Blue
緋絽と申します。
ほそぼそと短編やら連載やらやってます。
受験の最中に思いついてしまったので、書いてしまいました。
短いです、どうぞ!
シクシクと腰とお腹に痛みがきた。
あ、と思った。きた。しばらく前から怪しいなと思っていたのだが―――間違いない。
今まで曖昧にしか覚えていなかった痛みが、はっきりと思い出される。過去に一度経験したことのある痛み。
これだ。これが、陣痛だ。
「ねぇ」
私が声をかけると手を繋いで、アトラクションの列に並んでいた五歳の息子が私を見上げる。
最近、弟が生まれることを何となく察したのか、ずっと不機嫌だったため、二人で遊園地に行こうと約束していて、今日はその約束の日だった。
「ごめん。遊園地、また今度連れてきてあげるから、今日はもう帰ろう?」
息子の顔が曇る。
また、拗ねて不機嫌になっちゃうかな。
そう思ったが、早足で遊園地を出てタクシーを拾おうと街中へ急ぐ。
病院に行こうと動かしていた足の間を伝った液体に、頭から冷や水を浴びせられたような気がした。
頭の中で、チラチラと危険信号が瞬く。
破水、した。
フラりと体が揺れ、屈み込む。
「―――っ!」
どうしよう。こんな街中で、子供しか側にいないのに。旦那は出張中なのに。
―――一人。一人、で。どうにかしなくちゃ。
心臓の音が耳の近くで聞こえた。
「だっ誰かっ」
息子の声が耳元で響く。息子はまだ幼稚園生だ。
「誰か助けてっ、お、おかあさんを助けてっ」
息子の声に数人が目を向けるが、気まずそうに顔を背けて通りすぎていく。
少しの間、立ち止まったまま泣きそうな顔で声を張り上げていた息子が唐突に走り出した。
ことの衝撃が強すぎて立ち上がれない私を置いて、息子がとある住宅の門扉を開けてするりと中に入る。
「こら…っ、他所のお家に勝手に入っちゃ……っ」
私の声は、すでに玄関まで侵入した息子には届かなかった。
脂汗が浮かび、しかし立とうといっせーのっと自分で声を出したところで肩に手を置かれた。
そちらに目をやると、見知らぬ恰幅のいい女性が優しい笑みを浮かべていた。
「あらやだ、妊婦さんだったの? 必死に助けてって言うからどんなに重病かと思ったじゃない」
「はぁ…」
誰が?
「あら、破水しちゃったの? ……大丈夫、タクシー呼ぶわね」
「え……ありがとう、ございます」
不審に思ったのが顔に出てしまったのか、その女性はもう一度満面に笑みを浮かべて、その背から小さな誰かを引っ張り出す。
「あ…」
「おかあさんっ、もう大丈夫だってっ、おばさんが助けてくれるってっ」
息子がアワアワと私に駆け寄る。
「この子が家まできて助けてって言いにきたのよ。子供に言われたらほっとけないじゃない」
そう言われて、やっと息子が駆け出した意味を理解した。と、同時に不審の目で見てしまったことが恥ずかしくなる。ばつの悪そうな顔をしたのだろう、女性が私を見て苦笑した。
「いいのよ。いきなり声かけられたらあたしだって警戒するもの」
恐縮して首を竦める。
「すみません…」
手を振って気にしてないことを示してくれた後、彼女は道路に出てタクシーを停めてくれる。
「さあ、行きましょう。旦那さんは今どこ?」
「……今日は、出張なんです…」
その回答にあららと女性が困った顔をした。
「何にせよ、連絡はしないとね。旦那さんが来るまであたしが付き添うわ」
それは、長時間、見知らぬ私の為に時間を割いてくれるということで。
「いえ、そこまでは…!」
「いいから。一人は不安でしょう?」
その言葉に、多分私はくしゃりと顔を歪ませた。泣きそうだ。
慌てて瞬きをして堪える。
「ありがとうございます…っ」
病院で三分おきに陣痛がくるようになるまで待つ。三分おきに陣痛がきたら分娩室に入るのだ。
女性が側にいてくれると言ってくれてホッとした。でも本当は、―――本当は、不安だ。
一度経験しているとは言え、あの時は側に旦那がいた。
腰の骨が砕けそうな、そんな痛みがじわりじわりと広がる。
「い…っ、痛…っ!」
涙が浮かぶ。
どうしよう、どうしよう。もし死産になっちゃったら。生まれても、力尽きて死んでしまったら。泣き声が、聞こえなかったら―――。
怖い。私達の子供がもう一人生まれる、この瞬間に。どうして、側にいてくれないの。
完璧な予測なんてできないのは百も承知だが、それでもこの時だけは出張なんかに行って側にいてくれない旦那を少し恨んだ。
女性が側にいると言ってくれた時には我慢できた涙が、痛みと共にボロボロと零れる。
ふと気が付くと、小さな手が私の頭を撫でていた。
恐る恐ると、しかし何度も、頭を手が往復する。
涙で視界がほんの少し歪んでいる中、小さなシルエットが真面目な顔で言った。
「大丈夫だよ、おかあさん」
唐突な台詞に一瞬痛みも涙も引っ込む。
大丈夫って何がよ。ものすごく痛いし、不安なんだけど。
そう思った次の瞬間、息子が私の手を強く握った。
「ぼくがおかあさんを守るから」
その時、私は息子が精悍な顔付きをしているように見えた。若干青褪めているが、真剣な顔。
思わず噴き出す。それと同時に再び涙が出てきた。
「おかあさん?」
「守るって何からよ…っ、あはっ、あははっ、いた、痛いっ」
すぐに痛みで呻いたのだが、ふっと心が軽くなった。不安で不安で、どうしようもなく怖かったのに、私は笑えた。息子の言葉が、私は確かに―――嬉しかったのだ。
いよいよ分娩室に入る時、私は息子に手を伸ばす。そっと息子が私の手を握ったのを見て、私は微笑んだ。
「ありがとう。お母さん、頑張ってくるね」
「……うん」
「弟が元気で生まれてくるように、祈っててね。そうやって、私を守ってね」
深く頷いた息子は、すっかりお兄ちゃんの目だった。
私は息子の頭を撫でて分娩室に入った。
もう、不安はない。完全に無くなかったかと言われたら断言はできないが、落ち着きはした。私は今、一人じゃない。
さあ行こう。泣きたいくらい優しい言葉をくれた息子が、私を守ってくれる――。
読了ありがとうございました!!