セラムの自転車
「……ジン殿、お金が足りないのだが……」
店内に入るなり、セラムが気まずそうに声をかけてくる。
「お金なら俺が出してやるよ」
「すまない。では、足りない分は後で必ず返そう」
自転車も必需品なので俺が買ってあげてもいいのだが、金銭に関して彼女は甘えるのを良しとしていないようだ。まあ、本人が支払いたいと言っているのだから好きにさせよう。
「セラムさんはどんな自転車が欲しいんだい?」
「えっと、自転車を買うのも初めてで、どのようなものを選べばいいのかわからないのだが……」
「なら、目的や用途で絞り込もうか。長距離を走りたいのか、近くのスーパーのような短距離用で使うのか、どんな風に自転車を使いたい?」
「できれば、遠くまで行けるようなものがいい」
「遠距離っていうのはどのくらい遠くまでなのかな? 県外かい?」
「いや、そこまで遠くなくていい。一人でこの辺りまでやってくることができれば十分だ」
伊藤さんの問いにセラムが慌てたように言う。
どうやら自転車でそこまで遠くにまで行きたいわけではないようだ。
「ふむ、セラムさんは自転車初心者だし、ある程度の長距離が走れて、壊れにくいクロスバイクがおすすめかな」
「そうですね。ママチャリだとこの辺りまで移動するのはしんどいでしょうし」
遠距離ならロードバイク一択だが、初心者がいきなり選択するには荷が重すぎる。
卓越した身体能力を誇るセラムならすぐに乗りこなせるかもしれないが、価格も高いしな。
セラムはそこまでの長距離走行を望んでいる様子はないので、伊藤さんの言う通りクロスバイクがいいだろう。
「うむ、ではイトウ殿のおすすめするクロスバイクとやらにしよう」
専門家の意見に従うことに決めたセラムが頷くと、クロスバイクがずらりと並んでいる場所に移動。
「この列にあるのは全部クロスバイクさ。色々と種類はあるけど、そこまで性能は変わらないから好きなものを選ぶといいよ」
「わかった!」
伊藤さんが言うと、セラムはじっくりとクロスバイクを見ていく。
その間に俺は駐車場に戻り、自転車を持ってきて伊藤さんに見てもらう。
台座に載せると、伊藤さんは自転車のタイヤを指で押してみたり、タイヤを回したりする。
「すっかりタイヤの空気が抜けてるけど、ブレーキ関係は問題なさそうだね。ちょっと調整して空気を入れておくよ」
「ありがとうございます」
メンテナンスを伊藤さんに任せ、俺はクロスバイクを選んでいるセラムのところへ。
「どうだ? 気に入ったものはあったか?」
「これにしようと思う」
セラムが目をつけたのはブルーグレーのクロスバイクだ。
LEDライト付属、フェンダーが付いており、盗難防止にワイヤーロック式の鍵となっている。シンプルで機能的な初心者向けクロスバイクといえるだろう。
カゴは搭載されていないようだが、取り付けることも可能なようだ。
「おっ、いいんじゃないか?」
「そうか! ならばこれにする!」
元の価格は四万円のようだが、セールで二万五千円くらいになっている。
半分くらいは俺が出すことになるだろうが、これならセラムの大きな負担にもならないだろう。
「気に入ったものはあった?」
なんて話していると、メンテナンスを終えたらしい伊藤さんがやってくる。
「ああ、これがいい!」
「わかった。サドルの調節をしてあげるから跨ってくれる?」
開けたところに移動すると、セラムがおずおずとサドルを跨った。
高身長なセラムからすれば、デフォルトでセットされているサドルの位置は低いようで地面にペタンと足がついてしまっていた。
「サドルが低いね。上げようか」
「これ以上上げると足がほとんどつかなくなるぞ!?」
「自転車はそれくらいでちょうどいいんだよ」
「あと、重要なのはペダルに足を置いた時の角度かな。低すぎたら膝に負担がかかるし、高すぎたらお尻やふくらはぎに負担がかかるからね」
ポケットからメジャーを取り出し、跨ったセラムの足の角度を測る伊藤さん。
そうやって細かな調節をしていると、セラムにピッタリの調節ができた。
「よし、ちょっと走らせてみてーーと言いたいところだけど、セラムさんは初心者だもんね」
「しばらくは俺の自転車で練習させようと思うので、調節してもらっていいですか?」
「そうだね。新しく買ったものがボロボロになると可哀そうだし」
壊れても問題のない俺の自転車で練習し、乗れるようになったら自分のものを使えばいい。
そこで乗った時に問題があれば、またここに来て調整してもらえばいいだろう。
俺の自転車をセラムが乗れるように調整してもらうと、セラムの自転車を精算して店を出た。
セラムの財布にあったのは一万八千円。全部出すと、日常生活に支障が出るので、一万五千円だけを出してもらい、残りは俺が払うことにした。
「~♪」
申し訳なさそうにしていたセラムだが、自分の自転車が手に入ったのが嬉しいのか随分とご満悦だ。鼻歌を漏らしながら自転車を押して歩いている。
「その自転車を選んだ決め手はあったのか?」
店内にはたくさんのクロスバイクがあった。
俺でもかなり迷うくらいだったが、セラムは割と早く決心していた様子だったので気になった。
「色だな。元の世界で乗っていた愛馬の耳の色に似ていたんだ」
フレームを撫でるセラムの表情は、懐かしさや寂しさが入り混じったような複雑なものだった。
「そうか」
俺はセラムが乗っていた愛馬とやらを知らないので、どのように声をかけていいかはわからない。
「すまない。なんだか感傷的な空気になってしまったな」
「いや……」
こんな時どんな言葉をかければいいんだろうな。生憎と人付き合いをあまり得意としていない俺は、ただ静かに相槌を打つだけしかできなかった。
「それより自転車とやらはどうやって乗ればいいのだ? すぐに乗れるものなのか?」
空気を変えるようのセラムが明るい声音で尋ねてくる。
「コツさえ掴めばすぐに乗れるようになるぞ。せっかくだし、近くの公園で練習してみるか」
「ああ、指導を頼む!」
荷台に自転車を積み上げると、俺とセラムは車で移動して近くの公園に向かうことにした。
●
平日、昼間の公園は実に閑散としていた。
夏休みとはいえ、この炎天下の中で遊ぶ子供たちはいないのだろう。
俺が子供のころは、走り回る子供で溢れていたのだが、今時の子供はあまり外で遊ばないのだろう。皆、クーラーの利いた涼しい室内で、冷たいジュースでも飲みながらゆったりとしていたりゲームに興じているに違いない。
俺が子供の時にそんな生活ができれば、間違いなくそれをしていた確信があるな。
とはいえ、人気のない状況は俺たちにとって都合がいい。
セラムのような目立つ容姿をした女性が、自転車の練習などしていれば間違いなく注目を集めるだろうからな。人がいないなら目立たないし、事故で迷惑をかける心配もなかった。
「乗れるまでは俺の自転車で練習だからな?」
「わ、わかった」
ややもどかしそうにしているセラムだが、練習段階で乗っても新品の自転車を傷つけることになるのはわかっているようだ。




