私の子供を殺したのはだぁれ?
こうして私こと三枝史郎は如月中君の好意を入れて、ここホワイトヘブンマンションの新しい住人と成る事になった。
私はさして大した物を持っていた訳でも無く、在るとすれば四畳半のボロアパートで物書きをする為に日々向かっていた机と炬燵、そして資料や本を並べていた本棚しか持っていなかったので比較的身軽だった。
だから直ぐに大家さんに暇乞いをして、彼の用意してくれた部屋に越してくる事が出来たのである。
彼は親切にも引っ越し用のトラックを手配してくれて、自ら運転をして引っ越しのお手伝いに来てくれた。
その温かくも優しい心に私は感極まった。彼がしがない物書きでしか無いこの私を求めてくれて、ここまで厚く遇してくれる事に感謝したのである。
それでも中君は気にも止めていない様子で、淡々と手続きを踏んでくれた。私は唯々彼のするがままに新居に移る事が出来たのである。
「さぁ君の望んでいた通り、ここ最上階の僕のペントハウスの続きの部屋を明け渡した。当面は君も慣れが必要だろう?だからひとまずは続きの部屋の扉には鍵を掛けておいた。これでしばらくは君も僕もプライベートは守られる事に成るだろう。フフッ…まぁこれはひとり暮らしが長く続いた僕自身が馴れる為でも在るがね♪」
中君はそう言ってはにかんだ。頬に出来た笑窪が彼の照れを感じさせた。
私は謝意を表して頭を下げた。
「有り難う♪君には感謝しか無い。昨日までの私には考えられなかった程の待遇だ。プライベートを慮り、部屋を別けてくれた事にも感謝したい。徐々に慣れて行くつもりだ。何しろ私が図々しくもここに住みたいと願ったのは欲からじゃない。君と生活を共にしたいと願ったからだ♪」
「あぁ…そんな事は承知している。僕にとっては想定内の事だからな!第一、僕も常にここに居る身の上でも無いから、不在の時はこの続きの扉は開けて置く事にする。そうすれば君も僕の蔵書を自由に閲覧する事が出来るだろうからね♪」
「それは助かる!君の蔵書には驚いたからね♪古今東西のあらゆる文献が揃っているからな!図書館の比じゃ無いものな♪」
「ハハハッ…まぁね♪でもその殆どは諸外国の原文だから、君には少々辛いかもな!」
中君はそう言って微笑む。彼の言葉は正しい。
私も片言の英語くらいは出来るが、余り詳しい資料は読めない。結果、彼に要約して貰う事に成るだろう。
「まぁ僕が不在の時には、良い相手がいるよ♪その娘は水無月弥生さんと言って、ここホワイトヘブンマンションの庭園の管理をして貰っている。後で紹介してあげるよ♪彼女も英国在住が長かったからね!それにあの娘は英国ロイヤルアカデミー出身で特級庭師の資格を持った由緒正しい身の上だ。大抵の原文ならば読みこなせるだろうからね♪」
「あの素敵なイングリッシュガーデンの産みの親だね!そう言えば紹介してくれると君は言っていたね♪それは楽しみが尽きないな!」
私はどんな女性かと早速想い描いていた。物書きの謂わば癖である。妄想癖の産物だった。
中君は溜め息混じりに言葉を挟む。
「そんなに喜んでくれたら、彼女も嬉しい事だろうな!僕に言わせれば、こんなちっぽけな庭園の管理で満足度している彼女の気が知れないけどね♪まぁそれでも頼まれればあの娘も他所の庭園の造成の相談を受ける事も在るんだけどね!」
中君の話では英国ロイヤルアカデミー出身の特級庭師は各国の首脳レベルの依頼を受ける程の腕前らしい。
かくいう彼女もホワイトハウスの庭園の手入れを請け負った経験も在るという事だった。本来ならば引く手あまたな身の上だそうだが、その殆どを断り今はここに専念していると云う。
「彼女は僕に感謝していてね、僕の傍で庭いじりをしてくれているんだが、実に勿体無い事だよ♪その腕を活かしてくれれば僕も嬉しいんだが、こればかりは頑なな彼女には強制出来ないからね!好きにさせているという訳だ♪」
中君はそう説明してくれた。何でも彼女が危険な身の上だった時に彼が助けてあげたのだそうだ。
弥生さんはそれを今でも感謝していて恩に報いる為にここホワイトヘブンマンションの庭園の管理をしているそうである。
