思ってぎょっとした。――電車を使ったとはいえ、今日は本郷(ほんごう)から遠出をしてきたのである。思いがけぬほどの(うら)らかさも長閑(のどか)さも身に()みて暖かすぎるほどだったので、思いがけず俄雨(にわかあめ)でも降るのではないかと、心配しないわけではなかったから。

 彼方(むこう)にいる新粉屋(しんこや)の姿が、なんとなく遠くにあるように(かす)んでいるのを見るにつけても、ずいぶん遠くまで来たものだという思いがする。

 さらには、他の場所ではなく、目の前にある劇場のような空き家の前の空間にだけは、本所(ほんじょ)の空一面に(みなぎ)る黒雲が、集まって吸いこまれる余地が十分にあるように見えるのだった。

 暗い舞台では、小さな(じい)さまの饂飩屋(うどんや)は、おっかなびっくり、わなわなと大げさに震えながら、

「わしの顔だ。いったいなにに映っているのか。――行燈(あんどん)か。まさかとは思うが、行燈か、行燈か?……返事をしたりするなよ。この上てめえに口を()かれてはどうにもならない。お願いだから頼むよ。……表に張った紙は、雨風でめくれるたびに何度も貼り替えたが、火事のときにはまっ先に持って逃げる何十年来の古馴染(ふるなじ)みの行燈だ。

 馴染みであればこそ、口を利くなよ。わしが呼んでも口を利くなよ。はて、なにに顔が映っているのやら。……口を利くな、口を利くな」

 ……と、背の低い子供が、頭が肩にめり込みそうなくらい、大きな(かつら)をかぶった首をすくめて、行燈を威嚇(いかく)するかのように、痙攣(けいれん)するかのように震わせた二つの(こぶし)を、耳のあたりで構えている。(ひじ)を張って、拳をしっかりと握って、腰の力が抜けたまま、抜き足差し足で歩きだす。

 目を()え、(まゆ)をつり上げて、さらに行燈に近づくと、

「はて、なにに映った顔だろう、行燈か、行燈か……口を利くなよ、行燈か」

 と言いながら、じっと(のぞ)きこむ。

 そのとたん、沈んではいるが、よく通る声が響いた。

「私……行燈だよ」

「わっ」と叫んで、饂飩屋は(むしろ)の外に飛びのいた。


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