寝る。
私的にはほとんど迫害だと思ってるんだけど文芸部の部室は旧校舎、私が卒業した後に取り壊しが決まっている古びた校舎の一階、そのどん詰まりがあてがわれている。
「あのう、部長」
部室内は四方を高い棚に囲まれ、出入り口の戸以外は壁すら見当たらない。校舎の外に回れば窓があるのを確認できるけど、部室内からだと概念でしかない。
蛍光灯は何と裸電球で、この電球が切れた時の交換対応はどうなっているのかしらと時折り不安になる。それくらいに部室内は薄暗く、おまけに埃っぽく、そして何故か湿っている。
「どうしたのだね、三倉君」
「いや、あのう……どうしたと言いますか、どうしたものかと言いますか……」
部長は長方形の一角に丸椅子を置き、そこに座っている。両足を組み、手には手近な棚から取ったハードカバーの本を持っている。
私は唯一の出入り口であるスライド式の戸の側に立っている。本来だったらスライドして出入り口となる戸は現在、スライドすべき溝にハードカバーの本が敷き詰められ、ガタガタと揺れるに留まっている。
引っ切り無しの音に辟易しつつ、ちらと戸を振り返る。
「あのう、部長」
戸には幸いはめ込み式のガラス窓などなく、のっぺりとした長方形でしかない。
その戸は火急の要件を告げるように震えている。
ふと部長の顔が上がった。ハードカバーの本から私に向けられた視線はやや険が潜まれており、機嫌の悪さを感じさせた。
「どうしたのだね、三倉君。このやり取りは既に何回か繰り返したぞ。その度に三倉君、君は二の句を告げずに右往左往している」
「……いや、あのう、それは申し訳ないと思ってはいるんですが、でもですね、部長、いささか二の句が告げられない事情というものがありましてー……」
「やっと先に進んだか。何だね? 言ってみたまえ」
「えーっと…………」
改めて振動する戸を振り返る。
「…………あのー、何やら外が騒がしいみたいなんですけど」
言う必要もないくらいに、と付け加えたかったけどやめておく。
部長はちらと戸に目をやり、それから床付近に押し込まれている本を見やる。ハードカバーの本は戸がスライドしないように横一列、更には縦に五冊ほど積み重ね、書店におけるお勧めの本! みたいに表紙を向けている。
いや、別に表紙をこっち側に向ける意味は何一つとしてないんだけど、隠し切れない几帳面さってのがあるのだ。
「…………確かに、何やら騒々しいな」
やっと気付いてくれた部長に大きく頷く。それはもう騒々しい、何しろずっと、およそ三十分ほど戸が壊されんばかりに振動しているのだ。
がたがたがたがた、耳が痛くなってきた。
「文芸部への入部希望者が殺到しているのか?」
「部長、希望的観測が過ぎます」
「どこに懸念が?」
「今現在の部員は二名、部長と私だけです」
「…………ふむ」
十月に予定されている生徒会による部の検討会、つまりは多すぎる部活動を一旦整理しようって会で廃部確定と噂されているのが文芸部だ。
一年生の入ってくる四月ならまだしも、夏休みが終わった九月にこれほど熱烈な殺到は有り得ないだろう。
部長もその辺は理解しているのか、心持ち首を傾けて振動する戸を眺めている。
「ちなみに三倉君、この騒動はいつからだ? 何やらバリケードめいたものも作られているみたいだが?」
お粗末な、と言いたげな調子に溜息を吐く。
「ええっと、およそ三十分ほど前からです。およそ三十分ほど前、けたたましい雄叫びと言いますか、学校が揺れたんじゃないかってくらいの多くの声が響き渡って、これはいかんとバリケードを拵えたところ、この有様です」
と、あっさりと言ってはみたものの、それはもう本当にすごかったのだ。
運動会での一番の盛り上がりを密閉した教室で八倍にしてみました、それくらいの、びりびりと振動すら感じるほどの大盛り上がりが突如として発生したのだ。
私は部長の向かいに椅子を置き、読書に励む姿を矯めつ眇めつしていたけど、引っくり返ってわたわたと、四つん這いで一目散に戸へと向かい、ありったけの本を棚から掻き出してバリケードを作ってしまった。
