ウォータースライダー
『独身貴族は異世界を謳歌する』の書籍3巻発売です。
シートの上に荷物を置いたところで、俺たちはプールに入るための準備だ。
いきなり筋肉を動かしては怪我をしかねないために、ゆっくりと準備運動をする。
セラムも準備運動の必要性は理解しているのか、独自のやり方で身体をほぐしているようだった。
「アリス殿、その透明な輪っかは一体……?」
準備運動を終わらせた海斗と子供たちは、プールで使うための遊び道具の準備をしていた。
「……浮き輪」
「これに乗っていれば、泳げない私たちでも浮かぶことができる」
「ほう! それは頼もしい道具だ!」
海斗が足踏み式のエアーポンプで空気を送ると、浮き輪に空気が入っていく。
「コトリ殿のそれはボールか?」
「はい、ビーチボールです!」
ことりは手押しポンプを使って、ビーチボールを膨らませていく。
膨らんだボールを放り投げると、ふわりと浮いてバウンドした。
「よし、そろそろいいだろう」
「うん! 皆でプールに入ろう!」
俺たちの準備運動が終わる頃には、アリスの浮き輪にもしっかりと空気が入っていた。
準備を整えた俺たちはぞろぞろと移動する。
「大丈夫だろうか。私は泳げないのだが……」
「最初に入るところは腰くらいまでの浅いプールだ。泳げなくても問題ない」
「そ、そうか」
最初に向かうところが浅瀬の場所であることを告げると、セラムはホッとしたような顔を浮かべた。
目的地の楕円形をしたプールにたどり着く。
ジャンボプールの中で一番の広さを誇っている通称『流れるプール』だ。
水深一メートルほどないため、セラムのような大人であれば溺れることはまずない。
一番小さなアリスでも問題なく地面に足がつくし、浮き輪を持っているので安全だ。
「きゃー! 気持ちいい!」
「水だぁー!」
夏帆、めぐるといった女性陣が入っていき楽しそうな声を上げる中、セラムは緊張した顔で立ち止まっていた。
入り口付近で立ち止まっていると、他の人に迷惑だ。
「ほら、さっさと入れ」
「わっ! 待ってくれ。心の準備が!」
ポンと背中を押してやると、セラムの身体が前に進んで水の中へ。
「お、おお? 思っていたよりも冷たくないのだな?」
セラムがプールの水をすくいながら呟く。
「シャワーみたいに冷たい水かと思っていたのか?」
「う、うむ」
なるほど。低温の水だと思っていたのだとしたら、ビビる気持ちはわからなくない。
「さすがにあれだけ冷たいと浸かっていられないだろ」
「確かにそれもそうだ」
プールの水温は二十三度以上が望ましいと文部科学省によって定められている。
とはいえ、これは水泳をするための最低温度であり、快適に遊泳するのであれば二十六度から三十一度。気温が水温よりも高いのが条件だ。
これを満たしていないととても快適なプールとはいえないので、プール施設はそれを守って運営している。だから、プールの水が真冬の水のように冷たいなんてことはあり得ない。
「何もしていなくても身体が流されていく」
「人工的に波を起こしているんだ」
「なるほど! だから『流れるプール』なのか!」
合点がいったとばかりに手を打ち付けるセラム。
「プールの中は気持ちがいいな! 夏とは思えないほど涼しい!」
「そうだな」
こうやって水に浸っていると、真夏の気候を忘れられそうだ。
身体を水に包まれるとそれほどまでに心地いい。
緊張していたセラムも水の心地良さに目を細めていた。
「セラムさん、平気?」
「水、怖くありませんか?」
「怖かったら手を握っててあげるよ!」
「ありがとう、皆。ここなら足もつくし平気だ」
波に乗って歩いていると、前にいた夏帆たちが立ち止まって合流してくる。
「なら良かった」
セラムが無理していないとわかったのだろう。
夏帆、めぐる、ことりがホッとしたように笑った。
「しかし、こう波が押し寄せてくると抵抗したくなるな。水の中で踏ん張ることで足腰を鍛えられるかもしれん」
「……わっ」
セラムが急に立ち止まったせいで、後ろにいたアリスがセラムに激突した。
「す、すまない、アリス殿! 無事か!?」
「……大丈夫。ビックリした」
「ここでは他の人たちも波に乗って回遊しているからな。立ち止まる時は気をつけろよ」
流れるプールだからな。水流に逆らってはいけないのだ。
●
「次はウォータースライダーに行ってみようぜ!」
流れるプールでまったりとしていると、突然海斗が言い出した。
水の心地良さを味わったので、そろそろエキサイティングな遊びをしたくなったというところだろう。
「ウォータースライダーとは?」
「滑走路に人工的に水を流し、滑走者が滑り降りる遊戯施設だ」
「つまり、水の流れる滑り台だな! 面白そうだ!」
俺が必死に取り繕っていたのをセラムがぶち壊した。
水の流れる滑り台と言われると、途端にダサく思えるのでやめてもらいたい。
「じゃあ、次はウォータースライダーに行ってみようか!」
「ちょっと待て。ウォータースライダーは身長制限があったよな?」
夏帆が声を上げて向かおうとする中、俺は記憶の片隅にあるルールを思い出した。
呟いた瞬間、俺たちの視線がもっとも小柄なアリスへと集まる。
「身長制限? 滑り台を滑るのに身長が必要なのか? なぜだ?」
「詳しくは知らんが、安全に遊ぶための制限だろう」
法令などで決まっているわけではないが、ウォータースライダーのメーカーが安全に遊ぶために設けた独自の基準なのだろう。
「……アリス、身長は何センチだ?」
アリスは小学五年生。
その年代の平均身長は百四十センチほどであろうが、アリスの身長は明らかにその数値を大きく下回っている。
百二十センチあるのか……?
