恩に報いるために
風呂から上がると、セラムの寝室を覗き見る。
テーブルの上には空になったお粥や、容量の減っているスポーツドリンクが見えた。
「……ちゃんと飯は食べてるみたいだな」
今は眠っているようだが、一人で起き上がって食べるくらいには回復できているようだ。
クーラーの室温を調整し、扇風機の風量を調節。
体温が安定しているのであれば、無理に身体を冷やし続ける必要はない。
額に乗せている濡れタオルを回収し、再び冷水で湿らせるセラムの額に乗せた。
心なしかセラムの顔が気持ち良さそうに緩んだ気がした。
セラムの体調が悪化していないことを確認すると、テーブルの上に乗ったお粥を回収。
物音を当てないように寝室から出る。
それから台所に戻ると、土鍋や小皿なんかを洗う。
洗い終わったところで梅干しの種がまったくなかったことに気が付いた。
「あいつ梅干しの種まで食ったのか? 種は食べるもんじゃないんだがな……」
梅干しを食べさせるのは初めてだったので仕方がないか。
元気になったら食べる必要はないのだと教えてやろう。
苦笑しながら洗い終わった食器の水気を拭って、食器棚に戻した。
食器を洗い終わると、リビングがいつになく静かなことに気づいた。
夕食後はセラムと一緒にテレビを見ながら、この世界のことについて教えたり、異世界について聞いたり、のんびりと本を読んだりと過ごすことが多かった。
セラムがこの家に住むようになってからは、その賑やかさが当たり前になっていたからな。
逆に彼女がやってくるまでは、この静かさが俺にとっての当たり前だった。
しかし、今では少し寂しいと感じてしまう。
人間環境が変われば、色々と変わるというのは本当なんだな。
ソファーに腰掛けてテレビでも流し見しようかと思ったが、この家は古い日本家屋だ。
遮音性はお世辞にも高いとはいえない。眠っているセラムのことを考えると、テレビをつける気にもならない。
かといってやけに静かなリビングでボーッとする気にもなれなかった。
「……寝るか」
今日はセラムが熱中症で倒れてしまったことで作業量こそは減っていたが、看病することになって精神的に疲れた。
こんな時は早めに寝室で横になってしまうに限る。
そんなわけでリビングの灯りを消すと、俺は寝室へと引っ込んだ。
押し入れから布団を引っ張り出して敷いて、その上にゴロンと寝転がる。
部屋の照明を消して、代わりにナイトランプを点灯。
寝転がりながら読みかけの本を開き、読み進めながら心地よい眠気がやってくるのを待つ。
すると、微かに廊下から足音がした。
この家に住んでいるのは俺とセラムだけだ。
それ以外の者であれば、泥棒ということになるが、こんなど田舎で盗みに入るものはいない。
「ジン殿、起きているか?」
「起きてるぞ」
返事をすると、寝室の扉が開いてセラムが入ってきた。
俺は本を閉じ、身を起こしてセラムの方に振り返る。
「身体の調子は――」
どうだ? と尋ねようとしたところで俺は言葉を失った。
それは寝室に入ってきたセラムが急に服を脱ぎ始めたからだ。
しゅるりと衣擦れの音がし、パサリとジャージとシャツが床に落ちた。
すると、セラムの均整のとれた肢体が露わになる。
真っ白な肌に豊かな胸。しっかりとくびれたウエストから丸みを帯びた臀部。
すらりと伸びた長い手足。大事な部分はショッピングモールの下着専門店で買ったと思われる黒の下着に包まれていた。
ナイトランプの暖かな光が、セラムの下着姿をより艶やかに見せているようだった。
あれ? 俺が看病した時、下着はピンク色だったはずだが?
ジャージはそのままだがシャツは新しいものに変わっている。
ということは、自分でシャツや下着を着替えてここに来たってことか?
