8 巨大につき、大暴走
「ネコの首輪の色は、その日の気分によってのお洒落なの。美人さんでいたいときは青、おしゃまさんでいたいときは赤」
「そうなんだ」
「不思議なこだわりだ。気分に色があるのか」
「晴れた日の空は綺麗な青だったり、雨は透明だったりするじゃない!そんな感じ!」
拙いギルファロ語で一生懸命、自分の感覚を説明しようとするリナに、マイユはふんふんと頷き、俺はそういうものなのかと首を傾げる。
リナは些細な物事に気を配り、色を反映させる。
リナは自分のアルバイト代でさまざまな物を買い揃えていた。リナが家事をすることになって、台所や洗面台や風呂場は彩り豊かになった。
食事も、最初は失敗ばかりだったけれど、そのうち美味しいといえるものをリナは作るようになった。
こそばゆいような平凡な家庭をリナが作り上げ、それを元兵器の二人が享受している。
正直に言えば、幸せだった。
この暮らしがなくなったらと思うとひやりとするほど。
それでもリナはやっぱり、帰りたいのだろうか。
俺はもやもやしながら、リナの動向を窺っていた。
楽しそうにしている、と見えても、元の世界で使っていた通信機器を、エネルギーがなくなって使えなくなっているのに、偶に部屋で眺めていたり、持ち歩いたりしている。
「リナは、元の世界でどんな人と暮らしていたんだ」
怖いながら、聞いてみた。
リナが帰るにしても、ここにいるにしても、俺はリナのことを知りたかった。
元の世界のことを、俺は今まで聞いていなかった。前までは、元の世界のことより、この世界に定着する方が大事だったし、あまりリナがどういう人間といたか、なんて考えが及ばなかった。
だが、今は、元の世界が、どれほど大事なのかも、知りたかった。
俺はリナのことを、ただ保護しているわけではない。
この上なく愛しいものとして、見ている。
このまま何も知らないで、リナと一緒にはいられないだろうし、同時にリナを送り出せないだろうと思った。
リナは目をぱちくりとさせて、うーんと考えた。
「お父さんとお母さんがいて、学校に入る勉強をしているお姉ちゃんがいて、ちょっと馬鹿な弟がいたよ」
「家族で暮らしていたんだな」
「そう。それがごく普通で。学校に通いながら、クラスで面倒臭いなって思いながら勉強するの。友達がいて、休み時間にお菓子を食べて、お喋りした。どうでもいいことを。夏の大きな休みの前だったんだけど、海に行こうっていう話とかした」
これね、とリナがいつも持っている元の世界の通信機器を見せる。
「スマホっていうの。友達とこれでやりとりしながら、歩いていたの。そしたら、いつの間にかこの世界にいた」
細い指で通信機器を撫でながら、馬鹿だったなぁ、と呟く。
「どれだけ自分が、守られていたか、甘えていたか、知らなかった」
震える声で言うリナは、目に涙を溜めている。
ぽたり、と大粒の涙が落ちた。
「馬鹿だったなぁ。もっと自分で出来る事を、見つけておけばよかった。家族とか友達といれる時間を、大切にしておけばよかった」
リナにとってこちらの世界にいきなり迷い込んだことは、残酷な出来事だった。
その事実に、胸にぐさりと剣を刺されたような痛みが走る。
俺はリナにここにいてもらいたいし、リナと出会えてよかったと思っている。
しかし、リナにとってそれは不本意なことだった。唐突な不幸だった。
リナは泣きながら笑おうとした。
「でもね、こっちに来てからそれは分かったことなの。当たり前のようにそこに存在できるってことが、とても大切だったってこと。大事にされていたってこと」
「俺だってリナが大事だ」
リナが目を見開き、微笑んだ。
「ありがとう。ロイが私を大事にしてくれたから、私はここにいられてよかったし、ロイたちに出会えてよかったと思っている」
思わず腕を伸ばしかけたが、やめた。
これ以上踏み込むのが怖い。
「なんか自分で出来る事がないかなって、思って家事を始めたけど、思った以上に大変で、お母さん大変だったんだろうなとか思ったよ。・・・むしろ、こっちに来てなかったら、気付けなかったかも知れない」
