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いざ悠久の地へ(二〇一七年八月十九日)


 大きく震えた。

 アルミニウム合金で守られた左の翼が激しく撓むのが、傍らの窓から見えた。

その奥、三〇分前まで不毛の土地だったはずの地上は濃い色の緑に覆われ、緩やかな波を描く丘が幾重にも連なる。その中に転々と見える小さな点は、そう、間違いない。

不快な浮遊感があってすぐに、目を瞑ってもわかるほど高度が下がり始めた。なんとなく機内の空気が張り詰めて、話声が聞こえなくなった。多色のパッチワークのような地上がぐんぐんと迫ってきて、やがてビルが遠くの山より高くなったとき、再び大きく震えた。


機内からたった一つの荷物を担いで、僕らは機内からあのチューブのような通路へと、足を踏み出した。そしてそこで特に意味もない掛け合いをした。

「きたね!」

「到頭来た!」

 どこかの宇宙飛行士が言ったように、それは小さくて大きな一歩だった。

 黄色の三脚付きカメラが等間隔で並んだ通路。体温を測定しているらしい。モニターはこちらに向いていて、赤青黄色、それから緑のサイケデリックな私たちが一瞬だけ映り込む。受け取る荷物はなく、席の都合上出遅れたきらいがあるわたしたちだったが、そこで巻き返した。入国カウンターでは、欧州系の肌が白く鼻が高い、声の大きな人々がたむろしている。入国カードを書いているらしい。パパッと書いて揚々と審査へ向かう要領のいい人もいれば、まごついていつまでたっても立ち去らない人もいた。そして僕たちは、結局最後までそこにいる羽目になった。

 電子辞書を使ってなんとかカードに記入をするまでは良かったが、審査で止められた。審査官の彼らは英語が扱えるかと思いきや、私と同じくらいの単語発射法で、何かを訊いてきているようだったがさっぱりわからない。こちらがいくら説明しても通じない。意味を汲み取ろうとしてくれている気配もない。これは困ったぞと思っていると、眉間にしわを寄せた審査官はカードの記入欄のうち、なにやらaddressと書かれた箇所を指さした。滞在中の連絡先――そんなものはない!と言って放り投げた記入欄だ。まさか必須項目だったとは。おずおずしても仕方ないので、後ろに並んでいた小森に頼んで、ツアー詳細がまとめられた印刷物を貸してもらう。ページの右下に、そういえばツアー会社の電話番号、それからメールアドレスが書いてあったはず。差し出すと、怪訝そうな目つきでこちらを見てからそれをふんだくって、しばらく目を通すと、こちらに寄越した。間も無くパスポートが返却され、審査官が早く出てけと促すように首を傾げる。あいあいよ、と、お仕草に甘えて退場させていただいた。

 小森を待って出国ロビーに行くと、色黒のたくさんの人が柵にもたれかかってこちらを見ている。各々手に画用紙程度の大きさのプレートを持って、気だるそうだ。ツアー会社やホテルのお迎え係さんの群れ。目が合うと、「うちじゃないの?あんたら」のような表情をされる。首を横に振ると、「あっそ」といった感じでそっぽを向いた。呆気に取られていると、くすんだ青いポロシャツが近づいてくる。腹が出ていて、モンゴルの方特有のちょっと気の強そうな眉の下、サングラスが輝く中年。目が合った。

「タクシー?」

 売り込みだった。

「ノー。ツアーカンパニー」

 と、コテコテのジャパニーズイングリッシュを返す。彼は表情を変えない。

「ジャパニーズ?」

「イエス」

「コンニチハ」

「こ、こんにちは…」

 おじさんは立ち去った。

 再び呆気にとられながら、しかし私たちは私たちのお迎えの方を探す。ここで会えないなんて死活問題だ。下手したらほんとに落命しかねない。出口目の前の柵を二周三周右往左往して、そこで並んだ顔に突如変化が起きた。割り込んできたのは必死の形相の、ドングリ色の顔。頬は少しこけて、目はパッチリしている男性だ。細身に藁色のセーターを着て、手にはA4サイズの方眼紙。薄く細い字で「○○○○(本名のローマ字)」と記されていた。

 こちらがあっと驚いて手を振ると、安堵に顔をゆるませて。

それからすぐに、満面の笑みをかえしてくれた。


 私たちが乗るオンボロの中古乗用車はトヨタだ。父も言っていたが、ほんとにどこにでも走っているものだな。窓の外、交通量は極めて多い。曇り空で列をなす車のほとんどは、見慣れたマークを鼻づらにひっかけていた。