なんて疑問が咄嗟に頭の中に浮かぶが今はそれどころじゃない。
セラムが急に下着姿で寝室に乗り込んできたのだ。訳を聞かなければいけない。
なのに俺はセラムの肢体のあまりの美しさに見惚れ、尋ねることができないでいた。
セラムがこちらに歩いてくるだけで豊かな胸が揺れる。
そして、セラムは呆然としている俺の傍までやってきた。
「……ジン殿、私のカラダは欲情に値するものだろうか?」
「はあ?」
こいつは一体何を言っているのだろうか?
「女らしい見た目と性格をしているとは思えないが、胸はそこそこあると思うのだが……」
自らの胸元を強調しながら呟くセラム。
切れ長の瞳には嫣然として雰囲気だけでなく、不安、迷いなどと様々な感情が渦巻いているように見えた。
「何を言ってるのかよくわからんが、とりあえず服を着ろ」
「着ない」
話をするにもまずはそれからだと思ったが、セラムはきっぱりと断った。
その表情や声音はとても真剣だ。このまま話を聞くしかないだようだ。
「……どういう思考回路でそうなった?」
「今日、寝込んでいるうちに考えたのだ。私はジン殿に与えてもらってばかりで、何一つ恩を返せていないことに」
「いや、別にセラムが仕事を手伝ってくれるだけで――」
「満足だとジン殿は言ってくれるが、釣り合いが取れているとは私はまったく思えない」
反論するが、セラムがそれに被せるように強く言った。
それからセラムは深呼吸をすると、たどたどしく話し始めた。
「私は異世界人だ。こちらの世界のことは何一つわからない。唯一の取り柄である剣も魔物もいなく、戦のない世界では役に立たない。積もり積もったこの恩を返すことのできる手段はカラダしかないと思った」
最後の一言と共に下着姿のセラムがこちらに近づいてくる。
普段は何も考えていないような能天気に思えたが、実は色々と考え込んでいたらしい。
まさかセラムがここまで思い込んでいるとは思わなかった。
俺が後ずさりすると、セラムがまた一歩近づく。
セラムの身体から発せられる甘い香りを強く感じた。普段はあまり意識しないようにしていたが、下着姿でこうも近づかれると意識せざるを得ない。
「だから、ジン殿。私を抱いてくれ」
セラムはそう言いながら俺に抱き着いた。
彼女の豊かな胸がこちらの胸板に当たるのがわかった。
上半身を少し起こして、セラムの肩に触れる。
すると、彼女の肩が大きく震えた。
「そ、その、恥ずかしながら私は処女だ。できれば、優しくしてくれると助かる」
か細い声でセラムは言うと、ギュッと目を瞑った。
それは迫りくる恐怖に堪えるかのようだった。
わかりやすいセラムの反応に、沸騰していた俺の熱が一気に下がるのを感じた。
「断る」
「えっ……つまり、ジン殿は乱暴にするのが好きということか?」
「違うわ! お前を抱かないって意味だよ!」
「そ、そうか」
正確に意図を伝えると、セラムがホッとしたような顔になった。
「はあ……まったく、この程度の覚悟でよく身体を対価にしようなんて考えたな」
「覚悟がないわけではない! 初めてだからどうしたらいいかわからなかっただけで!」
「身体を震えさせてよく言うな」
「あっ」
俺の指摘で自分の身体が震えていることを自覚したのか、セラムが間抜けな声を漏らした。
「とりあえず、離れろ」
「え? いや、ここまできてそれは困る! ジン殿の方も臨戦態勢ではないか!」
セラムの言う通り、俺の下半身はしっかりと反応していた。
「当たり前だろ。お前みたいな美人に下着姿で抱き着かれて反応しない男がいるか」
「え? そ、そうなのか?」
当然の事実を告げると、セラムは顔を真っ赤にして視線をそらした。
「なんで今さら照れるんだよ。もういいから離れろ」
「う、うむ……」
なんだかバカバカしくなってきた。
セラムは迷いながらも頷くと、俺から少し距離を取って布団の上に腰を下ろした。
寝間着は着ないのかと思ったが、どうやら着るつもりはなく、このまま話をしたいようだ。