いったい彼女の身の上に何が起こったのか物書きである私にとっては興味は尽きないが、面白半分に聞き出せるものでも無いので、そこは忖度する事にした。
いずれ自然と判る時が来るに違いない。その時をじっと待つ事にした。
「一服するかね?」
中君は葉巻を差し出す。私は勿論、自前の煙草を持っていたが、彼が差し出したのはとても立派な葉巻だったので貰う事にした。
「これどうやって吸うんだい?吸い口が無いぞ?」
私は葉巻なぞ吸った経験が無いから、手に取った後に念入りに眺めた。確かに吸い口は存在しなかった。
すると中君は自分の葉巻で吸い方を教えてくれる。彼は専用のカッターらしきものを取り出して、その頭の部分を器用に切り落とす。
「葉巻は煙草と違って吸い口を作ってやる必要があるんだ。中にはカッターでなく、専用の鋏で切り落とす諸氏もいる。まぁ簡単に言えば吸い口さえ出来ればいいんだ。だから噛み切っても吸えるけどね!」
中君はそう言いつつも、葉巻はかなり繊細なものだと教えてくれた。吸い口ひとつ作るのも、火の付け方ひとつでもその香りや味わいが違って来るらしい。
「まぁ葉巻も煙草同様に嗜好品である以上は各々が好きなスタイルで楽しめばいいのさ!ルールや決まり事は無いさ♪楽しむ事!只それに尽きるね♪」
中君は持論を述べた。確かに彼の言う通りだと私も想った。
私も見よう見まねでカッターを使って吸い口を作る。葉巻はマッチやオイルライターよりもガスライターの方が良いらしい。
中君は慣れた手つきで葉巻の先をしばらく炙ると、少しずつ火を入れて息を吐く。
葉巻は煙草と違って一旦吹き出して中の煙を追い出す。こうする事で風味が違うのだそうだ。
「煙草は放っておくと灰となって吸わなくても無くなってしまうが、葉巻は息を入れてやらないと自然と火が消えてしまうからね♪火を付け直せばまた楽しめる。そこが煙草との決定的な違いかな?中座して物思いに耽る僕向きの嗜好品という訳さ!」
中君は得意気にそう論じた。葉巻ひとつでも蘊蓄の花が咲く。
私は馴れない手つきで吸ってみたが、上手く無い。どうもやり方が悪いらしい。
中君の言うには味わいが感じられるのは二、三本試してからだという事だ。私には向かない嗜好品だとつくづく感じる経験と成った。
「まぁ何でも挑戦だ。これも君にとっては良い経験なんだぜ?君は物書きなんだから、この経験が損には成らんさ!」
中君はサラリとそう口にした。確かに仰る通りだと苦笑いする他無い。
ホームズやワトスン博士も葉巻を弄りながら談笑に花を咲かせて居たのだろうとふと私は想った。二人で嗜好品を片手に耽るひととき…それは何物にも代えがたい貴重な時間なのである。
私は如月中の顔をまじまじと眺める。彼の申し出を受けて越して来て良かったなと改めて感じた瞬間だった。
敢えて言うなら、葉巻はその切っ掛けに過ぎす、彼と二人のこのひとときを得られた事こそがその気持ちになれた原因だった。
「じゃあそろそろ弥生さんに紹介しよう♪今頃は庭の手入れに目処がついた頃だろう…」
彼は窓から漂って来る外気を愉しんでいる。私は端と気づいて口を挟む。
「そういえば君は先程からチラリチラリと外の景色を眺めていたね♪全く油断も隙も無いな!」
私の物言いに中君はニヒルな顔で応える。
「ハハハッ…そういう君こそだいぶ僕という者が判って来たじゃあないか♪そう…観察力さ!これは大事な事だよ♪」
中君は悪びれずにそう言い切る。私は気づいた事に悦に入った。
こんな私でも伊達に物書きはやって無い。何しろ将来は推理小説家を目指しているのだ。
これまでだってどんだけ図書館で資料を漁って来たか判らない。この程度の観察力なら私にも在るのだ。
まぁ中君に言わせれば、肝心のところでその観察力にも穴があるらしいが…。私はまだ喫茶店で店頭の張り紙を見逃した事を引き摺っていた。
中君はそんな事を知ってか知らずかクスリと笑うと声を掛けてくれる。
「ほらっ!何をボウッとしてるんだい?行くよ♪」
彼はいつの間にか部屋の扉に手を掛けて私を待っている。苦笑いしながら私は答えた。
「あぁ…御免、御免!すまないな♪」
私はその声に導かれる様に歩み寄る。彼は頬に笑窪を作りながら右手を差し出す。
「じゃあ行こうか!」
