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丘の頂上で


 乗馬中、臆病な馬の背ではザックを背負うのは許されていない。彼らは非常に臆病で、例えばベルトの金具がぶつかり合う音、例えば騎手が帽子を落としてしまうなど、ほんの少しの刺激で恐慌状態になる。ので、馬に乗った旅には四輪駆動車が随伴した。三菱の中古車で、フロントガラスの上にサーチライトが四つ並んでついていて、ボディ上部にはキャリア、後部座席へとつながる荷台の外開きドアにはやはりスペアタイヤがついていて、おまけに梯子も付いている。とにかくごついし、履帯などあるはずもないのに走るとキャタピラのようなキュルキュルという変な音がする。その上、後部座席の右引き戸は、運転手が運転席から体をひねって手を差し込み、無理くりこじ開けないことには開かないという厄介機能がついていた。

それでも頼れるドライバーの運転する、頼れるオフロードカーである。

旅荷物を満載している。そこにザックは預けてあった。

 馬による移動は、しばらくして草原の中に急に現れる鉄柵に囲まれた遺跡の傍らで休憩に入った。何年代のものだか記憶にないが、そうとうに古いものではあるらしい。意図的に一か所だけ曲げられ、誰でも入ることができるようになっていた鉄柵の中で軽い説明を受けた。手持無沙汰になって、石ころを屈んで物色し始める。モンゴルは化石の宝庫だ。あるいは何かあるかも。

すると隣で遠くを眺めていた師匠が座り込み、一緒になって石ころをいじくり始めた。少し驚いたが変わらず品定めをしていると、たった一つだけ、フズリナ(日本でも駐車場で見つけられる)がびっしり含まれた小石を発見した。小森に呼びかけると、それに反応するのと同時に私の手にしているのが珍しいものだと判断した師匠が、覗きこんできた。

目が合うと、彼はニカッと笑ってから、立ち上がって馬のほうに戻っていった。

 休憩後、移動に戻るのかと思いきやガルさんの一言でそうではないことを知った。

「お二人とも、乳製品は食べられますか?」

 馬を駆けてしばらく、草原の中に特に外から見ると何の変哲も無さそうなゲルに到着する。師匠とガルさんの助けで私と小森が馬を降りると、ゲルに入るように勧められた。

 中に入ると、女性二人と男性一名。それから男児が一人。鼻筋が通っているが、ユウスケさんのようにトルコ系ではなくヨーロッパの顔立ちだった。ミルクティーが出され、すすっていると、間も無くテーブルに見慣れたものが並べられた。平皿には、白い四角い固形物が薄く切り分けられ、スプーンが添えられた深いお椀には半固形状のぶよぶよした白いものが―――みるからにチーズとヨーグルトだ。どちらも好物である。食べることを勧められたのでありがたく手を出させてもらった…が、やはり勝手が違った。ヨーグルトは良い。程よい酸味に、口当たりも食べ慣れたもの。現地の方々はこれに大量の砂糖を加えて食べるらしく、少なめの砂糖で頬張る私を見て口々に「もっと入れないと美味しくないぞ」と加糖を勧める。すっぱいもの(ただし酢酸系は苦手)が好きなので大丈夫です、と空になったお椀を見せると、おかわりをよそってくれた。三杯目は腹をこわすからやめろと窘められた。

問題はチーズだ。こういうものだと思って食べるにはあまりに味がなく、また水分もない。口中のあらゆる水気を吸い取っていく。ブルーベリージャムがあるから塗って食べたらよいと促されて言われた通りに食べてみたが、美味しいかと言うと個人的な味覚としては簡単に首を縦に振れそうな気はしなかった。それでも昼ごはんがいつになるかわからないので、無理に三、四枚を口に押し込んだ。

結果的に言うと、昼ごはんの時間はそう間を置かずに訪れた。

ある程度の距離馬を走らせ、いよいよ時速六十キロで数分程度継続して駆けるようになると、体力の消耗も激しい。とは言え慣れたもんだ、先頭の師匠はさっきから機嫌が良いようで、鼻歌と歌唱とを繰り返している。定期的に、まとめた長い長い手綱をくるりと廻しては馬の尻を叩く。馬はそれに反応して尻を振るわせる。対してガルさんは正面に対し体をやや斜めに向けて、歩行中にやむを得ず鞍に打ち付ける自らの臀部の位置を調整することで、最終的に尻が痛まないようにと工夫を凝らしていた。

