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短編集

狂人はかく語りき ロシア帝国皇太子を切りつけた男

作者: 悠聡

「先生、こちらです」


 狭い廊下を抜けた先、看守は『医務室』と書かれた部屋の前で立ち止まった。


「今は落ち着いていますが、何をしでかすかわからない危険人物であることは確かです。お気を付けて」


 そう不安げに告げる若い看守はまだ10代だろうか。職に就いて日も浅いであろうにいきなり大事件の犯人を収監するとあって大変だったろう。


 私は「大丈夫だ、ありがとう」と彼をねぎらうと、そっと木製の引き戸を開けた。


 並べられた西洋の医療器具に白いシーツの寝台。窓の外からは心地よい風が吹き込んでいるが、その景色はすぐ近くまで漆喰の壁が迫り圧迫感を与えていた。


 その寝台のひとつに男が寝かされている。私はにこにこと笑いながら、彼の傍に近付いた。


「やあ、君が津田つだ三蔵さんぞう君だね」


 男は痛々しく包帯の巻かれた首を少しだけ持ち上げ、鋭い眼で私を睨み返した。


「貴方は?」


「私は大津町病院の医師だ。名は野並魯吉のなみろきちという。今日は――」


「いえ、おっしゃらずとも心得ております」


 男は拒絶するように言うと私から目を逸らした。痛むのか、頭は大きく動かせないがもしできるのなら反対方向に寝返りを打っていただろう。


「もう何人に同じことを訊かれたのか、最早覚えておりませぬ。なぜあんなことをしたのか、正気だったか、ただその繰り返しで。答えはいつも同じだというのに」


 これは相当参っている様子だな。


 私は寝台脇の椅子に腰かけると、机の上に記録紙を広げインクを浸したペンを手に取った。


「安心しなさい、私がやりたいのは尋問ではない。医者として君がどう考えてああいう行動に至ったのかを知りたいんだ」


 今までに無い言葉がけに驚いてか、男は再びこちらに目を向けた。


 明治24年5月14日。膳所(ぜぜ)監獄署に収監されていたこの津田(つだ)三蔵(さんぞう)という大柄な男は武骨で取っ付きにくい風貌であったが、言い知れぬ思慮深さも漂わせていた。




 遡ること3日前の5月11日。この男は開国以来かつてない大事件を起こしたばかりだった。


 この時、日本は異国からの訪問客に役人だけでなく庶民までも沸き立っていた。ロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ殿下がロシア帝国艦隊を率いて東シベリアのウラジオストクに向かう途中、外遊のために日本に立ち寄っていたのだ。


 列強国の将来の統治者の訪問とあって、日本は国を挙げて歓待した。綿密な計画を練り、国の威光を示そうと官民の区別なく最高級の施設や料理をこしらえ、行く先々では日露の国旗を持った人々が押し掛けて歓迎した。


 5月4日、長崎から上陸した皇太子は国内各地を漫遊した。そして京都に宿泊したその日、隣の滋賀県にて日帰りの琵琶湖遊覧を楽しんだのだった。


 その帰り道、大津町(現在の大津市)京町の古い家屋の建ち並ぶ大通りには警護として道の両端に巡査が控えていた。津田は滋賀県警察部巡査であり、その中の1人だった。


 そして皇太子を乗せた人力車がちょうど通りがかった時、道路脇で警備に当たっていた津田が突如、腰に差した刀を抜いて皇太子に切りかかったのだ。


 あまりに突然のことだったので皇太子は避けることもできず、津田の一太刀を頭に受けひどい怪我を負った。


 幸いにも皇太子はすぐに逃げ出したので命に別状はなかった。


 一方の津田はすぐさま周囲の者に取り押さえられた。その際、刀を奪った人力車夫に後ろから首と背中を切りつけられたために津田は一人で立ち上がることさえできずこのような姿になってしまったという。


 当時大津町病院にいた私は報せを受け、近くの民家に運び込まれた津田の治療に当たった。よって私が津田と出会ったのは今日が初めてではないが、あの時は慌ただしい状況で本人も意識が朦朧としていたために覚えていなかったのだろう。


