赤毛は嗤う
私はしばらく中君の事は放っておく事にした。どうせあの様子ではしばらく姿を現さないだろうと思った次第である。
そこでこの際、念願の庭師である弥生さんとの御縁を活かし、私が感銘を受けたこのイングリッシュガーデンの素晴らしさを切々と語った。
「まるで淑女たちの舞踏会の様です♪」
私がそう感想を述べると、弥生さんは感激したらしく何とも謂えない笑みを浮かべた。
「そうかしら?何か華美な表現過ぎる気もするけど、そう言って下さるととても嬉しいわ♪さすがに物書きの先生ね♪上手い事言うわね♡そうだ!これから史郎君の事を史郎先生と呼ぼうかな?ねっ♪なかなかいい考えでしょう?」
弥生さんは庭園の事を褒められたのが余程、嬉しかった様だ。私は君付けから一気に先生待遇まで駆け登ってしまった。
その反動が怖いくらいである。でも気分は悪く無い。まぁでも私には先生はまだ早いと変な自覚は在ったから調子に乗る事は無かった。
弥生さんにとって自分の育てる花々は、まるで自分の子供の様に可愛いらしいから、その子供たちが淑女となって舞踏会を愉しんでいる様は心地が好かったのかも知れない。
私は庭園にとても関心が在ったから、次々と自分の疑問を口にした。
弥生さんは私に褒められた事が嬉しかったのか、或いは関心を持つ私の姿勢に感銘を受けたからかは判らぬが、気持ち好く私の疑問に滔々と答えてくれた。
お陰様で私にとってはとても愉しくも貴重なひとときと成ったのである。弥生さんも終始笑顔だったから、嫌なひとときでは無かった筈で在ろう。
私たちは最後に挨拶を交わし笑顔で別れた。弥生さんは自室で少し仮眠を取ると言っていた。
私はすっかり中君の事を失念していた事にようやく気がつき、早速彼を探した。最上階のペントハウスにも戻ってみたが、彼は見当たらない。
いったいどこまでとんずらをこいたのかと少々心配していると、部家の隅にある納戸が突然ギィっと音を立てて少し開いた。
私はドキッとして心臓が飛び出しそうになった。一瞬の事だったが、視線を凝らして想わずガン見してしまう。
するとその隙間から、ヒョッコリと可愛らしい若者の顔が覗いた。誰在ろう中君だった。
「何だい君か…嚇かすなよ!」
私は公然と非難する。中君はやや心配そうに私に訊ねた。
「いゃいゃ…御免!御免!驚かせちゃったね♪ところで弥生さんはもう引き揚げたかい?」
どうやら彼の中ではまだ先程の事を引き摺っているらしい。私はひとまず安心させてやった。
「中君、安心しなよ!彼女はもう怒ってない。仮眠を取るらしい。自室に引き上げたよ♪」
私はそう言ってやった。すると中君は余程、安心したのか、ゾロゾロと這うように納戸から出て来た。
「いゃ参ったよ!あれだけ過敏に反応されるとこの僕もお手上げだ。三十六計逃げるに如かずさ!」
彼は如何にも逃げた自分を正当化する。
私は呆れたようにそれに答えた。
「君という人は…私を置き去りにして逃げた上に詫びも無いとは!私が矢面に立って困ると想わなかったのかい?」
中君はそれを聞くと被りを振って「いゃ…全然!」と言った。
私は反省の色が無い中君にカッとなって口を開こうとしたが、彼に寸前で押し止められた。
「待て待て待ってくれ♪ღ(°ᗜ°٥ღ)✧君が怒る事無いだろ?君は開口一番、問題無いと言ったはずだ!だから僕は納戸から這い出て来たんじゃないか!それとも違うのかい?」
私は呆気に取られた。確かにそうである。だから反射的にそれを貢定していた。
「成る程!そうだな♪そう言ったな!」
「だろっ?ほら見た事か!じゃあ怒る事は無いじゃないか♪上手く収めてくれたんだろ?」
「あぁ…まぁそうだな!」
私は頭が些か混乱して来た。
