3 魔法
黒髪を無造作に束ねた少女が、首を傾げて紙に書いてある文字を検分する。
きゅっ、と眉間に皺を寄せ、この世界のギルファロ国の言葉で、「これ」と言う。
「間違い」
「あぁぁ~~~」
また綴りを間違えた。
私はこの日何度目か分からない直しを始め、自分の頭の悪さを呪った。
ロイが私を保護することになって一ヶ月が経った。
ロイにはマイユという妹がいて、大きな一軒家に二人暮らしをしていた。私はその家の一部屋に居候し、ロイとマイユから言葉や国のシステムなどを学びながら生活している。
ギルファロ国は日本とほとんど生活水準が変わらないので、助かった。精神的なストレスで下痢になったり、体調を崩すこともあったけれど、思ったより早くに生活に馴染むことができたのは、そのお陰が大きいだろう。
それから、ロイが度々日本語で話しかけてくれる。ロイは二十二歳で軍人なのだそうだ。
いつもは仕事に出ているけれど、家に帰って来ると必ず私の勉強を見てくれる。ロイの無表情は、私と初めて出会ったときから変わりなく、最初は彼が怒っているのではないかと私はビクビクしていたが、妹も同じだし、ところどころで親切なので無表情が平常運転なのだということが分かった。
マイユはロイと見た目がそっくりだった。いつも白いランニングを着て、だぼっとしたズボンを履いている。あまり十五歳の女の子らしくなく、無表情で退廃的な雰囲気のある子だった。でも、日本語を話せないけれど、この国の言葉や綴りを馬鹿な私に根気よく教えてくれるいい子だ。学校には行っていないので、いつも私に付き合ってくれている。
この世界に来ることになるまで私は高校に通っていた、と言うと、「じゃあ学校行くか」と同年代の子たちが通う学校にロイが連れて行ってくれたが、まず言葉が分からないから学校行くだけ不毛だと骨身に染みただけだった。当たり前なのだけれど、実際自分で実感してみないと分からないらしい。同年代の子たちと同じように学校に行けないと分かるのは少しショックでもあった。
今は、学校に行けるだけの知識を目指して勉強している。まあ、ほど遠い気がして仕方のないわけだが。
それから、広い意味での私の同郷アラン・ゴートン氏の許でアルバイトをすることになった。
アランはイギリス人で、二年前に裂け目に入り込んでしまったらしい。最初は混乱したけれども、「遠い国に来たつもりでやればいいか」と気持ちを切り替えて、この国の一角でフィッシュ&チップスの店を開店した。異世界人の食べ物を売る店は話題になり、簡単に食べられるスナックが好まれて店は結構繁盛している。
バイト中のアランと私が話題に上げるのは、大概異世界に来てしまった悩みや愚痴である。アレンが英語で話すので、慣れない英語で話を合わせるのは大変だが、この国ギルファロ国の言葉と同時に英語も少しずつ上達している気がする。ネイティブと話すと上達する、というのは本当だ。
「他にもいるんだよ、中国人、ロシア人、ナイジェリア人、イタリア人もいたっけな」
「へぇ!」
「僕が一番古株で、しかも僕がいる世界で最もパブリックな言葉を喋るって言っておいたからね。政府からは異世界人が迷い込んでくると必ず通訳を頼まれるんだ」
と、アランはウインクをする。
アレンの話を聞いて私は首を傾げた。
「アレンが一番、古い?ロイは、古い古い日本人の子供だって・・・」
英語で話しているので若干変な言い回しになったけれど、アレンはオウ、と声を上げて説明した。
「子孫、だね。君を保護しているロイは、そういう生い立ちらしいね。彼は特異な例らしいよ。異世界人を保護する法律やシステムが出来るまで、異世界人が迷い込むと、この世界で消えてしまうことが多かったそうなんだよ」
「消えてしまう?」
アレンは肩を竦めた。
「詳しくは知らないけどね」
オウ、と思わず私も言って、魚のフライとポテトチップスを紙の皿に盛る。
何だか薄ら寒い気分だ。消えてしまう、ってどういうことだろう。
「まあ、僕はイギリスに帰りたいね。政府も異世界人に困っているらしい。元の世界に帰す方法を探しているらしいよ」