「あぁ♪」
私達は並んで歩き出す。チラッと確認する様に私は視線を移す。
あのアンティーク時計が今日も時を刻んでいた。
「やぁ~弥生さん、ご精が出ますね♪」
中君は声を掛ける。彼女はちょうど作業が終わって、腰に手を当てながら庭園全体を見渡していた。
作業のためか長い髪を後で束ねてポニーテールにしている。弥生さんはその声に反応する様にこちらを振り向く。
「あら?中君、おはよう♡今日も私の子供たちは元気ハツラツよ♪…でそちらの方は?」
彼女は如月中の事を中君と呼び捨てにする。彼女の雇い主であり、恩人でもある人の事をそう呼ぶのだから、二人の仲がとても良い事を感じさせた。
彼女は笑顔の素敵な女性であるが、庭師を務める程の人だから、ハキハキと物を言う。男勝りとまでは言わないまでも自立した女性のようだった。
「うん!紹介するよ♪今度僕の新しいパートナーになった三枝史郎君です。彼は僕と一緒に今後はペントハウスに住むから宜しく頼むね!色々と相談に乗ってやってくれるかい?」
中君はそう紹介してくれた。弥生さんはコクリと頷くと自然とこちらに視線を向ける。
朝の作業の後のせいかその額にはじんわりと汗が滲んでいた。
「三枝史郎です。物書きをやっております!まぁ物書きと言ってもまだ駆け出しですがね♪宜しくお願いします!」
私はやや緊張気味にそう挨拶した。するとあの素敵な声が返って来る。
「私、水無月弥生です。ここの庭園の管理をしています。こちらこそ宜しくね♪」
彼女は笑顔で歓迎してくれた。
私はホッと胸を撫で下ろす。私はこういう畏まった挨拶は昔から苦手である。
人として生を受け、この歳まで生きて来ると何度となくこういう瞬間には出くわすものだが、未だに慣れない。
まぁしょっちゅうこういった挨拶をする人は別だろうが、慣れる人って、本来余り居ないのかも知れない。
かくいう私もアルバイト先が変わる度に挨拶はするが、未だに慣れるという言葉には程遠いからである。
「何か困った事があったら、遠慮無く言ってね♪私で判る事なら協力するから!」
弥生さんは気遣うようにそう言ってくれた。
「有り難う御座います!頼りにさせて頂きます♪」
私も本来、ずうずうしい人間では無いが、こんなハイソな場所に住むのは当然初めてだったから、頼る必要があったのだ。
その辺りの事は弥生さんも心得ていて、ニコニコしながら口ずさむ。
「皆、始めはそうですもの!気にする事無いわ♪特にコイツは割といい加減だから、釣った魚には餌をやらない主義なの!頼りにならないと言った方が良いかもね♪ねぇ~中君!」
彼女は少し意地悪そうに中君を眺めた。
「チェッ♪弥生さんには構わないや!まぁでも当たらずとも遠からずか…」
彼は自身で妙に納得しているらしい。コクりコクりと頷いている。
彼自身が否定しない所をみると、彼の急所はそこら辺りにあるらしい。という事は甲斐甲斐しくも引越しまで手伝ってくれたその背景には何らかの事情があるのかも知れない。
まぁ私個人としては、親切を受けた身であるから、立場上彼を悪く思いたくは無い。否、仮に彼女の言葉が正しいとしても、そもそもこれだけの恩恵を受けて文句を言える筋でも在るまい。
私はそう想い、適当に受け流す事にした。少なくとも自立するだけの立場は与えてくれた事になる訳だから、後の事は自分でやる他無い。
それは当たり前の事であって、弥生さんに指摘を受けるまでも無かった。
「ハハハッ♪大丈夫ですよ!なるべく自分でやりますんで♪その代わり文献の参照の時だけお願いします。私はどうも外国語だけは苦手でして!」
私は正直にそう言った。
すると弥生さんは『やっぱり…』という顔で首を傾げると、中君に物申す。
その中君は『余計な事を…』という目つきでこちらを睨んでいた。
「中君~♪ちょっと良いかしら?」
「はい!何でしょう?弥生さん…」
「そういう事は軽々しく口に出す事ですかね?」
「いぇそれは…」
「言い訳しちゃうのぅ?」
「いぇ…すみません!」
「だよねぇ~♪だよねぇ~♪いつも事前に相談しろって、散々、口酸っぱくして言ってるもんねぇ~♪違った?」
「いぇ…真にその通りで御座います!」
