一本の矢
「んじゃ、夏帆に言われたことを意識してやってみろ。俺は水中から姿勢を見ててやる」
「わかった」
六メートルほど前に移動すると、俺はそこで待機。
俺が位置に着くと、セラムが手を挙げて身体を沈める。
そのタイミングで俺も身体を沈めた。
次の瞬間、水の中でズウウンッと低い音が鳴って、俺の横をセラムが通り過ぎた。
……非常識な脚力だ。
「ジン殿、どうだ!」
蹴伸びを終えたセラムがプールの中ほどで立ち上がった。
「バカ! 落ちかけてるぞ!」
寄ってくるセラムの水着がきわどいことになっているのが気づいた俺は、慌てて指をさして指摘した。
「……え? わわっ!」
俺の言葉を理解していなかったセラムだが、視線を自らの胸元に落とすと慌てて腕で隠した。
なんか全部が見えない分、逆に煽情的になっている気がする。って、俺はなんてことを考えているんだ。慌てて視線を逸らす。
「早く結び直せ」
「あ、ああ」
驚異的な身体能力から繰り出される推進力の強さに水着が堪え切れなかったのだろう。
姿勢が微妙にずれていたせいか水の抵抗が強くかかったことも原因だな。
「もういいか?」
「う、うむ。大丈夫だ」
おそるおそる振り返ると、セラムの水着は正常な位置に戻っていた。
落ち着いたら落ち着いたで気まずいな。
「……どうだった?」
「胸についての感想を求めているのか?」
「違う! 蹴伸びの方に決まっているではないか!」
「いや、今の言い方だとそう捉えても仕方がないだろ」
「誰がそのような破廉恥な感想を求めるものか!」
言われればそうだが、気が動転している時にややこしい言い方をしないでもらいたい。
「強く蹴り過ぎってことは言うまでもなくわかってるな?」
「面目ない」
「その他の姿勢については腕と頭が下がっているのが気になった。もう少し力を抜いて、基本姿勢の維持を意識したらどうだ?」
あまりに早かったので微かにしか見えなかったがセラムの姿勢は下に下がっているように見えた。もっと真っすぐな状態を維持できれば、綺麗に進めるはずだ。
「わかった。意識してやってみよう」
助言をすると、セラムはレーンの端まで戻る。
夏帆のやってみせた姿勢を思い出すように再現し、もう一度再チャレンジ。
セラムの身体が沈むのに合わせて、俺も水中に戻る。
セラムが壁を蹴り、両腕を前に伸ばした。
しっかりと加減ができているようで衝撃で大きな重低音が鳴ることはなかった。
一般人並の脚力によって、セラムの身体がスーッと前に進む。
豊かな胸が水中で大きく揺れて――じゃない、何を見ているんだ。
さっきのアクシデントのせいで変なところに意識が向いてしまう。
俺は邪念を振り払って姿勢のチェックへと移る。
今回はきちんと脱力しているからか腕と頭が真っすぐに前を向いている。
横から見た時にセラムの身体がしっかりと一直線になっていた。
お陰で蹴伸びをした際も前に進んでおり、底に沈んでいたり、大きな減衰をしていることはなかった。
推進力がなくなるまで進むと、セラムが水中から顔を出す。
「どうだ!?」
「問題なくできてると思う」
「そうか!」
セラムの蹴伸びを確認すると、俺たちは一レーンの方に視線をやる。
そちらではアリスが蹴伸びを行っていた。
こちらはセラムのようにすんなりとはいかず、まだ合格ラインとは言えないようだ。
「アリス殿、身体の力を抜いて一本の矢になるのだ!」
アリスが顔を上げたところでセラムが駆け寄って妙なアドバイスをする。
「……わかった。やってみる」
それでどれだけ理解が深まるのかは謎だが、アリスはこくりと頷いてレーンの端に戻る。
俺たちが見守る中、ゆっくりと水中に沈んで蹴伸びをした。
アリスの足が壁を蹴り、小さな身体が真っすぐに進む。
一瞬、身体がぐらついたように見えたが、姿勢はしっかりと真っすぐになっており、綺麗に前に進んだ。
程なく進むと、アリスが水中から顔を上げた。
「……なんか綺麗に進めた気がする」
自分でも実感できたが、上手くいきすぎて信じられなかったのだろう。
アリスがきょとんと呟いた。
「うん! 今のはすごく良かったよ!」
「アリス殿、見事な矢だったぞ!」
「……ありがとう。三人のお陰」
夏帆とセラムが褒めることでようやく成功した実感が得られたのだろう。
アリスは嬉しそうに微笑んだ。
感情があまり表に出ないアリスだが、それは傍から見ても笑っているとわかるほどの笑顔を見せてくれた。
よっぽど嬉しかったんだろうな。思わず見ているこちらも微笑ましくなる。
「基礎の蹴伸びができたら、他の泳ぎもすぐにできるようになるよ。次はバタ足でもやってみようか」
「……うん」
「続けて指導を頼む!」
●
「うええええええ! あたしたちがいない間にアリスが泳げるようになってる!?」
別のプールで泳ぎに行っていためぐるが合流し、第一声に放ったのがこの台詞だった。
浮きや蹴伸びをマスターし、姿勢制御や呼吸法を学んだアリスは、簡単なバタ足や平泳ぎといった泳ぎ方をすぐに覚えることができた。