日本人二人は馬を止めずに彼らを追い駆け続けることが当面の課題で、うまく操れていないから、しばしば先へ行ったガルさんが後退し、馬をたきつけて前進させていた。

モンゴルでは馬に「進め」と伝えたいとき、両わき腹に下ろしている鐙に乗せた足を腹を締め付ける形で絞るか、臀部を思い切り叩くかするが、最も汎用性が高く暴力的でないのは、口をすぼめて空気を強く送り出すイメージで「チョウッ」あるいは「チュゥッ」と、掛け声を上げつつ手綱を少し引っ張るという方法である。これが難しく、ガルさんに「自分たちがやるのとあなたたちがやるので、私たちは同じ音に聞こえるのだが何が違うんだ」と尋ねると、「モンゴル人かそうじゃないかですよ」と、納得できる応えが返ってきた。

そんな風にやりとりをして進んでいくと、これまで見た中で最も大きな丘の麓に、車が停まっているのが見えた。明らかにあのオフロードカーだ。ガルさんが、お昼ごはんです、と、告げた。

この日の昼食はご飯と肉を含むいくつかの具材を一緒に炒めたものに、若干の辛さと癖があるトマトベースのソースが添えられたもので、お好みで瓶詰の酢漬け野菜を食すことができた。炒め物以外は市販のもので、いずれも日本では見たことのない代物だった。酢漬けの野菜は酢の物が苦手な私にとって香りと字面の面で既に忌避したいところであったのも否めないが、少なくとも品物の発想としては旅に便利だなと感心した。食わず嫌いも良くないので少し頂いた。うん、いけそう、と思って調子に乗ったら酢でむせた。

食後、生粋のモンゴル人の方々は楽しそうに談笑をしていたので、断りを入れてから小森と二人で、近くにある(と思っていた)岩山に行ってきたいと思うという旨のことを伝えた。「歩いていくんですか?」と言われたが、モトラドでも貸してくれる予定があるわけじゃなかろうに。「もちろん」と応えて、カメラを引っ提げて歩き出した。

岩山は、さてその斜面まで岸壁の難攻不落かと言うと、そうでもない。見た目は、成層火山の形に絞り出したホイップクリームの山頂と左斜面の中腹からやや登ったところに剥き栗のかけらを落としたような感じだ。栗が岩で、クリームが斜面。例えがスイーツなのは、私がこの原稿を書くためにほとんどのエネルギーを消費してしまっており、お腹と背中が引っ付きそうだからだ。

さらに細かく言うと、ある程度の斜面からは頂上にかけてチョコレートスプレー――岩と石の間ぐらいの大きさの岩石――がまぶしてある。というのは、麓までようやっと辿り着いてから気づいたことだった。振り返ると、さっき通り過ぎてきたオボー(モンゴルの民間における崇拝対象・施設。丘や山の頂、湖畔など様々な場所で見受けられ、またものによって利益は異なる)が胡麻より一回り小さくある。

結構遠かったね

もう近いんだか遠いんだか

斜面は登るのにやや難儀するくらいには急で、ここに来る以前から壊れかけだったお気に入りの靴はめきょっ!と情けない音を立てながら唐突に、そして頻繁に踏ん張りを投げ捨てては、私の足首を捻りあげた。幸い平生から何もない道で足をそんな風にいじめてしまっている身としては別段何ということもないのだった。

私は山頂へ。小森は左斜面側の大岩へと、いつの間にか分かれて進んでいた。稜線伝いに賢く登る小森と、疲れる分には一緒だと短絡的なものの考え方で斜面を無理くり登った私。このツケがさて、どこに出てくるのやら。