「本当?」
「ロイに訊いてみたら?」
ギルファロ国に異世界人の迷子が多いのは、初日にロイやアランから説明を受けている。
何故多いのかは解明されていない。日々研究を重ねている、とロイは説明していた。
代わる代わる説明してもらい、この国の政治について理解しているのは、この国が軍国国家であり、トップが総帥で、軍人が政治を行っていること、それからかつて大戦争があった際に最終的に戦勝国となった国であるということだ。
過去の大戦争を教訓に、この国は民族の寛容が目指されているそうで、そのため色んな肌や服装の人々が都市を歩いている。東洋系の人種は少ないとはいえ、私が歩いていても目立たない。
ロイはさほど政治に噛んでいないらしいが、階級の高い軍人の一人であるそうだ。赤いコートの金髪女性メイファは少し年嵩で、軍人かつ敏腕政治家らしい。
軍人の服装は階級によって色分けされている。赤はトップの方で、ロイの白い詰襟制服はアレン曰く「Special」ということらしい。
具体的にどういうわけだか分からないけれど、まあとりあえず、しっかりしている人のもとに私はいるのだろうと思う。
その日の夕飯の席で、私はロイに思い切って話を訊いてみた。
「ねぇ、ロイ」
「・・・なに」
「元の世界に帰る方法を、政府で探しているって本当?」
ロイが眼鏡の奥の目をぱちぱちさせた。
マイユがもぐもぐとお米を食べ、ボソっと言った。
「リナ、ギルファロ語でも言って」
「えぇ~」
「上手くならないよ」
「・・・うん」
まるで彼女の方がお姉さんのようだ。
私はない頭を振り絞って、ギルファロ語でロイに説明した。たどたどしい私のギルファロ語を追って、ロイはうんと頷いて、例のべらんめぇ調の日本語と、ギルファロ語両方で次のようなことを言った。
「突然現れる謎の人間。突然、元の世界から切り離された人間を、そのままにしておくわけにもいかない。そういう人間が出ないようにするのは当たり前だ。研究者は長年の研究で、異世界を渡る人間というものがいると突き止めている。今、その人間と連絡が取れないか、政府の魔法使いが四苦八苦している。帰りたい者が帰れるよう、政府は支援する立場をとっている」
ポロ、と私は箸を取り落した。
この世界に来てほっとしたことの一つ。
何故か、和食があった。
なんと、ロイとマイユのご先祖様ジンロクさんの影響らしい。ジンロクさんは米食をギルファロ王国に持ち込み、稲作を広めた人なのだという。流石日本人。
いや、ちょっと待て。
聞き捨てならないことをロイは言った。
「ま」
ロイは軽く目を見開いてこちらを見る。
「魔法使い?」
「リナ、箸を落している」
「魔法使い、いるの?」
マイユが私の箸を皿の上に置いてくれた。ごめん。
魔法使いの存在は初耳だった。
ロイは頭を掻いて、ぶつぶつとギルファロ語で呟いてから私に言った。
「そうですぜ。系統は色々だし、使える人間はァ限られている」
てかそのべらんめぇ調でやっぱり喋るんだ。
「そうだったんだ。私の世界にはいませんでした」
「いや、それを忘れていましたぜ」
そこでマイユが口を挟んだ。
「まあ、気にしないで。それほど一般的な存在じゃないから。とりあえず、そういう人たちもいるってことだから」
「マイユも知ってるの」
「うん、一応」
黒い澄んだ瞳で、マイユは私を見つめた。
「リナの帰り道をきっと見つけてくれるよ」
「早く帰れるよう、研究を急がせよう」
ロイがうん、と頷く。
急に、私は自分が居候で、彼らの生活に突然飛び込んできてしまった異物なのだということを思い出した。
遊んでいるのにも似たアルバイトをし、マイユやロイの時間を食ってひたすら馬鹿を晒している、無力な女の子。それが今の私だ。
誰のせいではないとはいえ、申し訳ない。
なるべく二人に迷惑かけないように、自立できるよう頑張らなくては。
自分の甘い現状を認識して、台をたくさん積み上げた上に立たされているようなグラグラした覚束ない気持ちを思い出して、ご飯を食べながら落ち込んだ。