何か可笑しい。彼の言っている事は理解出来るのに、なぜだか誤魔化されているような気にもなるのだ。
ちょうど卵が先か、鶏が先か、判らなくなるような感覚になり、気持ち悪くなって来た。
だからこれ以上の追求を止めた。何となく彼の術中に嵌まっている事は認識していたが、よくよく考えてみると、口の立つ中君に所詮この私が敵うはずが無い。
負け戦になる事が判っていて抗うのは愚の骨頂である。下手をすれば何も悪くない私の方が彼に謝る破目に成り兼ねない。
まさしく言葉を制する者は世界を制するのだ。私は早々に白旗を上げたから、中君もこれ以上の追求は止めたらしい。舌鋒宜しく巧く逃げられてしまった。
この男は本当に逃げ切る事にかけては超一流らしい。そして人を選んで事に及ぶ冷静さを持ち合わせている。
敵わぬ相手の場合には、捨て身で文字通り、逃げ切る。彼の言葉を借りるとすれば三十六計逃げるに如かずだ。
そして言葉尻でやり過ごせる相手には、今のように舌鋒宜しく巧く立ち廻るのである。
「観察力だよ、君♪それこそが全てさ!」そう言っていた中君の言葉が蘇る。
とどのつまりは弥生さんタイプには彼の手法は効かないので争いを避け、勇気ある撤退を選ぶが、私のような中途半端に賢く、尚且つお人好しの相手には、堂々と仕掛けて行くという事らしい。
私はまた腹が立って来たので、今度こそ「中君!!」と怒鳴りつけた。
すると彼も不味いと感じたらしい。一瞬の内に飛び退いて、慌てるように納戸に飛び込み、顔だけ出してこちらを窺っている。
さすがに私も阿呆らしくなって来た。すると中君は泡を食ったように口を開いた。
「さては君たちは結託したな!二人して僕を貶めようなんて…君たちに手を差し延べた僕をこんな納戸に押し込めて、嘲笑うとは!これじゃあ、まるで"軒先を貸して母屋を取られる"ってなもんだ。反乱だ。下克上だ。革命じゃないか!」
中君は泡を食うとより饒舌になるらしい。
けれども理論が千切れ跳ぶと、そこには衝動しか残らず、乱れ跳ぶ言葉は尻切れトンボである。私は少々同情してしまった。
けれども心とは裏腹に口からは想わぬ言葉が着いて出る。私も割と毒舌家らしい。
「いゃいゃ…納戸に閉じ隠ってるのは君じゃないか?頭隠して尻隠さずとは恐れ入ったな!」
すると中君は即座にそれを否定した。
「そんな事無いぞ!尻は隠してる。それを言うなら尻隠して頭隠さずだ♪」
これでは最早、ガキの喧嘩である。私は潔く手を引く事にした。
「あ~判った!判った!降参だ。君を尊敬する私をこれ以上ガッカリさせないでくれ。頼むよ…」
すると中君は急に調子を取り戻したらしい。
「えっ!本当に?」と言って、またぞろ納戸から這い出して来た。何とも都合の好い奴である。
私は溜め息混じりに「本当さ!」と答えた。
彼が私にしてくれた事には感謝している。そして犯罪の現場では臆さず闘い、将来のある娘さんを助け、私の危機をも救ってくれたのだ。
そんな彼をこれ以上貶める訳には行かなかった。それにこんな身内の事で慌てふためくなんて、存外可愛らしい所があるじゃないかと想ったのである。
そして彼は案外、煽てに乗り易い人物らしい。私は今後、これは使えるとほくそ笑んだ。
私は彼にアップルティを煎れてやった。その中には蜂蜜をたっぷりと入れてやる。サ店の時の恩返しだ。
だから彼に倣った手法を使った。けれども落ち着かせるだけじゃない。ブドウ糖は頭の回復をはかると同時に、回転にも役に立つ。
彼のような頭脳派には脳細胞の活性化は欠かせないだろうとの慮りである。
「へぇ〜こりゃあいい!フレーバーティなんて邪道だと想っていたが、なかなかいけるね♪」
中君はとても喜んでくれた。
「私はストロベリーティも好きだね♪」