息も絶え絶え、小児喘息を患っていたころの息苦しさに似た不快は、頂上にたどり着く寸前までの話だった。

そこにはオボーがあった。錆びついた鉄棒に空色の布が幾重にも巻き付けられている。鉄棒はその根元を大量の石で覆い隠していた。強い風が吹くと、布端が巻き上げられて大袈裟に暴れる。そしてその奥には空があった。モンゴルに来てから初めてまともに見た青空。半分は純白の雲に覆われていたが、しかしその二つは食い合うことなくそれぞれをいかに引き立てられるか、その調和を目指して移ろいでいた。というのはもちろん人間側の勝手な妄想だが、そうでないと信じられないほどわざとらしく爽やかだった。その下の大地は、僕たちがやって来た景色とは全く違うそれで。ここまでが凪の海なら、あるいはここからうねる大海。どこまでも続くように見えてしかしその縁が見えた大草原は、そこより先が本当の彼方だった。一番遠くに確認できるのは雲だ。それを被っているのは肉眼ではとらえられないほどの半球状の連なりであるはず。風の強い昼に霞がかることは無いから、やはり果ては見えないのだった。振り返れば、すり鉢状の平地が広がる。光は惜しげもなく草地に降り注ぎ、まだ朝露で湿っていた全体を煌めかせた。過剰なほどにシャッターを切って、小森が登ってくるまでそこにいた。一羽の猛禽が鳴くでもなく、ただこの岩山の周りを舞っている。あれの見る世界は、ここより美しいのかもしれないと、歯がゆく思った。


午後の乗馬は斜面を登ったり降りたり横切ったりと、なんだかアクロバティックだった。臀部がいい加減痛くなってきたし、ついでに言うと腹の調子まで芳しくなかった私は、楽しいと思う反面で自分に乗馬は向かないなあと寂しく思っていた。対して小森は嬉しそうに馬を駆けている。釣られて走り出す私を載せた白馬は、今朝から別な馬に近づきすぎては蹴られかけて後ろに下がるというのを幾度も繰り返しているし、ネズミの穴に足を突っ込んで驚いて大暴れしたりと落ち着きがない。それもこれも騎手に問題があるというなら甘んじて受けよう。向かないなあとか思いながら乗馬してる人間よりも、そんな人間乗せてる馬の方がよほど気の毒だ。イテテテ。

 午後の四時半だったか。僕らはある丘の頂で、小休止をとっていた。ガルさんに貰ったガムを噛みながら、それなりに急な斜面を登る。息継ぎと咀嚼がかみ合わず、いつもより遥かに疲れる。景色は胸のすくような空模様だったが、それとは対照的に、しばらく電話をしていたガルさんが真剣な面持ちで私たちに振り返った。

「車がどっか行っちゃいまして、ドライバーさんも連絡つきません。このままテント泊するには車に載ってるテントが必要で、このまま(車が行方不明)だとゲルまで戻る必要があります」

 風は強い。斜面に群生した針葉樹の一本に馬が四頭括り付けられている。丘の上は明るかったが、林は暗い。白馬はいなくなり、全く同じ体格の濃い灰色の馬が草を食んでいた。

「私、「○×」さん(師匠)と探しに行ってくるので、お二人はここで待っていてください」

 そういうと二人は、木から素早く手綱を解きとって幾分の間もおかずに馬を奔らせて行った。残された異邦人はかーっこいいなどと特に頭を使っていない感想を呟き、そのあと、丘を登ったり降りたりしていた。それから馬が盗まれないように遠巻きに見張っていたりもした。やがて空がかき煙り、重く垂れ込んだ曇天が北西の空から濁流のように容赦なく流れ込み始めたころ、その流れに乗るようにして二頭の馬が砂利を巻き上げてこちらに駆けてくるのが丘の中腹から見えた。降りて行った。

