6 仔猫
猫を飼うことになった。
正確には〝猫のような動物〟で、ギルファロ語では他の名でこの動物は呼ばれている。
だけど、「日本語ではネコという」というのを教えたら、マイユが「ネコ」という言葉が持つ響きを気に入ったらしく、猫はネコという名前になった。
ネコはロイが職場から貰ってきた仔猫だった。灰色の毛並みの女の子で、青い目が愛くるしい。
「みゃあ」と鳴いてこちらを見上げるのが物凄く可愛いので、「可愛いっ」と抱き上げてすりすりしていると、マイユが不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「マイユも持つ?」
「持つ、違う、抱く」
「抱く?」
マイユはロイみたいにべらんめぇ調の日本語を喋らない。いつも私にギルファロ語を喋るよう促し、間違えたら正している。
当初はそれが面倒臭かった、と正直思うけれど、私の境遇を受け容れていて、マイユは私のことを考えていつも言葉を直してくれているのだと思い至った。
なんだか恥ずかしい。
仔猫を差し出すとマイユはおそるおそるといった感じで抱いた。ペットは初めてらしい。
この時、ロイとマイユは目を合わせて、暫くお互いのことをまじまじ見合った。
「お兄ちゃんがこんなものを持ってくる時が来るとは」
「お前がそんなものを抱く日が来るとは」
概ねこんなことを互いに言っていた。
とても意外なことだったらしい。
それから彼らは私のことをじっと見てきたので、何かなと戸惑ったけれど、「夕飯にしよう」と私は声を掛けた。
ギルファロ国に放り出されて三ヶ月。
ここ最近、私はグリフェーン家でご飯の支度と洗濯と掃除をするようになった。
何も持っていない居候の、せめてもの感謝の気持ちである。
女子高校生だった私は家事のほとんどを母任せだったので、料理も洗濯も掃除もできない。
何も出来ないことを後悔する日が来るとは思っていなかった。
何もやらない方が迷惑にならないのではないか、と少し迷ったけれど、これしかないと思ってグリフェーン兄妹に申し出た。
二人はぽかんとして了承したけれども、案の定私はこちらの慣れない調理具や洗濯機のために迷惑をかけることになった。
しかも、二人も家事のことがよく分かっていないらしかった。
いつも料理はお米以外はデパートで御惣菜を買い、洗濯物はクリーニングに出し、掃除は適当にハウスクリーニングに頼んでいたのである。
なんて贅沢な。
なんとなくこの二人生活感がない、とは思っていたが、その通りだった。
部屋も殺風景で、あまり物を置いていない。この国にはテレビのようなものもあるし、音楽を聴く電子機器もあるけれど、グリフェーン家には無かった。
一応家事を頑張り、必死に洗剤や洗濯機の説明書を読解して、今では私が一番家事の分かる人間になった。食事が和食だったのもよかったのかも知れない。料理を作れるようになるのが早かった。
なんとなく、満足。
二人の生活感や、淡白さは、両親や親戚の影がないのと、関係あるのだろうか。
猫用のミルクをあげて、食卓につき、気になったことを訊いた。
「二人の家族は?」
ギルファロ語で訊ねた私に、ロイはご飯を、マイユは魚を箸で上げているところを下ろし、兄妹は互いを指差した。
ん、いやそうだけど。
「他にはいない?」
ロイはうん、と頷いてご飯を食べ始め、マイユは少し逡巡してから答えた。
「両親は死んだよ。戦争で活躍して亡くなった」
「・・・そうだったんだ」
「悲しい顔をするね」
「うん、私のいた国は戦争しないって決めていたし、昔の戦争でたくさん人が死んで負けて、戦争は悲しいことだって教わったの。戦争は怖い」
ロイの手が止まった。
マイユは「そうなんだ」と頷き、「戦争は、悲しいね」と言って何度も頷いた。
私は二人の反応の違いが少し気にかかった。ロイの手が止まっていたのは少しの間だけだったけれども、ご飯を食べている間、彼は一度も目を上げなかった。
「そりゃ、軍人なんだもの。この世界で一番大きなギルファロ国は民主主義の軍事国家だよ?『戦争は悲しい』なんてそんなヤワい考えでやっていけないさ」
アランのばっさりしたコメントに、私は茫然とした。
「そういうもの?戦争はいけないって、どんな国でも、どんな場所でも、変わらない価値だと思ってた」
「変わらない価値なんてないよ。そりゃ、ないほうがよくても、戦争は起る」
イギリス人に言われるとなんとなく納得できるから不思議だ。
「この世界では大戦争が百年続いた。科学と魔法を使った戦争。国境と領土、そして民族をかけて全世界が戦争し、長い時間をかけて解決法が話し合われ、巨大国家ギルファロ国が生れた。それが、つい七年前の話だ」
驚いた。そんな最近の話だと思わなかったし、ギルファロ国がそれほど大きな国だとも思っていなかった。
アランは私にフィッシュ&チップスの揚げ方を任せるようになった。油に気をつけなきゃ、と薄切りのポテトを熱くなった金色の液に浸ける。