おそるおそる尋ねる中、アリスは腕を組んでやれやれとばかりに言う。
「……バカにしないで。ちゃんと百二十四センチある」
「割とギリギリじゃないか」
「……むう、ギリギリじゃない。四センチも余裕ある」
突っ込むとアリスが不愉快とばかりに顔をしかめる。
四センチしか上回っていないギリギリラインなのに、どうしてそこまで堂々とできるのか理解できない。
「ちゃんと身長が伸びて良かったね? 去年は制限に引っかかって、乗れなかったもんね?」
「……むー!」
めぐるが過去の出来事を暴露すると、アリスが両手でポカポカと叩く。
身体が小さく、パワーもないために、叩かれているめぐるは全く痛くなさそうだった。
去年は乗れなかったようだが、無事に成長したようで良かった。
「そんじゃ行こうぜ!」
海斗が歩き出すと、夏帆やめぐるたちも続いてウォータースライダーへ向かう。
スライダーゾーンにやってくると、青いチューブがぐるぐると曲線状になっているスライダーが鎮座していた。
ジャンボプールの中でも大人気のジャンボスライダーだ。
全長百メートル近くあり、いくつもの曲線と短い直線が組み合わさり、勾配までついているので滑り降りる時の加速は中々のものだ。
「……ジン殿、私たちはこれを滑るのか?」
「ああ、そうだ」
「…………」
頂上部にあるスライダーを前にしてセラムが呆然とする。
地上から見上げるよりも、頂上から見下ろした方がスライダーの巨大さがよくわかるからな。
「もしかして、ビビったか?」
「び、ビビってなどいない! ただの滑り台で臆するものか! とはいえ、私は勝手がわからないから最後の方でいい」
前の方にいたセラムだが、機敏な動きで俺たちの後ろに回った。
見るからにビビッている様子だが、他の奴らが滑り出せば少しは緊張もほぐれるだろう。
「あたしが一番!」
めぐるが一番に滑り口へと座り込む。
「めぐる、行きます!」
監視員が笛を吹くと、めぐるは某機動戦士のような台詞を言ってお尻を前に進めた。
水の流れに乗ってスライダーを滑り降りていき、あっという間に見えなくなった。
ただ「うひゃああ!」と楽しげな声が聞こえていた。
「次は俺だ!」
続いて海斗が滑り口に座り込む。
「蹴落としてやりてえ」
海斗の大きな背中を見ると、無性に思った。
「わかる。おにぃの背中に蹴りたくなるよね」
「へへ、監視員が見てるんだ。そんな危険な真似は許されねえよ。なあ、監視員さん?」
小悪党みたいな笑みを浮かべる海斗だったが、その言葉を聞いた瞬間に監視員は視線を露骨に逸らした。
……お、この監視員は話のわかる奴かもしれない。
「おい。なんで急に視線を背けるんだ? ちゃんとこっち見て悪さしようとしてる奴に目を光らせておけよ!」
「ピッ」
監視員が偶然見ていないのなら仕方がない。
俺と夏帆はニヤリと笑みを浮かべて、海斗の背中を思いっきり蹴ってやった。
「くそったれええええええ! 覚えてろ!」
足で押されて、海斗がスライダーを勢いよく滑り降りていった。
小悪党らしい捨て台詞だ。
「……次はわたし」
はじめてのスライダーだからだろう。少し鼻の穴を膨らませて、期待に心を震わせているのがわかった。
「アリスちゃん、楽しんで!」
ことりの言葉に頷くと、アリスはゆっくりと滑り降りていく。
海斗のことを見てみぬフリをしていた監視員は、アリスのことをしっかりと見ているようだった。
続いてことり、夏帆が順番に滑り降りていく。
残ったのは俺とセラムだけだ。
「ほら、次はお前が行け」
「う、うむ」
他の奴らが楽しそうに滑っていったことで緊張が和らいだのだろう。
セラムはビビることなく素直にスタート位置に腰を下ろした。
「カイト殿の時のように押すのはダメだぞ?」
「ん? それは押してくれという前フリか?」
