8 豹変
前触れもなく不当なことは降りかかるものである。
まさか、それを実感するとは、普段は誰も思わない。
それが起り得ることなのだと、私は知っていたはずだった。
それでも、何でもない日々を過ごしていると、何もない日々の方を信用してしまうらしい。
冬の日、アランの店でフィッシュ&チップスを揚げていたところを、私は黒ずくめの男たちに銃を突き付けられて攫われた。
黒いマスクで顔を隠し、銃を手にした男たちは、強盗ではなかった。銃で脅し、瞬く間に私は目隠しをされて乱暴に抱き上げられた。「大人しくしてろ」銃口を突き付けられて、低い声で命令されて、車か何かに乗せられた。
車から降ろされ、室内らしきところを歩かされて、目隠しが外されたのは窓のない部屋だった。
黒いマスクの男は私を見下ろし、「ここで大人しくしてろ」と言って出て行った。
何も事情が知らされないまま、私はその部屋に放置されることになった。
ベッドや水道、トイレはある。
その他には何もない。
膝を抱えてベッドの上に座って、あの時は泣いていたら色んな人が声を掛けてくれたと今更ながらその気遣いが染みた。
右も左も分からない世界の国に放り出された、あの時だ。
多分、最初に声を掛けてくれたおじさんは軍の担当か何かに連絡してくれ、メイファが迎えに来た。
メイファは多分、記録してある異世界人の言葉をかけて、ひたすら私が反応するのを待った。
アランを呼んで、アランが私が日本人だと気付いて。
そして、百年前に言葉の記録を残している日本人の子孫、ロイを呼んだ。
泣いて拒絶ばかりしていた私に、彼らは手を差し伸べた。
皆優しかったんだ。
乱暴に扱われて初めて分かるなんて、馬鹿みたい。
こっちの世界に来てから、こんな乱暴に扱われたのは初めてだった。
向こうにいたときだって、こんな目に遭ったことはない。
多分、私は向こうにいても、こっちにいても、知らない内に守られていたんだ。
今ならそう思える。
危険な目に遭わないと分からないなんて、なんて馬鹿なんだろう。
でも、何が目的なんだろう。
私はただの根無し草。
攫っても価値がない・・・。
と、考えて、思い出したのはロイだ。
ロイは軍人で、高級軍人メイファと繋がっている。メイファは政治家だという。そして、異世界人の保護に関する任務の責任者みたいだった。
この国は民主主義の軍事国家。百年間の大戦と話し合いの後、巨大国家ギルファロ国が生れた。
それはつい七年前のことだと聞いている。
人間の恨みはそう簡単に消えないだろう。人が死んで、「悲しい」ことなのだから。
私のいた日本でも、「悲しい」ことは話しつがれているのだから。
今のこのギルファロ国の国家に反対する人々も、きっといるのだ。
ロイとマイユの姿が頭にちらつく。最近、ロイはいつの間にか私の隣で寝ている、ということはなくなったけれど、マイユは相変わらずだ。寝ていると猫みたいにしてネコと猫のぬいぐるみと一緒に私の布団に潜り込んでくる。
ロイは相変わらず優しい。最近ちょっと笑うようになった。それが私は嬉しい。
あの無表情はただの人見知りかも知れないけれど、ほんのちょっと心を開いてくれているように感じられる。
ああ、大好きな人に迷惑なんてかけたくなかった。
いや、それとも私のことなんて、本当はどうでもいいかも知れない。
何もない部屋で、私は一人で悶々とした。
人がやって来たのは暫く後のことだった。
偉そうなおじさんが、護衛を連れて私を見に来たのである。
「この小さいのが兵器の?」
「そうです」
ふん、と嘲るようにじろじろと見まわし、早口で色々喋る。
私はこのおじさんが何を言っているのか分からなかった。普段もっと皆、ゆっくり喋る。
それでも、兵器という言葉は聞き取れた。
どういうこと?
疑問に思っても、何を話しているのか分からない相手に、それが解消されるとは思えない。
私はおじさんを一回睨みつけ、後は下を向いてやり過ごした。
早口で喋る中で、もう一つ理解できたのは、
「必ず交渉を呑むだろう」
という希望観測的なコメントだけだった。
つまり私は予想通り、人質らしい。
なんて価値のない人質だろう、と自嘲した。
窓のない部屋で、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
アランは心配してくれるだろうか。それともアランも捕まってしまったのだろうか。脅されて隅に立たされていたから、多分捕まってないと思うけど。どちらにしろ、彼は目の前で私がこんなことになったのだから、驚いたに違いない。
ロイは心配してくれるだろうか。マイユは。
無表情の二人だけど、優しいから気に病むかも知れない。
自分なんかどうでもいい、という気持ちと、助けて欲しい、ここでどうにかなってしまうのは嫌、という気持ちがせめぎ合った。
不安定でグラグラする。
この世界に来てから、ずっとそう。
泣くのはこれで何回目だろう。
心もとなさと涙で、頭がぼんやりした。
何時間経ったのかも分からない。自分が起きているのか、寝ているのかも曖昧なこともあった。
ふと、目を開けると隣にロイが座っていた。
何の濁りもない黒い瞳で、私を見つめている。
眼鏡をかけていないと、ちょっと幼く見える。
そう思いながら、私は泣きながら名前を呼んだ。
「ロイ」
蛍光灯の光に包まれたロイが、瞬きして訊ねた。
「リナ、君は戦争が怖いと言った」
「うん」
「俺はその戦争の兵器だった」
ぽつり。
落された一滴の告白。
「マイユもそうだ」
私の心に染みていく。
「俺たちは人生は半分以上戦争で、戦争に勝つことが自分と世界とを繋ぐ共通の望みだった。言うなれば俺は戦争なんだ。兵器として訓練され、その力を戦場で使った」
「ロイは戦争じゃないよ」
涙を流れるままに、私は言った。
「兵器でもない。人は戦争をするかも知れない。でも、やっぱり一人一人人間なんだよ。私感謝してるよ、ロイとマイユに出会えて。二人はとても優しいし、私のことを思いやってくれた」
馬鹿だと思われるかもしれない。
見当違いかもしれない。
それでも、私はロイに伝えずにはいられなかった。
「私はマイユのことが大好き。・・・ロイのことが、大好き。戦争をしたけれど、今は皆で生きようっていうこの国が結構好き。だから、消えないでいられるんだと思う。考えなしでごめん。でも私はロイのこともマイユのことも大好きで、怖くなんかないよ」
ロイの顔が明らかに嬉しそうなものに変わった。
この人、こんな顔をするんだ。
と、思っているところに、ぐいと抱き寄せられて私はパニックに陥った。
ん?え?あ?