リナは揺れている。
元の世界と、こちらの世界の狭間で、心を迷わせている。
つい、手が出てしまった。
ただし、頭を撫でるだけ。
リナは俺を見上げて、またぽろりと涙を流したが、頭を撫でていた手を取って「ありがとう」と言ってぎゅっと握りしめた。
リナの頭部を作り上げている成分も、リナの手を形成している成分も、俺は知っている。
触れる度に蠢く生命を感じ取る。
怖かった。
リナを壊してしまえる力が、怖い。
俺の手は罪深い。その手で俺はリナに触れ、慰めようとしている。
自分の矛盾した行動に軋む心に、苦しさを覚えながら、いざその時がきたら、リナの選択を一番に優先しようと俺は考えた。
それだけが俺の中の確実な良心だ。
そして、なるべくは、ここに来てよかったと思ってもらえる世界を、保ちたい。
リナが好きになりかかっている世界を。
好きだと言ってもらえた、自分自身を。
決意を固めていたものの、怖れていたときはやってきた。
ギルティ・ファローナ名義で連絡が届いた。
『異世界の魔女と連絡がつきました。すぐに軍部に出頭しなさい。』
俺はいつかみたいに、心をなくして軍部に出頭した。
当惑の表情を浮かべるリナとマイユを残して。
総帥が会議を開く大会議場は滅多に使用されない。重要で機密な内容の会議にのみに使用が許されるからだ。
メイファ大佐はおらず、中央の椅子にはギルティ・ファローナが座り、魔法使いたちや研究者が緊張の面持ちで沈黙して待っていた。
「来ましたか」
白い長い髪を流し、白い軍服を着たギルティ・ファローナは、赤い目を眇め、冷然たる面持ちで穏やかに言った。
俺が席に着くと、緊張感は増した。
ギルティ・ファローナがメモのような白い紙を手に、始める。
「世界を渡る魔女より、伝言です。何故彼女がこちらの言葉を分かったのか不明ですが、ギルファロ語で書いてあります」
会議室にいる面々が顔を見合わせた。
「これから彼女を呼びます。このメモを読み上げることで、より簡単にこちらの位置を確認できるそうです。読み上げます。『親愛なるギルティ・ファローナ様 異世界の迷子の件、了解致しました。そちらでこのメモを読み上げて下さると助かります。そうした方が簡単に移動できます。それでは後ほど』」
そのとき、空気の流れが一瞬変った。
前触れなどなかった。
静かに、何事もなかったかのように、その人間は現れた。
「どうもこんにちは。異世界の魔女です」
黒髪に黒目。リナと同じ民族だろう、リナと同い年ほどに見える少女が、ギルティ・ファローナの隣に、忽然と存在していた。
会議室の者は驚きの声を上げた。
俺も息を止めてしまっていた。
魔法を使った跡も残さず、異世界の魔女はそこにいた。
平然とした表情で、世界と世界を渡ってきた。
しかも、開口一番、ギルファロ語で挨拶したのだ。
魔法を使う者ほど、彼女の出現にこれまでの常識が覆され、愕然としていた。
森羅万象を操る魔法。変動をもたらすその法を、何の気配も残さないで使用する人間など、有り得ないと思われていた。
だが、そこに有り得ない者が存在する。
ギルティ・ファローナも言葉を失っていたが、冷静な顔で異世界の魔女に手を差し出した。
「私がギルティ・ファローナです」
「ああ、どうもわざわざありがとうございます」
異世界の魔女は穏やかに握手に応じる。
「・・・何故、異世界の言葉が分かるのです?」
「言語標準を合わせるという反則のような魔法を使っています」
魔女は冗談っぽく言った。
これまでギルファロは魔法を用いて他を圧倒することで勝ってきた。
魔法に秀でたルドクレス国を吸収し、この世界では確固たる強者となっていた。
だが、何だこの違いは。
指一本動かすにも緊張を感じる、そんな巨大な雰囲気を、会議室の魔法使いたちは皆感じていた。
ただの一人の少女に。
淡白な表情の異世界の魔女は、会議室を見回して、それから眉を下げて言った。
「そんな、取って食うために来たのではないですから、警戒しないで下さい」
無理だった。
