中立地帯
空の上も好きだ。今でこそお金さえ出せば簡単に行けるようになってしまって、なんとなくありがたみも憧れも薄れてしまっているような気がするけれど。開けた空間とでも言おうか、どうもそういった世界に惹かれるらしい。宇宙に行けるようになったら、きっとあの果て無き黒に恋をするだろう。隣で眉間にしわを寄せながら一生懸命眠ろうとしている小森は幼いころ、ヨーロッパのいくつかの国を転々としながら育った。なので、もうあまり飛行機の窓からの景色には興味がないらしい。勿体ないなあと思いつつ、私は、エコノミーシートの中央列左端という大変立地の悪い場所から、通路挟んで二席奥の小さな小さな窓に映る憧れを覗こうと苦心していた。航空券の予約は小森の仕事で、彼に窓側席をオーダーしたはずが手違いで、あろうことか中央列に廻された。もともと私の座席は四座席(記憶はおぼろげ)ある中央列の左から二番目という地獄のような配置だったが、駄々をこねて小森と変わってもらったのだ。その分でとりあえずミスについてはとんとん。後で原因を探ってみたが、これについてはよくわからなかった。
厚い雲の層をぶち破ったジェット機は、ぐんぐん高度を上げる。しばらく行ってベルトを外すことが許される頃になると、どの窓もすっかり空色だった。窓の外はしばらくの間そんな様子だったが、機内食を食べ終えて人々が毛布をかぶりだす頃になると橙に染まり始めた。ともすると夕焼けが拝めるかもしれない。期待に胸を膨らませていた私を尻目に、対岸の女性は無慈悲にも灰色の幕を落とした。隣で小森がせせら笑った。
国際線乗り換えカウンターには、もう誰もいない。飛行機から降りて、それから一苦労をして、北京空港の最も微妙な立ち位置のエリアで腰を落ち着かせた。入国はせず、かといって中国ではないはずのそこは、それでもやっぱり異国だ。耳に入ってくるアナウンスはまれに拾える言葉はあれどほとんどが呪文で、目の前の巨大広告は虫歯にでもなったような漢字が並ぶ。申し訳程度に添えられたローマ字は意味を拾えない。英語もよくわからないからだ。目の前を四人乗り程度の機械が通り過ぎて、その後をけたたましい足音とともに太った女性が走り去った。女性は、それを運転していた空港の職員らしい眼鏡の男性と、幾度かのやりとりをする。頭だけ振り返っていた男性がつまらなさそうに話を聞いて、それから親指を立てて後部座席を指すと、女性はあわただしくそれに乗り込んだ。さっきの二倍くらいのスピードで、乗り物は去っていった。ターミナルはずっと奥まで続いていて、やがて二人を吸い込んだ。
しばらくしてから、僕と小森は晩御飯を食べようと、空港内の中華料理屋(だと思う)に入った。ショッピングモールのフードコートの立派なやつ、といった感じ。開放感がある。シンプルな制服の店員は数人で集まって談笑していた。その数人から少し離れたところにいた、同じような服装の若い女性が近づいてくる。ピースをすると、入り口の真向かいにある席に通された。
注文したメニューは二人で同じもの。冒険はせず、写真が掲載されたそれなりの金額のものを頼んで、銀色の箸を握った。白湯に細い麺、傍らの小皿に骨付きの鶏肉が添えられている。期待に胸を膨らませて一口。見た目通りの味で、「ん、うまいね」「そうね」と軽いやりとりの後に、二、三口は各々勝手にすする。と、箸先でつまんだ麺が重くなった。欲張りをして数十本も掬い上げたわけでは無く、まるで反対側の端になにか引っかかっているような――恐る恐る少し力を入れて持ち上げる。白濁の湖面から、白い塊が波紋を立てて現れた。例えるなら、毛糸玉から綻んだ一本を持ち上げているような、そんな――いや、というかまさしくそのもので。無言でそれを湖底に戻し、箸を突き刺してほぐそうと試みる…び、微動だにしない。仕方がないのでりんご飴を食べるように玉をそのまま引っ張り出して、かじりついた。麺らしからぬ歯触りで、小麦粉の香りがした。
なんだかやりきれない心持のまま、本日の寝床を探す。話し合いの結果、翌日用いるゲート付近が望ましいということで搭乗券を確認した。しかし、ゲートの番号はない。ターミナルは合っているらしいから、少なくともガラスの向こう側で走っている、電車か何かに乗る必要は無さそうだった。しばらく右往左往していると、柱に電光掲示板があって、そこに行き先、便の番号、搭乗時間が羅列されていた。定期的に表記が英語になったり、中国語になったりしている。最も遅い時間で、午前三時の便が表示されていた。せめてじゃあということで、私たちは掲示板に最も近いところベンチに腰を下ろした。
すぐ隣をスーツケースがやかましく過ぎて行って、それから少し経つと当たり前のように静かになる。理解不能なアナウンスが響いて、それとは関係なさそうな車輪の音が頭の上を通り過ぎ、下りかかった瞼が持ち上がった。顔に被せていた帽子をずらすと、つなぎを着た初老の男性が金属バケツやら何やらが載った台車を押している。トイレの清掃かな大変だろうに、と同情しながらそのくせ他人事に、枕にしていたダウンジャケットの袋詰めを適切な位置に戻す。すわりがよくなってからもう一度寝ようと試みると、空の銅鍋を蓋ごと大理石の床に叩きつけたような音が響いた。だいたい予想がついたので、そのまま寝ようと試みて、もう一度バケツがひっくり返ってから、寝返りを打った。