ここだけの話、キャミソールはべったりと肌に貼り付いているし、パンツは湿っている。もちろん、性的興奮とは無縁の理由で。
「…………ふむ」
部長はもう一度頷き、立ち上がった。
手にした本に手作りの栞を挟み、きちんと閉じて椅子に置き、ためらう素振りも見せずに戸へと歩み寄る。
細長い五指が戸に伸ばされ、あけすけな行動に思わず息を呑むも、部長の五指は取っ手ではなく戸の表面に触れて止まる。
しばしの沈黙。
「……あのう、部長?」
「意外と丈夫な戸だな、我が家の玄関だったら弾け飛んでいるぞ」
どうやら振動の具合に興味を持っただけらしい。
おもむろに戸を開けず安心して、どうにも気が抜けた。
部長の隣に並んで立ち、どんどんどんと太鼓みたいな音を鳴らす戸を前にする。
「どう思うね?」
「少なくとも……入部希望者ではないと思います」
「だが、少なくとも何人かが、多くとも何十人かが殺到しているようだ」
「……えーっと、何を目的に? ってことですか?」
部長は曖昧に頷き、ちらと振り返る。
「ここには何があると思うね?」
同じように心持ち振り返り、味気なくも湿気に満ちた、埃っぽい文芸部部室を見やる。「まずは……本がありますね。たくさん」
文芸部という名がかろうじて残っている理由は、それ一つだろう。学校には図書室があり、別館として建っている図書室には結構な数、この部室の百倍くらいの本が詰め込まれているけど、この部室には図書室にはない類の本が揃っている。
本来なら五百円くらいだけどプレミアがついて一万円くらいに値上がりしている本が多くあり、とりわけ私が入部した切っ掛けはそれだけど、好奇心やら興味を刺激するって意味合いでも図書室より遥かに魅力的だ。
実際、この部の隠れファン? 他の部に所属している読書好きの人とか一部の教師なんかが、時折りふらっと本を読みに来る。
戸を振り返り、はあ、と溜息を吐く。
「けどまあ、違いますね」
彼らの密やかさは、この戸の振動に比例しない。
「では、他に何がある?」
「むー……」
で、何もないわけだ。
この部室には他に何もない。棚に詰め込まれているのは本ばかりで、本以外といえば棚か椅子か、その程度だ。
部長が愛飲するミネラルウォーターのボトル、私の愛飲するイチゴオレの紙パックがあるにはあるけど、どちらにも多勢が殺到する価値はないだろう。少なくとも私は、そこまで自惚れていない。
返答に窮して部長に目を向けると、部長はさもありなんとばかりに頷いた。
「そうだ。ここには他に、二人の人間がいるだけだ」
「……………………」
あれ、もしかして部長って自惚れている?
若干視点が狭まるも、どうやら私が思っているのとは違うらしい。部長は戸に五指を置いたままで首を傾ける。
「そうなると次なる疑問は、彼らがどのようにして内部の人間を把握しているかだ」
「…………へ? どういう意味ですか?」
「どういう意味? 他にどういう意味があるのだ? 外から戸を叩いている彼らは、中に誰かがいることを分かっている。それは何故か、疑問ではないのかね?」
至って平然としている部長から戸に視線を移す。
ああ、そうか。ここは旧校舎の僻地で、取り壊しが予定されており、ほとんど使われていない校舎なのだ。その校舎の一室の戸だけが激しく打ち鳴らされている。
音が間近過ぎて気付かなかったけど、この校舎には他にいくらだって使われていない教室があるのに、音はここに集中している。
彼らはここを目的地としているのだ。
本以外のものといったら私たちしかいない、この文芸部を。
つまり部長が示した通り、彼らはどうしてか、中にいる私たちを把握している。
「いや、でも……鍵っていうか、閉まっているから誰かいるって考えたとか……」
言いながら首を振る。隣の教室だって、その隣だって、というか、この校舎のほとんどの教室には施錠がされている。
戸には窓がないし、一辺にあるはずの窓は棚に塞がれているので視認は出来ない。
「となると……音ですかね? 私たちの話し声が漏れ聞こえたとか……」