中君はいつの間にかシュンとしている。私は彼のそんな顔を見た事が無ったので驚いてしまった。
この二人の関係はいったいどうなっているのだろうと、逆に心配になった程である。これではどちらが雇い主なのか判ったもんじゃ無い。
弥生さんは畳み掛ける。
「私もやりたくないっつ~てんじゃないのよ!人助けは大いに結構だわ♪でもね、私にだって細やかな自由時間てもんがあるの!だから事前に相談してって、いつも言ってるよね?なのに何でいつも寝耳に水なのかしら?誰かさんには学習能力は無いのかなぁ?それとも何か!私には自由は無いと?」
「いぇいぇ…滅相も無い事で御座います。僕の配慮が足りませんでした。以後、気をつけます!」
「何度言ったら気が済むんだぁ〜オイ、コラァ!」
平身低頭の中君は最後は一喝された末に、私を残してピュ~と一目散に逃げてしまった。
そして中君が完全に逃げてしまったのを見届けると、弥生さんはニンマリと笑って私に振り向いた。
「御免なさいね♪お見苦しい所をお見せして?誤解しないで!痴話喧嘩じゃあ無いのよ♪あいつ、あの調子で私の子供を過去に何度も病にかけたり、殺したりしているのよ!全く、糞いまいましいったら無いわ♪だから怒ってるの!だって幾ら言っても直さないんですもの。挙げ句の果てに必ずとんずら決め込むんですのよ?酷くありません?」
弥生さんは業を煮やしたようにそう告げた。
私は一瞬、『はい?』と驚き、彼女が喋り終えるとおもむろに確かめる。
「あのう…」
「なぁに?」
弥生さんは中君に怒っているだけなので、今の所、私には優しいままだった。だからこの際、はっきりさせる所はしておく事にした。
「如月中が貴方の子供を何度も病にしたり、殺したりしたんですか?それはいったいどういう…?」
私は訳が判らない。考え過ぎるとおよそ愚にもつかない想像まで頭の中を駆け巡る。
『子供?子供って誰だ!この二人の子供って事か?でも病は判るが、何度も殺すって何だ!本当の事なら、彼女に怒られるだけじゃ済まないだろう?まさか…』
私は余計な事にまで頭が及び、只一人、顔を真っ赤にしてしまい、却って弥生さんに心配されてしまった。男なら誰でも身に憶えのある些細な事である。
すると弥生さんは不思議そうな顔をしていたが、こういう時に大人の女性は勘が良い。私の顔が真っ赤に染まった事で、私の考えが手に取るように判ったらしい。
彼女は呆れながらもその頬を染める。そして私の思い込みを否定した。
「まぁ…だから痴話喧嘩じゃないの!比喩よ比喩!!私の子供たちって言ったら、この庭園のお花たちの事じゃあ在りませんか!そういう事なのよ?」
弥生さんは少し怒ったようだが、すぐに許してくれた。自分も紛らわしい言い方をしたと想ったらしい。
そういえば彼女は挨拶の折りに「私の子供たちは元気ハツラツ…」と言っていた気がした。
私は想わず苦笑し、自分の余りにも下品極まりない想像に焦ってしまった。私はこれでも女性の前では今までずっと紳士としての嗜みを守り、貫いて来た。
失礼極りない想像をしたものだと自分を恥じた。はっきりと口に出した訳では無いにしろ、不快な気分にはさせた事だろう。
私は只一言、「面目無い!」と素直に謝る。そして慌てて頭を下げた。
弥生さんは利発な女性だから、すぐに察して許してくれた。そしてクスリと笑った。
「あのおバカさんが悪いのよ♪全く!植物愛護協会があったら、いの一番に訴えてやるわ!」
そうメンチを切った後に私に軽く目配せする。
私はプッと吹き出すように笑うと、彼女を全面的に擁護した。
「弥生さん♪私が彼に就いたからには、少しずつ諭してみせますよ!この世の中、完璧な人はいません。でも必ずや更正させてみせます!」
私は力拳を作った手で真剣に請け合った。
それを認めて、弥生さんは然も可笑しそうに微笑んだ。
「そうね♪あいつが愛しのペントハウスを提供する程の貴方なら、それが出来るかも知れないわね♡これから宜しくね♪三枝史郎君!」
弥生さんは私を頼もしそうに見つめてそう答えた。弥生さんに初見で早くも君付けされた私は、自分が彼女に認められたのだと感じて、素直に嬉しかった。
私もどうやら彼女の軍門に下った様であった。