本物???!!!
一緒に寝ているときとか、頭を撫でられたときとかと同じ体温に感触。
ぼんやりしていたからといって、いくらなんでもロイが入ってきたことに気付かないとか、ないだろ。
そう思ってロイの腕の隙間から部屋を見回す。相変わらず監禁されている部屋で、ドアは閉まったまま。
ちょっと待て、ロイはどこから湧いて出て来た。
パニックに陥っている私にロイは切なげに呟いた。
「よかった、俺のことが嫌いではないね?世界を憎んでいないね?」
戸惑いつつとりあえず是なので頷く日本人。
ロイの腕の中で見上げると、ロイは口の端を上げ、目を爛々とさせてドアを睨みつけていたので私は硬直してしまった。
無表情イケメン、そんな顔できたのね。
「そういえばまだ言ってなかった。俺は兵器、と言ったけれど、戦争の攻撃に有用な魔法に特化している兵器なんだ」
「は」
「俺は魔法が使える。基本的な能力は二つ。一つが透過魔法。物質と自分を分解して物理的に通り抜けていく力。ここはビルの地下四階なんだが、俺はビルの壁と床を透過してリナのいるところまで降りてきた」
全然気付かなかったわけだ。
「そして、もう一つ」
ロイの片腕にぐっと引き寄せられ、一緒に立ち上がる。
不敵な顔をして、ロイはドアのある壁に向かって手を伸ばした。
「破壊の魔法。目の前にあるものは何でも壊す。マイユは何でも捻る魔法を使う。まあ、後で見るがいい」
「・・・なんかそっか」
いつもより饒舌、そして不敵な表情。
優しい無表情の下に、こんな獰猛な顔が隠れていたとは。
「こっちゃ大事な娘さんを攫いやぁって、ただじゃおかねぇ」
え
べらんめぇ調の日本語で、ロイは上ずった声で叫ぶ。
私は固まってロイの顔を見上げた。
誰あんた、本当にロイ?!
魔法のことが何も分からない私でも、ロイの腕からただならぬ力が噴出するのを感じた。
「四の五の言わせず」
そして、壁に向かって力は放たれた。
「ぶっとばぁあああああああああああああああああああす!!!!!!!!!!」
ドゴーーーーーーーーーン!!!
ドアどころではなく、壁が粉々に砕け散る。
サイレンが鳴る。
ロイは私を片腕だけで攫い上げ、物凄い速さで走り、壁や人を薙ぎ倒していった。
私はただ身を竦め、ロイに身を任せていた。
ロイ、性格違くね?
その戸惑いと疑問に支配されながら。
ようやく下ろしてもらえたのは、一階に辿り着いたところだった。
一階に上がるまでにロイは壁や床の破壊を繰り返し、敵を埋め込んでしまった。誰も地下から上がって来れないように、階段を壊して埋める。
階段の陰に隠れて一階の出口のあるロビーを覗くと、踊るように戦闘を繰り広げている白いタンクトップ姿があった。マイユだ。
マイユは兄とよく似た目を爛々とさせて、鮮やかに人を引っくり返していた。
足元には私を連れてきたときにいた黒ずくめの男たちが足や腕を変な方向に捻じ曲げて倒れ、銃などもまったく明後日の方に捻られてゴロゴロ落ちていた。
マイユは口元に薄っすら笑みを浮かべ、水道の蛇口を捻るような手つきを繰り返す。時にステップを踏み、標的を変えながら、正確に狙いを定めていく。彼女が手を捻る度、彼女を襲おうとした者や、彼女に狙いを定めていた者は、体を空中で捻られ、一斉に地面に叩きつけられていく。
息もつかせぬその体技は、まるでダンスを見ているかのようでもあった。
「あれは正確に位置関係を特定しないとできないから難しいんだ」
何でもないような顔をして兄は言った。
あらかた倒し終ったマイユは気が立っているようで、そこ倒れている男を蹴とばしたりうろうろしていたが、私とロイの姿を見つけてぱっと表情を変えた。
「よかった。早く出よう」
マイユの笑顔に私は無性に嬉しくなって、安堵してまた泣いた。
こうして二人に支えられて、私は敵のビルから出ると、軍の車や盾や銃が包囲していた。
その真ん中には、赤いコートのメイファが立ち、私たちの姿を認めると微笑んだ。