 当然のことながらこの事件の急報はすぐさま日本中を駆け巡り、全国津々浦々まで大災害のごとく騒然となった。


 内閣では緊急の御前会議が開かれ、明くる12日には東京から天皇陛下御一行が駆けつけて皇太子を見舞われ直接謝罪された。各地で予定されていた祝賀行事も哀悼の意を示すために自粛され、まるで国全体が喪に服しているようだった。


 しかし最大の心配事はこの事件によって日本とロシアが戦争を起こさないかという懸念だった。


 一国の、それも超大国ロシアの皇太子が負傷したとなれば否が応でも重大な国際問題に発展する。さらに非は日本側にある。ここで日本が身の振り方を誤れば、たちまち戦争が起こって小国日本はロシアに占領されるだろう。


 ある者は武蔵国の生麦村で薩摩藩の大名行列に乱入したイギリス人を斬り殺したのがきっかけで発生した薩英戦争を引き合いに出し、すぐにでも津田を処刑してロシアに謝罪すべきだとも喧伝した。


 それは閣僚も同じだった。何としても国を守らんがため、多くの大臣や高官が津田を死刑にして誠意を示すべきであると主張した。


 だが白熱する政府に対し、司法はいささか冷ややかであった。現行法では外国の皇族に殺傷事件を起こした場合の想定がなされておらず、法を遵守するならばこの事件に関しては通常の殺人未遂などで裁くのが適切なのだ。仮にこれが適用された場合は最高でも無期懲役であり、死刑にすることはできない。


 新たに法を定めて裁くことも罪刑法定主義による法の不遡及の原則に反するため、法治国家を貫く上では何があっても受け入れられない。


 政府は刑法116条、すなわち大逆罪を類推適用して津田を死刑に処することを求めた。だがこれは日本の皇室に対しての規定であったため、外国の皇室への適用は法の曲解と同義だった。


 特に大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島こじま惟謙いけんの一派は頑なに、法治国家としての日本の立場を堅持すべきだと反発した。だがやはり政府の圧力は強く、通常なら三審制を採用するところ即日から大審院(現在の最高裁判所)での一審のみで決着するに至ったのは、大逆罪の可能性を見込んでの判断だったのだろう。


 そして私はこの津田三蔵が精神的に何らかの問題を抱えていなかったか、つまり狂気に駆られていたのかそうでなかったのかを鑑定するためにここ膳所監獄署に招かれたのだった。犯人が狂人であったか至極まともな精神状態であったかは、裁判の上でも重要な参考用件になるそうだ。


「一国の皇太子を切ってしまったのです。腹を切れと命ぜられれば私は躊躇なく切りましょう」


 挨拶の後に時候の世間話を交わした後、津田は前触れもなく言い切った。


 記録によれば事件後、回復した津田は自刃したいと何度も懇願したそうだが、裁判が開かれることを知るとその結果に従おうと急におとなしくなったらしい。


 ただ事件のことについて根掘り葉掘り聞いても、結果は今までと同じだろう。本題に触れるのはまだ早いと踏んだ私は、ここに来るまでに読んでいたいくらかの報告書の内容を思い出して尋ねた。


「君は警察官として非常に優秀だったようだね。何度も褒賞を授与されている」


「ありがたきお言葉」


「聞いた話だと君は伊賀上野いがうえのの育ちだそうじゃないか。滋賀県警に入るまでは、どんなことをしていたのかな?」


 津田の目付きが変わった。眼差しはこちらに向けられてはいるが、その瞳はまるでここではないどこかを見つめていた。


「確かに私は伊賀上野の育ちですが、これまでの生涯の半分も過ごしていません。16で上京して以降、日本中を転々としてきましたから」


「ほう、東京に。そこではどんな仕事を?」


「陸軍です。特に14年前に越前での暴動を鎮圧した時には乃木のぎ希典まれすけ少佐……いえ、少将にはお世話になりました」


 そう言う津田は気さくに笑っていた。西南戦争では連隊旗を奪われるなど散々な評価だった乃木少将だが、彼にとっては心から尊敬に値する父親か兄のような存在だったのだろう。