私は彼が殊更に褒めてくれたので気を好くした。
「そうかい?じゃあ今度試してみるとしよう♪」
彼も私の気遣いを感じたのか、そう答えた。こうして我々は仲直りする事が出来た。
中君は時間の経過と共に完全に立ち直った。もう納戸に入る気は無いらしい。
夕方の郵便が最終を迎える頃になると、そそくさと一階ホール前のメールルームに下りて行った。ところがいつまで経っても戻って来ない。
もうそろそろ夕食の時分だから、食事でも買いに出たのかなとも考えたが、それなら私に一言くらい声を掛けて行くだろうと想った刹那に、ふと嫌な予感が頭を過った。
『まさか!また弥生さんと何か在ったのかしらん?』という事である。私は想わず『まさかね♪』と笑い飛ばした。
でも仮にそうなら、この私にも責任がある。私はヒヤリとして居ても立ってもおれずに、ペントハウスを飛び出して廊下に出るとエレベーターのボタンを押した。
扉が開いた瞬間に私は余程、慌てていたのだろう。中の状態を確認もせずにそのまま踏み込もうとした。
エレベーターのボタンを押したのは私だったから、気にも留めていなかったのだ。
すると誰かにぶつかった。中君ならまだしも、弥生さんだった日には大変である。幾ら行動的で快活な彼女であっても、所詮は女性に違いない。
怪我でもさせたら大変である。私は改めて相手を確認して謝ろうと想った時に、相手の方から声を掛けて来た。
「オゥ~ソゥリィ♪ワタシ、アナタニブツカル、コレヨクナイネ!アヤマルヨ♪」
なんとそれは外国人の方であった。しかも赤毛の眼鏡を掛けた青年である。
私は驚いてしまって、咄嗟に固まった。
すると彼は私を認めて、おそらくは中君ではないと想ったのだろう。改めて階を確認するような仕草をすると、何か閃いたように私に訊ねた。
「ココハ、テンフロアーネ!ココ、アタル ノ スマイ!アナタ カレノ フレンドカイ?」
何とも、流暢な日本語には程遠いものの、片言でもこれだけ喋れるのだから大したものである。しかもその姿勢には一切、 迷いが無かった。
私などは片言の英語が喋れるといっても、果たして彼の様に戸惑う事無く、堂々と話し掛けられるだろうかと疑問を感じた。
私が臆病なのか、はたまた日本人そのものがシャイなのか、それはこの私にも判らない。けれどもどうやら外国の方には恥ずかしがり屋さんは居ないのだろうと、勝手に思い込んだ次第であった。
私は仕方なく、彼の言葉に答えた。ぶつかったのには少なくとも、こちらも半分は非があるのだ。謝らない訳にはいかなかった。
その時に私の頭の中に突然神が降臨した。まぁ端的に言えば閃いたのである。
『そうだ!何で気がつかなかったんだろう?オウム返しの手法があるじゃないか♪』
私はこれでも小説家の端くれだから、相手との意思の疎通を図る際の聞き方話し方の手法は学んでいた。
オウム返しとは相手の言葉をそっくりそのまま返す手法なのである。私はそれを少々応用する事にした。
まぁとは言っても独学だから、果たしてどこまでやれるかは判らない。でも今回については可能な気がした。
つまりは相手が使った言葉でオウム返しすれば好いのである。相手も自分が使った言葉で在れば習得していて理解も出来るというものだろう。
『私ってばナイス♪とにかく中君が戻るまでは何とかしなくては!』
私は少々悦に入っていたが、何を言っても初めての試みである。当然緊張はしたものの、勇気を出してその第一歩を踏み出した。
「オゥ~イエース♪ワタシ、アナタニブツカル!コレヨクナイネ、アイムソーリーヒゲソーリー♪」
私は堂々とそう告げた。これでひとまずは安心だ。少なくともぶつかった事は謝れたのだ。