「大きな雨雲が来ます。近くの遊牧民に頼んだらゲルで雨宿りさせてくれるそうなので、早く行きましょう。急いでください」

 急かされるまま馬にまたがり、例の掛け声とともに丘を駆け下り始めた。間も無くガルさんの言ったとおりに大粒の雨が降り始め、あたりの丘から穏やかな陽光を追い出した。雨粒は砂利を穿って王冠を作り、あちこちで放射上にこぼれ出て、やがて水たまりを作る。もろくなったネズミの穴は蹄で簡単に蹴散らされ、その度に馬は驚きいななく。必死に手綱を握ってなだめすかし、やがて辿り着いたゲルには立派な厩舎もあった。鞍から降り、ガルさんの誘導に従ってゲルに近づくと、内側から低いドアが開かれ、中年の女性が手をこまねいた。穏やかな雰囲気があったが、どちらかというと少し疲れた顔だった。扉の前で一礼をし、ゲルの中に這入る。プラスチックの小さな椅子を勧められ、湯気が立ち昇るミルクティーがそっとテーブルに置かれた。遅れて師匠がやってきたが、彼はガルさんとわずかに言葉を交わすと、二人連れでゲルから出て行った。去り際に、「車を探してくるので、ここで待っていてください」と、先刻と似たようなことを言われた。

 雨はしばらくの間その勢いを増すばかりで留まることを知らなかったが、彼らが出て行って三十分強経つと降ったり止んだりが不定期で繰り返し、やんわりと夕焼けの陽が照らす草原が、開け放たれた玄関から見えていた。完全に言葉の通じない人を家に上げるのは快くないはずだろう。私たちはお互いに談笑することもなく、ただ雨音と小さな枠で切り取られた世界の変貌を無聊の慰みとしていた。パンのような菓子を出していただいていたので、それはそれで美味しくいただいた。

 この家はいまのところ、女性三名と犬一匹だけで住んでいるように見える。というのもまず、ゲル内部の装飾が美麗であるのが特徴的だ。例の天窓から放射状に広がっている数多の細い木材は一本一本に精緻な装飾が施されており、また天井にあたるテント部はフェルトをむき出しにせず、滑らかな白色をした大きな布を噛ませることでみすぼらしさは全く感じさせられない。筒状に一周する壁面は鈍い艶消しの金色で、これもまたそれ用の布を垂らしているようだった。女性三名というのは、今現在このゲル内部にいるヒトが、私たち二人を除くと三名で、いずれも女性であるというだけのことだ。一人は出迎えてくれた中年の女性。もう一人は長女にあたると思われる、長い髪の妙齢の女性。そしてせわしなく動いては中年の女性にじゃれついている最も幼い少女はおそらく次女だろう。

長女が忙しくストーブの火加減を調節している間、少女はベッドの上で靴下を脱いで母親に持っていき、履かせてくれとせがむ。母親はまったくなにやってるんだかと、あやす程度に相手して、長女が手の空きがてらそれを履かせてやる。満足した表情の少女は不意に軽く身体をそらした後、くちゅんっ!と小さなくしゃみをした。思わずこちらの笑みがこぼれると、母親らしき女性と目があった。母親は少し微笑んで、小さな頭を撫でた後に、我が子を抱こうとした。そこへ長女が鼻紙を持ってやって来て、妹の鼻に宛がう。少し力みながら強く鼻をかんでから、出したものをふき取ってもらうと、少女は母親に抱き着いた。そういう時間が過ぎて行った。

雨は少し収まりを見せ始めていた。開け放たれた木の扉の下、一つ段差になっているそこへ犬が頭を載せてつまらなさそうにしていて、その隣で少女が延々と敷居を飛び越える遊びをしている。ややあって母親が少女を外へ連れ出し、釣られるように犬も付いていく。誰もいない開け放たれた奥に、よりいっそう色合いを増した黄金色の草原が、斜陽と丘の作る影と相まってその輝きを目に痛いほどに鋭くしている。反射する光はこちらにまで差し込んで、自然と心身に温もりを持たせた。モンゴルに来てまともな夕焼けは未だ見られていなかったから、私も小森も、お預けを食らって悶々としていた。