 記録によれば津田家は津藩藤堂家の藩医の家にも関わらず、三蔵の幼い頃に父親の長庵が刃傷事件を起こしたことで身分を剥奪され、放逐させられたらしい。不甲斐ない実の父と比べ、最前線を指揮する若かりし日の乃木希典は三蔵の目にいかに輝いて映っただろうか。


「ということは西南戦争にも?」


「はい、出兵しました。ただ負傷してしまったのでその後軍隊を退いたのですが、まあ色々とあって明治18年に滋賀県警に奉職、妻をもらいふたりの子供にも恵まれました」


「奥様はどんな方だい?」


「ええ、とても器量が良く、私のために尽くしてくれます」


 家族のことを語る津田の顔は殊に楽しそうだった。普段なら厳格にして立派な父親であるはずの彼が、なぜあんな事件を引き起こしたのか私にはいささか信じられなかった。


 さてお膳立ては終わった。いよいよ本題に入ろう。


「そんなに幸せそうな君が、どうしてあんなことを? 守るべき家族のことはどうするつもりだったんだい?」


 途端、津田の顔が引きつった。


「妻と子には申し訳ないと思っています。この場で妻に首を絞め殺されても文句は言えません」


「君は事件の重大さを理解しているようだ。だからこそ不思議に思うんだ、皇太子に斬りかかった時、何を考えていたのか」


「ロシアは日本に攻め入る機会を虎視眈々と狙っています。此度の視察も外遊を口実にしていますが、その真の目的は日本の地形を把握し、来るべき戦争を有利に進めるため。私は抗議の意を込めて一太刀見舞ったのです」


「それでは殺害するつもりは無かったと?」


「はい。日本に手を出すなと、あくまで威嚇のつもりでした」


 津田は平然と言ってのけた。


 これは報告通りだ。今まで何度も繰り返されてきた尋問で、津田は一貫して同じ主張を繰り返してきた。


 実際にニコライ皇太子の来日に関して、日本侵略の下準備だと懐疑的に思う人は少なくなかった。これまでにもロシアは樺太の獲得など南下政策を進めてきた背景もあり、臣民の間では戦争のための下見だなどと出どころ不明のよからぬ噂が流布されていた。


 だがこれほどの男がそんな噂を信じ込むだろうか。そもそも事の重大さにまで考えが及ばなかったのか、私には甚だ疑問であった。


「少し話を変えようか。聞いたところでは警備に当たって皇太子一行を見守っていたのは京町以前にも何回かあったみたいじゃないか。その時、君はどんなことを考えていたのかな?」


 津田は目を見開き、口をつぐんだ。だがしばらくして少しばかり顔を赤らめると、照れ隠しのようにはっきりと口を開いて言った。


「恥ずかしながら陸軍時代……西南戦争での思い出に耽っておりました」


「西南戦争か。君はその時負傷したのではなかったかな?」


「はい、10日、三井寺での警備に当たっていた時、西南戦争の記念碑を目にしました。あの戦争で失った多くの同胞、それに相対した士族たちに思いを馳せると、自然と涙もこみ上げてくるものです」


 この男にとって西南戦争はよほど尾を引く出来事だったらしい。同じ武士の家系として、かつて手を取り合って新政府の設立に奔走した仲間たちと対立する結果になったのは皮肉としか言いようがない。


「しかし記念碑を気に留めることも無く、皇太子は素通りされた。これは戦死した者たちを侮辱されたも同然、私は怒りを堪えるのに精一杯でした」


「いやいや、さすがにそれは短絡的だよ。申し訳ないがニコライ殿下にとって異国の10年以上前の騒乱に言及する道理は無い」


「それは承知しております。ですがやはり、この日本にもかつて国を案じて模索し、今日の礎となった人々がいたことを少しでも理解していただきたかった」


 津田は強く拳を握りしめた。人は彼を単なる狂人だと呼んでいるが、その力のこもった瞳には揺ぎ無い信念が宿っているように見えた。


「津田君、君はどうも西南戦争のことが心残りのようだね」


「はい、本来なら私もあの戦場で友とともに死んでいたのです。ですが何の因果か生き延び、今も官憲の一員として国に仕えている。重傷で働くこともできない仲間や落ちぶれた士族もいるのに、私はぬくぬくと暮らしているのです」