部長は少しばかり視線を下げて足元を見る。そこにはバリケードのなり損ね、本が散らばっている。
「戸が叩かれ始める前後、この部室に会話はなかった。となれば三倉君がバリケードを作る音がさぞかし豪快で、その音が彼らを引き付けたことになるな」
「……むう」
心外なことではあるが否定は出来ない。途方もないほど慌てていたので、どれだけの騒音をまき散らしながら行動したのか、さっぱりと思い出せなかった。
けれども部長と同じく床を見やれば、どうやら盛大に棚から本を掻き出したらしいことは想像に難くない。
「けど……けど、ですよ? 始まりは馬鹿でかい大騒音だったんですから、ちょっとくらいびっくりして本を散らばしたくらい、些細な問題じゃないでしょうか」
まあ実際のところはちょっとくらいびっくりしてパンツが湿ったのだけど。
「…………ふむ」
部長は視線を浮遊させた後、ぽつりと口にする。
「では、においというのはどうだ?」
「……………………」
そこに天国があればいいのに、と天井を仰いだ私は涙目になって口にする。
「な、な、何かにおいますか?」
部長はこともなげ、淡々としている。
「どうしたところで人のにおいは消せない。特にここ、およそ使われていない廃墟と近しい場所では、人のにおいは目立つのではないか?」
「……………………」
現実逃避から振動する戸に視線を移す。
確かにそうかもしれない。学校の下駄箱とかトイレで感じることだけど、明らかににおいが漂っている。それは不快なにおいだけってことじゃなく、ああ、ここって使われているんだなと感じるにおい。
こと廃墟に近しい文芸部の部室は、殊更にそのにおいが目立つのかもしれない。
例えば私のぶちまけた騒々しい音に惹かれて、次いで何かしらのにおいに惹かれて、彼らは戸を叩きまくっている?
戸を叩きまくる理由は不明ながら、においで場所が限定されているのは有り得るかもしれない。何しろ今日の私だって、文芸部の戸を開ける前から部室に部長がいるだろうってことは分かっていた。
廊下を歩いている最中から甘酸っぱいにおいがしたから。
「でも部長、ここまで執拗に人のにおいを求める彼らの目的は何なんでしょう?」
些細な疑問を口にしたつもりだったけど、私の問いを受けて部長の眉根が寄った。
「そう、全てはその一点に集約されるのだが……音にしろにおいにしろ、それら過程は現実逃避に過ぎず、直面すべき問題を先延ばしにしているだけだ」
「はあ……はあ……?」
いきなり真っ当でもあり、迂遠でもある言葉に困惑する私をよそに、部長の視線は戸へ向けられている。
どんどんどん、がんがんがん、凄まじい衝撃音が木霊する。
その積み重ねはどうやら私のバリケードを崩す勢いを持っているらしく、いつの間にやら段々と、少しずつ少しずつ、バリケードの本がこちら側に寄って来ていた。
つまるところ、そろそろ戸が破られそう。
とどのつまり、ここからは正念場だ。
「えーっと、部長」
「何だね、三倉君」
今更だしこの際だし、私は包み隠さない。
「私、部長が好きです」
部長は十二秒くらい私を見つめ、それから戸に振り返った。
「返事は寝る前にするよ」
「はい、お願いします」
簡素なやり取り、けれど部長の言葉は私の希望に他ならない。
これから数秒後、或いは数分後、もしくは数時間後、この戸が破られたって私は部長を安息に寝かしつける。
だって、そうしないと部長の返事が聞けないのだから。
これから先の私よ、頭を働かせろ、限界まで体を動かせ、何もかもを退けてやると意気込め、死に物狂いになれ、私の全てを限界以上に酷使して達成しろ。
願い、祈り、ふう、と息を吐く。
そして戸は破られた。
そこから先のことは阿鼻叫喚ばかりで思い出せない。
戸が破られる前のことは鮮明なのに、人間の記憶ってのは不思議だ。
ともあれ私は三日ぶりくらいに自宅のベッドに横たわり、吸い込まれるように眠りへと落ちていく直前、床に布団を敷いて横になっている部長の声を聴いた。
部長もこれから眠るんだなと思ったし、きっと心地良い夢を見るんだろうなと思った。