「違う! なぜそうなるんだ!?」
手をわきわきとしながら近寄ると、セラムが涙目になる。
いや、押すなよって言われたら押すのが定番のやり取りなのだが、異世界人のセラムにはそんなお笑いの定番などわかるはずもないか。
「冗談だ。それより早く行け」
「う、うむ。では、行ってくる!」
笛が鳴ると、セラムは覚悟を決めたような表情で一気に滑り降りた。
「お、おお、おおおおおおお!」
初めてのスライダーに興奮の声を上げるセラムは、水流に乗っかってあっという間に見えなくなってしまった。
今頃、スライダーに揉みに揉まれているのだろうな。
滑り終わって驚くか、興奮しているセラムの顔が浮かぶな。
そんなことを考えながら座って待機していると、ピッと笛が鳴った。
滑り口から仰向けになって滑り降りる。
傾斜と流れる水が俺の身体を一気に流してくれる。
ドンドンと俺の身体は加速していき、いくつもの曲線を進んでいくのがとても爽快だ。
しばらく身を任せて進んでいくと、不意に妙な声が聞こえた。
「ど、どど、どうすればいいのだ!?」
セラムの声だ。
スライダーはまだ中腹地点で最低あと五十メートルはある。
それなのに先に滑り降りたセラムの声が近くでするのはおかしい。
「セラムか!?」
「ジン殿! どうすればいい? 途中で止まってしまったのだ!」
「まじか!」
ウォータースライダーでたまに起きてしまう現象だ。
水流が足りなかったり、間違った体勢で滑るなどをすると極まれに起こってしまう。
このままではセラムに追突してしまう。今のスピードのままで突っ込めば、二人とも大きな怪我をしかねない。
「ちょっと待ってろ! 傍に行って押してやるから変に動くな!」
「う、うむ!」
セラムに声をかけると、俺は意図的に上体を起こした。
こうすることで上半身の体重がお尻にかかり、大きな摩擦ができて滑りにくくなる。
それから両腕をスライダーの壁につけて、摩擦で火傷しない程度にブレーキをかける。
スピードが乗っていたためにすぐに止まないが、徐々にスピードを落としていく。
ブレーキをかけながらゆっくりと進むと、二十メートル先で止まってしまっているセラムを見つけた。
「ジン殿!」
泣きそうな顔になりながらこちらを振り返るセラム。
はじめてのスライダーで止まれば焦るよな。
いつ後ろから人が滑り降りてくるかわからないので、怖くなる気持ちもわかる。
「ほら、押してやるから前を向いてろ」
ゆっくりと滑り降りた俺はセラムの後ろにつく。
速度を殺しているために俺とセラムの身体に衝撃がくることはない。
だが、それとは別の衝撃があった。
それは水着姿のセラムに密着してしまうことだ。
俺とセラムの柔らかな肌がピッタリとくっ付くのがわかった。
肌の感触が伝わったのは向こうも同じなのだろう。セラムがビクンと身体を振るわせた。
あの夜と肌のぬくもりを思い出しそうになり、俺は慌てて思考を振り払った。
「ほら、押すぞ」
「あ、ああ!」
俺は努めて冷静な態度でセラムの背中を押してやった。
すると、セラムの身体が水流の強いスライダーの中央に戻ってくる。そこに後ろから力が加われば、セラムはすんなりと前に進んだ。
「仰向けになって手は胸の上に置いておけ」
「わかった!」
滑りやすくなる方法を伝えると、セラムの見事にそれを実践して滑り降りていった。
「ったく、しょうがない奴だ」
小学生の頃にウォータースライダーの途中で止まって、海斗たちと合流し、一緒に滑り降りる。
そんなくださらない遊びをしていたお陰で事故が防げたな。
世の中、なにが役に立つかわからないものだ。
さて、あまり遅くなると今度は俺が追突されかねない。
少しだけ距離を開けると、俺も同じように仰向けになって再び水流に乗って滑り降りた。