「その、ジン殿はどうして私を抱かないのだ?」
しばらく無言の時間が流れると、セラムはおそるおそるといった様子で口を開いた。
セラムが自分の立場を不安に思い、このような行為に走るのも仕方がないだろう。
不安に思うセラムのためにきちんと説明する必要がある。
「そんなことをさせるために面倒を見ようとしたわけじゃない。むしろ、そういった生き方をさせないために、従業員として住み込みで働かせることを提案したんだ」
今のセラムの生活は、俺の助けを得ることによって成り立っている。
それがなければ、セラムには戸籍や住所すらなく、まともに生活することすらままならない。一人で生きようとすれば、そういった部分を気にしないアングラなところに行くしかないわけで。これだけ容姿が整っていれば、そこでどのような働き方をすることになるかなんて誰でも想像がつくだろう。
それをわかっていて、困っているセラムを放置するのが堪らなく嫌だった。
「つまり、ジン殿は私がカラダを売って生活をしないで済むように、このような提案を申し出てくれたのか?」
「そうだ。それなのに、お前を抱いたりしたら本末転倒だろうが」
「なんだ。普段は私のことを人が良すぎると言っているが、ジン殿の方がよっぽどお人好しではないか」
俺がそう答えると、セラムは肩と震わせておかしそうに笑った。
まさにその通りなので、セラムの言葉に反論することができない。
せめてもの抵抗とばかりに視線を逸らすと、またその反応がセラムにとっては面白かったのか豪快に笑っていた。
ひとしきりセラムは笑うと、目端からこぼれた涙を拭った。
「しかし、カラダを対価にできないのであれば、私はどう恩義に報いればいいのだろうか」
先ほどに比べると随分と晴れやかな表情になったセラムだが、まだ陰がある。
「セラムが来てくれてから仕事が楽になったことは事実だ。なにせこれまでは一人で作業していたからな。戦力が単純に二倍になったわけで、例年よりも作業効率は遥かにいい」
「そうなのか?」
「それに加えて、セラムは体力もあるし、力もあるからな。その辺にいる農業経験者よりもよっぽど役に立ってくれているぞ」
「私が想像していたよりも高い評価を得ていて嬉しい。だが、それは当然のことだ。私はジン殿から食と住を保障してもらっている上に給金まで貰っているのだ。仕事を頑張るのは当然だ」
セラムが仕事面で役に立ってくれていることを伝えるが、彼女にとっては大きな価値だとは思っていないようだ。
普段は素直だが、こういうところは妙に頑固な気がする。
まだ納得した様子のないセラムに対し、俺は一歩踏み出すことにした。
「仕事もそうだが、俺にとって何より大きいのはセラムが来てくれたことで俺自身が変わったことだ」
「ジン殿が?」
「ここで農業をする前までは、俺が都会で働いていたことは知っているか?」
「ああ」
「俺はその時に同僚たちにハメられて仕事を辞めることになったんだ」
信頼していた部下を庇おうとしたら、部下と他の同僚が裏で手を組んですべての責任を押し付けてきた。どこの会社でもよくあるつまらないことだ。
「そのせいか人間不信気味になってな。こっちに戻ってきてからは、ずっと一人で農業をしていたんだ。人との距離は最低限に誰も信頼しないように」
とつとつと語る俺の言葉をセラムは真剣に聞いていた。
「でも、セラムを拾ってからは色々な人の助けを借りることになって、再び皆で集まるようになった。長いこと一人で過ごしてきた俺だったが、そんな生活が楽しかった」
セラムのお陰で疎遠気味になっていた海斗とも気兼ねなく遊べるようになった。
あまり面識のなかっためぐる、ことり、アリスとも仲良くなった。
一人で仕事をする以外にも、一緒に料理を作る喜び、美味しいものを味わう喜び、一緒に遊ぶ喜び。様々な喜びをセラムは教えてくれた。