 その時、津田の頬を一筋の涙が伝った。これほどの男が急に泣き出すものかと私は驚いたが、彼は気にせず語り続けたのだった。


「私はこの日本という国に大いに期待し、高揚しました。誰もが自ら職を選び、武士も農民も等しく扱われると思っていました。ですが実際はどうでしょう。政府は薩長が乗っ取り、富める者が貧しき者を虐げ続けている。昨年は多くの餓死者を出し、各地で米を巡って大暴動まで起こりました」


「君のその怒りは……まるでこの日本に向けられているようだな」


 思ったまでに私は口を開いた。ただそれだけのつもりだった。


 だがそれを聞いて男は憑き物が取れたようにふっと微笑むと、今までに無い優しい眼を私に向けてこう言ったのだった。


「そうかもしれません。あれだけ民を扇動していながら、その変化に取り残された多くの人々がいる。平凡ながらに幸福な人生が送れたはずが、時代の変化によって虐げられる存在になり下がった人もいる。支配層が変わっただけで、本質は何も変わっていない。私にはどうしてもそれが許せなかった」


 私ははっと息を飲んだ。この男の真意にようやく気付いた。


 この男は誰よりも深く日本を愛し、国のためならば命をも投げ出さんと考えている。そして期待していたその分だけ、失望は大きかったのだろう。


 幕末の動乱期に青春を送り、新政府に翻弄された一人として、国家に対する不平不満は口にできずとも募っていたはずだ。そこにロシア帝国皇太子の来日が重なり、津田は実行を決断した。


 詰まるところ相手は必ずしもロシアでなくともよかったのであり、ニコライ殿下にとっては不運としか言いようがない。


 津田は震える腕で涙を拭うと、実に晴れやかな顔を見せた。


「先生、少し疲れました。一眠りさせていただけないでしょうか?」


「そうだな。まだ熱も下がってないし、ゆっくりしているといい」


「ありがとうございます」


 そう言うと津田はゆっくりと目を閉じた。私が書類をまとめて席を立つ頃には、既にすうすうと寝息を立てていた。


 足音を立てないよう、ゆっくりと医務室を出た私を待っていたのは心配そうな顔をした若い看守だった。


「いかがでしたか?」


「ああ、彼の真意はなんとなくだがわかったよ」


 私は看守に微笑み、膳所監獄署を後にした。


 その夜、私は報告書を書き上げた。鑑定結果は『正確なる鑑定は宜しく専門の裁判医学家に命ぜられんことを望む』。


 この国にそんな人材はまだいない事実を踏まえての報告だった。つまり再鑑定の必要は無い。




 その後裁判は執り行われ、5月27日、津田には判決が言い渡された。


 下されたのは謀殺未遂罪による無期懲役。司法が政府の圧力に打ち勝った瞬間だった。


 7月2日、北海道の釧路集治監に移送された津田は同年9月に急性肺炎に罹り30日に死亡した。36年の激動の生涯だった。


 津田亡き今、彼の本懐は誰にもわからない。だが事件以降、未だ広く知られていなかった司法、立法、行政が互いに独自の権限を持つという三権分立の意識は瞬く間に浸透し、司法は独立すべきであるという世論も高まった。


 この一件で日本の司法は海外からも信用されるようになり、国際社会の独立した一国として認められ、それが各種の不平等条約の改正につながったのは紛れもない事実だ。


 これはあくまで私の憶測だが、もしかしたら津田は日本には難局に直面しても異国の圧力に屈せず、平和に解決できる力があると信じていたがためにあの凶行に至ったのかもしれない。

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[良い点] 大津事件。司法権の独立を示した事件として、歴史の教科書に取り上げられる事件。 士族の不満というものを上手く絡ませた展開が、琴線に触れました! [一言] こんばんは! つぶらやこーらです! …
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