プロローグ
怒号が聞こえる。はっきりと飛びこんできた怒りの感情に、靄がかっていた意識は急速に浮上させられた。目は既に開いていた。視界いっぱいに広がる平野には、巻き上がる炎と、飛び散る血の赤。耳には、金属同士が打ち合う甲高い音と、彼を目覚めさせた怒りを含んだ雄叫び。彼が目覚めたこの場所は、どう目を背けようとも、血と焼けた肉の匂いが支配する戦場だった。
――訳が分からない。
そんな彼の動揺とは裏腹に、体は勝手に動いていた。一歩、二歩と足が前に進み、手もそれに連動して前後している。手には錆びついた剣が一本、決して放さないように右の手にしっかりと握られている。手甲などもなくむき出しの肌にはべったりと血がはりつき、その色を赤黒くさせていた。
そこまで状況を把握した彼は、一度落ち着こうと足を止めようとした。走りを緩め、勢いを殺し、立ち止まる。ただそれだけの簡単な動作だ。
――止まらない?
口に出そうとしたその言葉は、彼の舌を少しも動かさなかった。一方で、体の方は相も変わらず走り続けている。思えば最初からそうだった。開けた覚えのない目は開いており、動かした覚えのない足は回っている。そのくせ、足どころか視線すら、自分の意志で動かすことは出来ないのだ。どうやら自分はこれを見ていることしかできないようだ、と彼は悟った。
その時、左足が急制動をかけ、頭が右を向く。その際に一房の髪がはらりと落ちて、視界に入った。その髪は金色をしていたが、一見して分かるほど汚れてくすんでいた。視線は髪を一瞥もせず通り過ぎ、目的のものを中心に捉える。それは銀の鎧を身に着けた男であった。この身体であれば、走って五、六歩といった距離だろうか。所々煤けていたり傷ついていたりと、戦場をくぐり抜けてきた実力がうかがえる。その男は剣を振り上げ、目の前の存在の命を絶とうとしていた。
身体はそれを止めようとするかのように、そちらに足を向ける。剣は両手で持ち直され、切っ先は背後に流れる。男が剣の範囲に入るまで後数歩。男も彼に気付いて、迎撃の体勢をとろうとしていた。その時、自分の口が小さく動くのが分かる。その声は誰の耳にも届かず宙に放たれた。しかし、その声が成した現象は明確で、強大だった。
何の予兆もなく、男の背後に大人の頭ほどの火球が現れたのだ。その火球は弾けるように男へと飛んで行った。男は一瞬体を震わせたが、火球に目を向けることはなかった。そのかわりに口を開く。
「アデーレ!」
男は一人ではなかった。背後には仲間を連れていた。呼ばれた女が声を返す。
「ええ!」
その時には女は、さきほど現れた火球と同等の大きさを持つ水球を作り上げ、放っていた。
彼が横薙ぎに払った剣と男が構えた剣が、金属音を立てて鍔迫り合う。それと同時に火球と水球がぶつかった。次の瞬間、火球のエネルギーを吸収した水球が気化し、気体になりきれなかった水分が霧となる。霧が彼と男を包み込んだ。
周囲が静寂に包まれた。それから程なく、霧が晴れる。その時静寂が破られ、ドサリと人が崩れ落ちる音がした。
「そんな。いや」
女の絶望した声が聞こえる。
視線が下に動く。足元には鎧を着た男が転がっていた。男の首はぱっくりと開かれ、血がどくどくと流れている。既に男には意識がないようだった。
しかし、彼には腑に落ちないことが一つあった。自身の手は、鍔迫り合いした時から動いていないのだ。ならば誰が男を殺したのだろうか。その疑問が晴れるのに時間はかからなかった。霧が晴れたそこには、もう一つの影があったのだ。
「キ、キキッ」
それは、男が先ほど殺そうとしていた生き物。そいつの手には、滴るほどの血にまみれた短剣が握られていた。そして、そいつは緑色の肌と子供ほどの背丈をした二足歩行の生物だった。ただでさえ低い背を猫背がさらに小さく見せ、だらしなく開いた口から零れる涎は否応なく嫌悪感を募らせる。
それは紛れもない人類の敵、ゴブリンと呼ばれる魔物だった。
ゴブリンは醜悪な笑いを浮かべ、剣の血をさっと払った。
身体はゴブリンから視線を外し、再び倒れている男を見る。男に目を向けていたのは一瞬だったが、男の鎧の一部が自分の顔を反射しているのが見えた。それは一見、女の顔の造形をしており、端正な顔立ちをしているようにも見えた。
そして、彼の身体は顔を上げ、横を見る。
そこはちょうど戦力が激突している境目だった。空から射す一条の陽光に照らされて、その様子がよく見えた。片方の大軍は人間、片方の大群は魔物。
これは人と魔物の戦争だった。
「キキキッ!」
その声に応えたかのように、視界が再び変わる。そして再び目に映ったのは、男が遺した仲間たちだった。ゴブリンは女に狙いを定めたのか、低い体勢で駆けていく。彼の身体もそれに追従するように、ぐっと足を踏み込んだ。その時ふと、彼は頬に温かい何かが流れているのを感じた。
しかし、彼が認識できたのはそこまでだった。視界は暗転し、音も感触も何もかもが消えていく。どこかへ引っ張られるような感覚と共に、意識が浮上していく。