「踏み出すことのできなかった一歩をセラムのお陰で踏み出すことができた。色々な縁を繋ぎ、人とかかわることの楽しさを教えてくれた。そんなセラムにはとても感謝している。だから、恩返しができていないなんて思わなくていい」
「そうだったのか。私はジン殿の恩に報いることができていたのだな……」
改めて礼を述べると、セラムは涙を流しながら呟いた。
自分の過去を話すのは気恥ずかしかったが、セラムの不安が取り除かれたのであればよかったと思う。
「なあ、ジン殿。私はこれからもジン殿の傍にいてもいいのだろうか?」
「いいに決まってるだろう。というか、もうお前が手伝ってくれる前提で秋の作物を植えてるんだからな」
「……そこは素直に傍にいてくれとは言ってくれないのか?」
「俺がそんな素直な性格じゃないことは、一緒に生活してわかってるだろ」
なんて答えると、セラムは苦笑しながら頷いた。
「誰だって生きていれば他人に迷惑をかけるもんだ。子供がそんなこと気にするな」
「ジン殿、私は子供ではないぞ」
ポンポンと頭に手を置きながら言うと、セラムは不服そうに唇を尖らせた。
「ん? いくつだ?」
「十八だ。既に元の世界で成人の儀を終えている」
「残念。こっちの法律じゃ、20歳以下は子供として扱われるんだよ」
「なっ! その法律には納得がいかない! 理不尽だ! 私は子供ではない! 大人だ!」
「はいはい、元の世界ではな」
憤るセラムをぞんざいになだめると、彼女は不満を露わにするように頬を膨らませた。
そんな仕草がまた子供っぽいが、言うと確実に拗ねるので言わないでおく。
「なあ、セラムは元の世界に戻りたいと思うか?」
これだけ真面目に話す機会はないと思い、俺はこれまで聞かなかったことを聞いてみることにした。
「戻りたくない気持ちがないと言えば、嘘になるが今の生活も悪くないと思っている」
「……そうか」
「前にも言った通り、私は騎士の家に生まれて、幼い頃から騎士として厳しく育てられた。私の役目を父のような立派な騎士になること、民を守ることこそが私の役目。そう思い込んでいたのだが、心の奥底では街中にいる同年代の少年少女の生活に憧れていた。だから、こっちではやってみたかった料理やオシャレ、遊びを気兼ねすることなくできて嬉しい。今の生活に不満などまったくない。むしろ、毎日が楽しいのだ。最近は少しずつ農業のこともわかってきて、野菜を育てる楽しさもわかってきたところだからな!」
屈託のない笑みを浮かべながら答えるセラム。
その晴れやかな表情を見れば、噓偽りがないことは確かだった。
セラムの言葉を聞いて安心した。
俺の自己満足なところで住まわせたところあったので、ずっと無理をしていないか心配だったのだ。
でも、セラムはセラムなりに前を向いて新しい人生を楽しんでいる。
そのことがわかって本当に良かった。
「もし、この先ずっと元の世界に帰ることができなかったらどうするんだ?」
「その時はそうだな。建前ではなく、正式にジン殿に嫁として貰ってもらうなんていうのはどうだろうか?」
「そういうのは大人になってからだな」
結婚できる年齢は二十歳以上ではないといけないなんて決まりはないが、セラムは知らないだろうから敢えて教えない。
「つまり、大人になればいいのか?」
「さあな。その時はその時になって考える」
セラムを意識していないといえば嘘になるが、そういった関係になりたくないと宣言した以上迂闊に頷くわけにはいかないしな。
布団をかぶって寝転がると、セラムがポンと布団を叩いてくる。
「これでも勇気を出して言ったつもりなのだが、男らしく頷いてくれないのか?」
田んぼで拾った女騎士、田舎で俺の嫁だと思われている。
俺とセラムの関係はそれでいい。そう、それでいいのだ。
これにて女騎士の一章は終わりです。
ありがとうございました。
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