 不意に、その景色に人型の切り抜きが現れた。長女は手に鍋と束子らしきものを持って、内側にやって来た。髪が橙色の風に梳かされて、きらきらと輝く。彼女は薪ストーブの上蓋を外し、そこに鍋を置いた。こうしてストーブはかまどの役割をも果たす。しばらく放っておくと、少しだけ白煙が立ち始める。彼女は手にした手桶から少しだけ水を流しいれて、またしばらく放った。今度は水蒸気が立ち上る。厚手の布を手にした彼女は鍋の取っ手を掴み、その半球状の内側面を束子で丁寧に、かつ手早く清掃した。それからもう片方の取っ手を同じように掴むと、鍋を持ったまま外に出て、玄関の脇に中身を捨てた。そうした後に、再び彼女は鍋をストーブにおいて、先ほどよりは多めの水を流しいれた。間を置かずに、水蒸気が立ち昇る。

夕陽の末端が乱反射して、ダイヤモンドダストのような景色が生まれる。

その中で彼女は、実に穏やかな手つきで。手桶でもって、鍋のなかの水を優しくあやすように混ぜた。

柔らかな水音に、まだ少しだけぱらつく雨音が混じる。

薪ストーブと水蒸気は着実に部屋を暖めていく。なんだか眠くなる。

もうもうと蒸気沸き立つ鍋の中に、水の二倍ほどの量の真っ白な液体が優しく流し込まれた。

それもまた、手桶で滑らかに攪拌される。ほんの少しの間だけ、特有の甘ったるい香りがゲルの中に立ち込めた。蒸気を避けて下がってきた前髪は、ゆっくりと掻き上げられる。

玄関わきの棚から、長女はティーバッグをつまみ出し、鍋の中へ入れた。そこへ煮立った液体が丁寧に何度もかけられ、白い袋は鍋の中で踊っていた。

長女は私たちの目の前のテーブルにあった水筒を抱えて、外に出て行った。戻って来た時には蓋が片手に、本体を空いた手に持っていたから、中身を捨てたのだろう。そしてこれから、できたてのミルクティーがそこに収まるのだ。

 一つ一つの挙動にまじまじと見入っていた旅人たちを他所に、彼女は生活を果たした。

 遠くでキャタピラのような駆動音が響いていた。


 テントは昼間にガルさんと師匠を待った丘の中腹に張られた。手伝おうとしたがあまりにも手際よく、また初めて見る形状のものだったので、後になってむしろおいそれと手なぞ出すものでは無かったと安堵した。ガルさんは誇らしげに、便利でしょう、とその機構を詳しく見せてくれた。なるほど、それは傘のようになっていて、開けばそのままテントの形は完成。あとは四隅をその辺に転がっている棒切れや石で固定して、防雨もとい断熱用のカバーをかぶせれば完璧だ。確かに便利である。寝っ転がる予定の床面には薄いマットがひかれ、その上に二人分の寝袋と毛布が寝かせられていた。私たち二人はカメラだけ引っ掴んで、沈みかけの夕陽へと駆けつけた。

 この丘はそれ程険しくない。眼下に先ほどまでお世話になっていたゲルが見えて、その周囲でまばらに散った羊たちが草を食んでいた。草原はすっかりその日の影を落とし、色を濃くするばかりか夕闇さえも漂わせ始めている。まだ明るい方へ、橙色の恒星を求めて、二人は草地を登った。頂上に近くなるにつれて下草にかわいらしい薄いピンク色の花が混じるようになって、やがて多少の疎はあれど足元一面が桃色の絨毯に変わった。

夕陽を目にするには、そこで立ち止まるわけにはいかなかった。

花をできるだけ踏まないようにしながら、先へ進んだ。

 いきなり丘が垂直に落ち込むところがあって、そしてそこに、暮れが待ちきれないといった様子で今にも沈もうと待ち構えていた。

薄闇がかった草原から彼方には、まだ明暗のはっきりした雲が浮かんでいる。明るいオレンジ色に焼き付けられた地平線の真上の空は、厚く黒い雲に隠れてその断片だけを覗かせる。強風に煽られて散り散りになっていく雲は、そろって北へと抜けていった。

遠くに、昼間に登った岩山が見えた。しばらく眺めているうちにやがてその輪郭はあやふやになって、いつしか消えてしまった。

夕暮れはとても早く、そしてとても静かに、終わりを迎えた。


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