赤毛の青年は一瞬、『ヒゲソーリー?』と小声で呟いたものの、こちらの本意に気づいたのだろう。大きく頷くと「NEVERMIND!!」と答えた。
私も「NEVERMIND!!」くらいなら判る。「気にするな♪」と言っているのだ。文脈は理解不能だし作れないが、単語ならある程度判るのは受験戦争を生き抜いて来た証であった。
「オウカイオウカイ♪」
私は第一声が上手くいったものだから、少々調子に乗る。おそらくコイツは英国人だ。
中君は英国在住が長かったから、彼の友人なら英国人だろう。で在れば、米国で「オーケーオーケー」という言葉は、英国では「オウカイオウカイ」に成る筈だ。
『どうだ!私だって英国の発音は出来る!』
私は止せばいいのにかなり天狗になっていた。"気にするな"と言われれば、"判った判った"で正解な筈である。
赤毛の青年は「Sure!」と答えた。これは同意してくれているのだろうと悦に入った。
まぁ私は知らない事だが「勿論さ!」と赤毛の青年は言ってくれたのだから間違いでは無い。
私はこの調子で彼の質問②に取り組んだ。彼は確か『ココハ、テンフロアーネ!ココ、アタル ノ スマイ!アナタ カレノ フレンドカイ?』と聞いた筈である。
私は南無三と唱えてこの質問に挑んだ。
「イエ~ス♪ディス フロア ナンバーテン!アタル リブズ ヒィア♪アイ アム アタルズ ベリーベリーナイスフレンド!」
『おやおや?』
私はまたまた悦に入る。
『こりゃあひょっとして上手く言えたかも!』
調子に乗った私はオウム返しをしなくても、いつの間にか片言の英語で喋っていた。そしておそらくは上手くいった筈だと確信していた。
ところが何の前振りも無く、一方的に喋ったものだから、赤毛の青年は一瞬、『??』と頭を捻った。
けれども勘の良い相手らしく、すぐにそれが自分の質問に対する返事だと気がついた様だ。赤毛の青年はニコニコ笑って頷く。
「you are good at english!」
そう言って私の手を取ると、嬉しそうに握手してくれた。私は彼が何を言ったのかは判らなかったが、さぞや褒めてくれたのだろうと思い、話を合わせた。
「イエ~ス♪アイム グット アット イングリッシュ!」
私がそう言った瞬間に赤毛の青年はプッと吹き出して、腹を抱えて笑いだした。
どうやらこの青年は笑い上戸らしくなかなかそれが収まらない。私は何を間違ったのか判らなかった。
赤毛の青年は「君は英語が堪能だね!」と褒めてくれていたのだが、私はオウム返しをしたものだから、「私は英語が堪能です!」と答えてしまったのである。
勿論、そんな事は私には判らないから、なぜ彼が笑い出したのかも当然の如く判らなかった。
本来、「私は英語が堪能です!」なら英語では「i am fluent in english!」などと言うのだが、彼も片言の日本語が出来る人だから、私の間違った英語でも理解出来たのだろう。
要は彼はお世辞を言ってくれたのに、私は悦に入って自慢した事になるのだ。勿論、私が英語が堪能で無い事は彼も承知していたから、ゲラゲラ笑い出したという訳だった。
そりゃあそうである。肝心の「私は英語が堪能です!」という言い方すら間違っているのだから自明の理であった。
私は訳が判らず、「イエ~スイエ~ス♪」と不発弾の様な言葉を繰り返すのみだった。すると彼はまたまた壺に嵌まった様に笑いが止まらなくなってしまった。
私はそれを肌で感じ取り、何故か無性に虚しく成っていた。私が困り果てていると、突然、「チン!」と言ってエレベーターの扉が開いた。
『中君だ!』
そう私が安堵の溜め息を漏らした瞬間に、赤毛の青年もそれに気づいた様に振り向き、「Ataru!!」と叫んだ。