第一章 召喚獣のささやかな日常。〈8〉
マンションのエントランスをでると、しずかに牙をむいた夏の陽射しが蒼穹をあざやかにみがきあげていた。セミのすだく音もちらほらと耳に入る。気がつけば夏、と云った風情だ。
「うわ~、今日も暑くなりそうだな」
「この一帯は高気圧が安定しているので、絶好の布団干し日和だとミナヨもよろこんでいた」
「えっと、そう云うのなんて云うんだっけ。西高東低?」
「たわけ。それは冬型の気圧配置だ。朝っぱらからどさくさにまぎれてセイコウなどと云うヒワイな単語で調教をくわだてるとは油断も隙もない」
「おまえこそ、どんだけ中2だ!? あげ足とりにもほどがあるわい!」
セイコウの同音異義語なら、まず思いうかぶのは「成功」とかだろ? 天気の話題で「今日は性交日和ですわね」なんて会話だれもしないぞ。
先にも云ったように、オレも瑞希もおとなりさんだからと云って、わざわざふたりなかよく登校することはない。だからと云って、おたがいあえて避けているわけではない。今日のようにタイミングがあえば、ふつうに肩をならべて登校する。
オレはいわゆる帰宅部なのでHRに間にあえば問題はないが、瑞希は1年生(FJK)にして学生議会、いわゆる生徒会の会計をまかされている。学生議会の雑務ではやめに登校しなければならないこともあれば、放課後に会計の仕事が入ることもあって、登下校時間はまちまちである。
かつて世界中の学会とマスコミをにぎわせた超絶天才美少女が、ごくふつうの薬子園高校へ入学すると云うニュースは驚愕と畏敬と畏怖をもってむかえられた。
学生議会の権限をもって就学早々「ぜひ学生議会長に!」と云う声もあったが、瑞希はそれを辞退した。瑞希の頭のよさはスポーツで云うところの団体競技向けではなく個人競技向けだ。リーダーシップを発揮し、組織をたばねて成果をあげるような器用さはない。
論理的合理的思考の卓越した瑞希にとって、オレたち凡俗のかかえもつ見栄や嫉妬や年功序列などと云う不合理でつまらないさまざまな感情を忖度するのは不可能だ。
しかし、この世が正論だけでままならぬ不条理の横行する世界であることは瑞希もそこはかとなく理解している。
そんなわけで、瑞希は学生議会長の座こそ辞退したものの、学生議会のメンツをつぶさぬために会計をひきうけた。あらゆる部活や委員会の情やおどしに屈せず、合理的にサイフのひもをひきしめる会計なら瑞希には適役と云えよう。
いまや学生議会の会計のみならず、高校の経営コンサルタントまでつとめていると云うのだから、推して知るべし。
そして、瑞希に欠落した人情の機微をおぎない、集団をたばねて和をかもす天才的人たらしが、薬子園高校3年生(LJK)で現・学生議会長の……。
「おっはよー! ミズキュンとセバスチャン!」
おかしな挨拶でうしろからオレと瑞希に組みついてきた杏條朱音その人である。
長い三つ編みを頭の左右にくるりとまきつけた個性的なヘアスタイルで『お嫁さんにしたい女子ランキング5位』『彼女にしたい女子ランキング3位』の爆乳美人でもある。
「おはよう、アカネ」
突如襲来した学生議会長にまったく動ぜず瑞希が挨拶をかえし、
「おはようございます。……て云うか杏條センパイ、セバスチャンってなんすか?」
背中へあたる豊満な感触に内心の動揺をかくしつつオレは訊ねた。
「え~? セバスチャンはミズキュンの執事ちゃんなんだからセバスちゃんじゃん」
セバスチャンあらためセバスとはオレのことらしい。しかし、自薦他薦を問わずオレが瑞希の執事を勤めたおぼえはない。
おそらく、杏條センパイがそう誤認したのは高校入学初日。瑞希へつきそって学生議会室を訪れた時のことであろう。