アリスは元々学校で水泳を習っている。
基礎の姿勢制御などで躓いていたので泳げなかっただけで、それさえクリアすれば問題なかったのだ。
「こんな短時間で泳げるようになったの!?」
「すごいじゃないですか!」
「……夏帆やジン、セラムが教えてくれたお陰」
めぐる、ことりに囲まれ、褒められてアリスはとても嬉しそうだ。
「これで一緒に泳げますね!」
「泳いで追いかけっことかしよっか!」
「……やる」
めぐる、ことりがプールに入って泳ぎ出すと、アリスもバタ足で付いていく。
今まで泳げないことで気後れしていたようだが、これで思いっきり一緒に遊ぶことができるだろう。
子供たちが泳いでいる様子を微笑ましく眺めていると、ふと傍から嗚咽のようなものが聞こえた。
視線を向けると、合流しにきた海斗がさめざめと涙をこぼしていた。
「アリス、泳げるようになって良かったな」
「……おい、なに泣いてるんだよ。親でもないくせに気持ち悪いぞ」
「うるせえ! ずっと、あいつらの面倒を見てきた俺からすれば、俺は第二の親も同然なんだ!」
率直に言うと海斗が泣きながら器用に憤慨した。
普段、子供と接することが少ない俺にはわからない感情だな。微笑ましいとは思うものの泣いて喜ぶほどではない。
海斗みたいに長い時間を共に過ごすか、あるいは家庭を持つかすればわかるのだろうか。
「アリスは泳げるようになったみてえだが、セラムちゃんはどうなんだ?」
なんて考え込んでいると、海斗が涙を拭って尋ねてくる。
「ああ、泳げるようになったぞ。あっちの上級者コースで夏帆と泳いでる」
「おお! セラムちゃんも泳げるように――って、上級者コース?」
驚いていた海斗だが、俺の言葉の中で違和感を抱いたのか首を傾げた。
それについては説明してやるよりも見せてやる方が早い。
俺は海斗を連れて、上級者コースに分類されているレーンへと移動。
七レーンと八レーンではセラムと夏帆がゴーグルをかけてスタンバイしており、ちょうど泳ぎ始めようというところだった。
セラムと夏帆がこちらを見上げてくる。
「よーい、スタート!」
二人の意図を汲み取った俺は、スタートの合図を高らかに叫んだ。
次の瞬間、二人が大きく息を吸って水中へと沈んだ。
壁を蹴ると、水中の中で見事なドルフィン泳ぎ。プールの中ほどまで進むと、水面へと上がり、そこからバタフライへと移行。難しい手と足を合わせた泳ぎを完璧にこなして進んでいく。
「バ、バタフライ?」
「そうだな」
「セラムちゃんもアリスと同じで泳げなかったよな?」
「こっちも泳げるようになったんだ」
「泳げるっていうか、あれはもうガチの競泳のレベルじゃねえか」
並んで泳いでいる二人のフォームはとても綺麗で、速度もほとんど同じだ。
経験者である夏帆ともう競り合っているようだ。
二十五メートル先まで同時にたどり着くと、二人とも華麗にタッチターンを決めて、ドルフィンキック。水面に上がるとバタフライに移行し、こちらに向かって泳いでくる。
両者の速度は拮抗していてどちらが速いかわからない。どちらが勝ってもおかしくない速度。
固唾を呑んで見守っていると、両者がほぼ同時に壁に手をつけた。
「どっち!?」
「どっちだ!?」
夏帆とセラムは水中から顔を上げて聞いてきた。
酸素が足りなくて肩を揺らしているが、それよりも勝敗が気になるらしい。
「夏帆の勝ちだ」
「くっ、また負けか……」
結果を告げるとセラムが悔しそうに呟いた。
俺たちが来る前から何度か競争をしていたようだからな。
「ちょっと前まで泳げなかったのに、ここまで速く泳げるようになるとかセラムさん凄すぎだよ!」
「そんなことはない! カホ殿やジン殿の指導が良かったからであって、私はすごくないぞ?」
「いやいや、それでも上達し過ぎだよ! もう一回やったら、次はあたしが負けるかも」
「では、もう一度勝負をしよう!」
「あはは、やらなーい」
「なぜだ!?」
「次やったら負けるかもしれないから。今日はセラムさんのコーチとしての威厳を保ちたいし?」
「ぐぬぬぬ! カホ殿、ずるいぞ!」
「そうそう。あたしはズルい女なの」
セラムの抗議の声に夏帆はまったく動じた様子もなく、楽しそうに笑って受け流した。
セラムが勝負をしろと追いかけ、夏帆が泳いで逃げる。
「武術も並レベルじゃねえし、水泳も短期間で恐ろしいほどに上達している。本当にどこであんな子と出会ったんだ?」
楽しげな女性二人を眺めていると、海斗がしみじみとした様子で尋ねてくる。
容姿が優れているだけでなく武術も優れている。その上、これだけの運動神経を見せられれば、何者なんだと思うだろう。
ただ、それを懇切丁寧に説明する気もないので、俺は端的に伝えるだけだ。
「田んぼで拾った」
「嘘つくな」
誤魔化しているようで事実なのだが、海斗がそれに気づくことはなく、いつものように流れる話題だった。