バイト中、お昼を過ぎた頃が暇になる。おやつになるとまた人がやってくるので、その時間帯は仕込みをする。
こういう時間帯に、私たちはよく話をする。アランさんはこの世界に既に馴染んでいるから、世事に疎い私に貴重な情報を教えてくれる。
そう、例えばこの国の価値観とか。
概ね、日本にいた頃と変わらないと思っていた。
だけど、百年かけて戦争して、話し合われ、解決したということ。
私のいた日本だって、戦争であった惨劇は未だに語り継がれているし、加害についての議論が何度もなされていた。
どこかそれを遠いことのように感じていたけれど、この国ではきっと違う。
戦争の傷跡も、あり方も、全く違うものなのだろう。
ポテトチップスが揚がる泡がまとわりついているのを眺め、私は溜め息をついた。
マイユは頷いてくれたかも知れない。でもロイは呆れたのかも知れない。浅はかな私を、嫌いになったのかも知れない。
ロイは軍人じゃないか。戦争に関わっている可能性があるし、見ているかも知れないのに、何で私はあんな軽率なことを言ってしまったのだろう。
戦争がない方がいい、人がたくさん兵器で死ぬのは悲しい。いけない。
戦争怖い。
それが普通なのだと思っていた。
しかし、ギルファロ国はそれがつい最近のことで、おそらく渦中にいた人たちはまだ生きている。
馬鹿。私の馬鹿。
「リナに厳しいこと言うよ。誰かを守りたくて、国を守りたくて、人間は戦争をするんだ。歪んでいたり、残酷だったりして、目を覆いたくなる事実もあるさ。だけど、それを『悲しい』というだけなのは考えなしさ。守りたい人がいる人間が悲しいものになってしまう」
OK?と言うアランの目が怖かった。
どうしよう。
ロイに嫌われただろうか。
それが怖い。とても怖い。
・・・マイユも、本当は話を合わせてくれただけで、私を馬鹿だと思ったんじゃないだろうか。
帰り道をとぼとぼ歩き、悲しい気持ちに浸っていたけれど、歩けば歩くだけ家に近付き、最終的には家に着く。
家に着いて驚いたのが、門の前で黒い髪の毛を無造作に束ねた、白いタンクトップにダボっとしたズボン姿の少女が、仔猫を抱いてこちらを見ていたこと。
だから。その姿、寒いって。
「遅い」とぶっきらぼうに言って、マイユは私の手首を掴んで家の中に引っ張った。
「いつもより遅いからどうしたのかと思った」
「ごめん」
「帰って来なかったら怒るところだった」
「・・・うん」
「お兄ちゃんだったら暴走するところだよ、絶対」
それはどうだろう。
とにかく、マイユが私を心配してくれていたと知って、胸がじんとした。
「ごめん、ちょっと考え事してて・・・」
じっとマイユが私を見つめる。
その眼はネコのように純粋で無垢に見えた。
いつもマイユは寝ているか、ぼーっとしていることが多い。
それが何だかアクティブだ。外に出ているところを初めて見たし、私の腕を引っ張った。今はふかふかのソファの上に座って、ネコを撫でながら拗ねている。
「いいもの見せてあげようと思った」
「いいもの?」
「見たい?」
「見たい」
マイユは自室に私を連れて行った。これまで見たことがなかったのだけれども、マイユの自室は殺風景で、「いいもの」以外何も置いてなかった。全てクローゼットに仕舞えてしまうのだろう。
どんだけ淡白、というか、年頃の少女がこれでいいのか。
いや、変なのだ。一応、私も十五歳を経験している。
マイユは何もかも取り払って、空虚でいる。これが普通であるわけがない。
初めて気が付いたマイユの異常性に私は衝撃を受けていたが、マイユは「いいもの」にネコを連れて行った。
ネコがポールの一番上の台の上に座る。こういうの、猫を飼っている家で見たことがある。猫が台の上で寝たり上り下りして遊ぶための台だ。
ネコは「みゃあ」と可愛らしい声で鳴いた。
「つくった」
マイユはドヤ顔である。無表情に精一杯のドヤ顔である。
不意にマイユのことで、とても胸が一杯になってしまった。
ネコに動かされたマイユが無性に愛しい。
「マイユ、可愛い」
頭を撫でると、マイユは目を瞬かせた。
私は同級生の友達にしていたみたいに、マイユを抱き締めた。
「可愛い」
マイユは大人しく、私に体を預ける。
案外硬い体だなと思ったら、彼女には程よく筋肉がついているらしかった。いつの間に筋力をつけているのだろう。
やだな、なんか切ない。
何故だか知らないけれど、この子は空虚だ。
私が十五の頃にジャニーズに嵌ってCDを集めたり、好きな男の子のサッカーの試合を観に行ったり、気に入っているハイビスカスの柄を部屋のあちこちにあしらっているのとは、全然違う人生を送っているんだ。
ロイが服を買ってくれたショップには、マイユと同い年の女の子がわんさかいて、ああだこうだと服を選んでいたというのに。
この子には何かが欠けている。
今更気付いた、私は馬鹿。
ネコに興味を持って、よかったのかも知れない。
「マイユ。ネコの首輪、買いに行こう、今度」
私の言葉に、マイユは目をぱちくりとさせ、うんと頷いた。