〈超絶天才〉と云う枕詞のつきまとう瑞希とて万能ではない。なにかに特別秀でている人は、なにかが極端に欠落しているものだ。
瑞希の最たる欠落は方向感覚と云えよう。ひらたく云うと、極度の方向音痴である。
高校の通学路をおぼえるのに2週間を費やした瑞希が、入学初日にひとりで学生議会室へたどりつける確率は天文学的な数字でゼロに等しい。
オレとて入学初日から校内を把握していたわけではないが『入学のしおり』や生徒手帳へ掲載された校内見とり図さえあれば、学生議会室へいくことなぞ雑作もない。
およそ138億光年と云う途方もないひろさで今なお膨張をつづける宇宙については地球上でだれよりも詳しいくせに、校内見とり図片手に目的地へたどりつけないのだから、つくづく天才脳はふしぎだ。
そんなわけで、オレは学生議会室まで瑞希につきそい、学生議会長を辞退した瑞希と学生議会の間をとりもち、瑞希の会計就任で手打ちとした経緯がある。
「ねえねえセバスちゃん。今からでも学生議会に入らない? 会計補佐の役職つくったげるからさあ」
「なんすか、それ? 瑞希レベルの会計に補佐なんているわけないでしょ?」
「でもでも、セバスちゃんのいてくれた方がミズキュンも心強いし、いろいろ円滑にまわると思うんだけどな」
たしかに、オレなら言葉足らずで愛想のない瑞希をある程度フォローすることもできよう。しかし、それだと瑞希のためにならない気がする。
杏條朱音学生議会長の下でなら、学生議会を中心に瑞希の交友関係がひろがっていくことを期待して、杏條センパイへ瑞希をあずけた親心もある。
「セバスちゃん、学業の方はそうでもないけど、場の空気を読む力はあるし、いろんな生徒をたばねて動かしたりするスキルは高いと思うんだけどな」
なんかちょっとほめられて悪い気はしないが「学業の方はそうでもない」と決めつけられるのもいささか癪にさわる。
「学業の方はそうでもないって、どうして云いきれるんすか?」
「いやだって、こないだミズキュンからセバスちゃんの期末試験の答案用紙見せてもらったし」
「オレの個人情報保護法っ!」
人のいないところでなに余計なことしてくれてんの、ミズキュン!?
「ねえねえセバスちゃん。学生議会に入ろうよ。セバスちゃんが学生議会に入ってくれたら、オネーサンが立派な性ドレイに調教して……」
「あんたか!? 瑞希におかしな冗談ふきこんだ元凶は!? 子どもがマネするでしょうが!」
「……心ハ子ドモデモ身体ハ大人ヨ」
「やかましい!」
オレは瑞希の棒読みを一喝した。頭脳は大人、お胸は子どものくせにこざかしいことを。
「……これでも私、セバスちゃんを次期学生議会長候補のひとりとして、けっこう本気で勧誘してるんだけどな」
オレと瑞希の肩へまわした腕をほどきながら、杏條センパイがほんの少し口調をあらためて云った。そう買いかぶられても集団行動は苦手だし、歳上のキレイなオネーサンに調教されるのは異世界の召喚獣戦闘だけで充分こりている。
「お気もちはありがたいんですけど、オレそう云うの向いてないんで。……あといいかげんセバスちゃんってよぶのやめてもらえます? よび方が多いと海外の読者とか混乱すると思うんですけど」
「え~? でも私、セバスちゃんの本名知らないし~」
「名前もロクに知らない相手を学生議会に勧誘するなっ!」
……どうしてオレのまわりにはこうも無礼なやつらが跳梁跋扈しておるのだろう?
まあしかし、今日半日をしのげば、そこからあとは夏休みだ。つまらん人間関係でごたごたすることもあるまい。
オレはまだ見ぬ夏の入道雲にかくされた天空の城へと想いをはせ、不毛な現実からしずかに目をそらした。