トヨタ、トヨタ、ダイハツ、トヨタ、ダイハツ、ベンツ、トヨタトヨタトヨタ

日本でもこんなに見かけない――という旨のことを、運転中も流暢な日本語で話しかけてくれるツォクトさんに、伝えてみた。彼は少し笑って、そして早口で「そうですね確かに」と返してくれた。

ツォクトさんは、今回お世話になるツォクト・モンゴル乗馬ツアーの代表取締役だ。要するに社長なのだが、送迎を担当してくれるらしい。ホームページの写真よりずいぶん痩せこけていて、いやいや何があったと思っていたら、そのあたりは彼自身がそれの遠因にあたりそうなことを話してくれた。

彼が日本語を修得したのはまず若かりし頃の留学に始まるが、実質としての現在の日本語力を育てたのは出稼ぎにあるらしい。モンゴルは春季夏季秋季の穏やかな世界とは打って変わって、冬季になると厳しい白銀の土地となる。その間客が来ないのでツアー会社としての機能は停止せざるをえず、ナライハという町(この時向かっているのがその近郊だった)で炭鉱の短期雇用に頼るか、日本まで行って土木関係の仕事に携わる他ないとのことだ。後にガイドのガル・エレデネさんに聞いた話では、ウランバートルでも冬季の仕事はできるが競争率が高いらしい。

要するに苦労人だった。

「あれ見えます?」

 とんでもない交通マナーの中をものともせず、彼は前方を指さす。そこには朽ちかけているにしてはあまりに真新しい鉄柱が、等間隔に突き出しただけ土地があった。ああ、なるほどと、勝手に納得した。現在(二〇一七年)、モンゴルの経済状況は極めて悪い。不況が続き、1円がだいたい23モンゴルトゥグルグで、チョコレート一枚が1000トゥグルグだというのを踏まえると、50円で一枚買える。それくらいに不況なので、それまで国家が総力を挙げて行っていた都市開発はどれもこれも中途半端のまま終わっていった。大統領邸の敷地内のものでさえそんな状況だったので、なるほどこれは、といった具合だ。「大変なんですね」と返してからは、お互いの国がどれだけ不況なのかの不幸自慢合戦。結局モンゴルには勝てなかった。

 ウランバートルの街中を抜けていくと、例えば中程度の高さのビルとビルの間に、時々、白いテントのようなものが目に付く。言うまでもなくそれはモンゴルの遊牧民が用いるゲルと呼ばれる住居なのだが。

「あれは、ちょうどいいんですよ」

 折りたためるし、あったかいでしょ?と、ツォクトさんは言う。

 ゲルのある場所をよく見てみるとなるほど、付近に作りかけの建築物や不自然な空き地があった。肉まんのようなテントは、そういった場所で働く土木作業員の簡易宿泊所として機能しているらしい。彼らの象徴的なアイデンティティは、ビルの合間にも息づいていた。

 一時間弱走るとあたりはビルらしいビルがなくなり、やがて草原の端のような草地が見えてきた。緑の丘はしばらく前から視界の端にある。町はずれ、ローマ字でブラザーストアと銘打たれた看板が掲げられた商店の前で車は止まる。ツォクトさんがエンジンを切りながら「これからガイドさんが来ます。お水買ってきます、二人はここで待っていてください」と言って、私たちが頷いたのを確認すると車から出て行った。車は無茶苦茶な場所に思考を放棄したような角度で停まっている。そしてそれは私たちだけではなく、他の車両も同様だった。商店を横に見る田舎へ続く道は、猛スピードで行き交うオフロードカーやセダンに占領されていた。そんな危険地帯を挟んで真向かいには開け放たれたコンテナ。中をラックに吊り下げられた工具が飾り、ところせまし。看板はなかったが、自動車の修理工かなと勝手に想像する。そんな風にぼんやりしていると、そこを通りかかった簡素なハットの貌と肌が濃く、鼻前庭に立派なひげを蓄えた鋭い眼の中年男性と目があった。思わず隠れた。

十五分程度時間が経って、助手席にツォクトさんが乗り込んできて、間も無く運転席のドアを若い男性が開けた。彼こそが、この後に目まぐるしく変わる我々の道程を敏腕でサポートし、馬の遠駆けで喉がカラカラになった僕にウエハースを渡してくれたガルさんその人だった。

 シベリアから北京へと駆け抜ける鉄の箱でできた渡り鳥は、車窓の向こう側、大きくカーブした線路に沿って我々の来た道を帰っていく。彼が後にした地は、緑に覆われた場所で、僕たちの目指す場所だった。


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