硬直状態の会議室の面々を見て、ギルティ・ファローナ総帥は仕方なく、この世界に迷い込んでくる異世界人の説明を魔法歴史学者に命じた。
命じられた魔法歴史学者は、飛び上がって報告書を読み上げ始める。
昔からの異世界人迷子の経緯と、現在の異世界人の状態と、異世界に関する研究の進み具合が報告されていく中、俺は自分がじっとり手汗をかいていることに気付いた。
視線は異世界の魔女に釘付けだった。
異世界の魔女は話を聞きながら、会議室の机の上に置いてある地球儀をくるくる回しながら眺め、手渡された現在の異世界人に関する報告書を難なく読み、相槌を打った。
ごく普通に存在しているのに、彼女からは計り知れない存在の『重み』を感じる。
リナが帰りたいと言ったら、彼女は確実にリナを元の世界に戻すだろう。
・・・難なく。
俺はどこかで、自分が〝最強の兵器〟であることに、慢心していたことに気付いた。
力ずくでリナを奪えると、思っていやしなかったか。
だが、あの魔女は、俺の力ではどうにもできない。
リナは、確実にいなくなる。
一通り説明を終えたところで、異世界の魔女はすっくと立ち上がった。
「分かりました。早急に処理しなければならないようですね」
「何か解決策がありますか」
訊ねるギルティ・ファローナに、異世界の魔女は柔らかな微笑みを浮かべた。
ギルティ・ファローナはその赤い目を軽く見開いた。白い髪に赤い目。冷たく恐ろしい、しかし包容力のある総帥に、柔らかな微笑みを浮かべる人間など、これまでいなかったに違いない。
異世界の魔女は淡々と告げた。
「亀裂は修復できます。私が行いましょう。で、異世界人のことについてですが」
ちらっと彼女がこちらを見た。
その淡々とした、冷たい目線にはっとしたときには、彼女はもう宣言していた。
「帰りたい人は早急に帰らせます。なるべく本人の意思を尊重しますので、誰の意見も差し挟まないようにします。よって、これから行ってきます。では失礼」
「待ってくれ!!!」
思ったより、大きな声が出た、けれど。
次の瞬間には、異世界の魔女は身を翻して静かに消えていた。
会議室にいる全員が目を丸くしていたが、ギルティ・ファローナ総帥が大音声を上げた。
「何をやってるんですか!早く行きなさい!!」
頭が真っ白になり、気付いたら会議室の天井に大穴を開けて飛び出していた。
さほど家まで時間をかけなかったのにも関わらず、俺が到着した時には既に異世界の魔女は家に到着していた。
リナの部屋の前で、マイユが必死に索敵能力を展開して部屋の中の人物の位置関係を特定しようとし、時折リナの名を呼んでドアを叩きまくっていたが、びくともしていないようだった。
ネコが小さな身を震わせて、廊下の隅でみゃあみゃあ鳴いている。
「もう・・・来ているのか」
「お兄ちゃん!異世界の魔女が!びくともしないの。索敵展開しても、全然座標が掴めない!」
こんなに髪を振り乱して泣き声を上げるマイユを初めて見た。
俺は茫然としてリナの部屋のドアを眺めた。
今、その向こうで、リナは異世界に帰るかどうかの選択をしているというのか。
俺は、何も言えず、抵抗もできず、唯一の存在を失うのだろうか。
俺がこんなことを思うなど、馬鹿みたいだ。
散々奪ってきたというのに、自分の大切な人がどこかに言ってしまうのは嫌だと思う。
それでも。
気付いたら俺は破壊能力の展開をしていた。
「マイユ、どいてろ」
マイユが下がったところに、ドアに向けて手をかざす。
分解する要素はすべて分かる、はずなのに。
力を行使できなかった。
何かもっと巨大な力が働いて、俺の攻撃を無効にしている。
血の気が引いた。
「どんだけ力の差があるんだ・・・」
マイユが絶句して呟く。
俺は焦燥感に駆られた。
リナのためになるように、と思っていた。でも、やっぱり駄目だ。
この世界で微笑むようになった、異世界少女。
俺に心を教えてくれ、大切だと言ってくれた存在を、何故失えるというのか。
リナが元の世界に帰りたいなら、帰す。
それは分かっている。
だが、リナと一緒にいたいと思う心を伝えるのさえ、もう叶わないのだろうか?
せめて、リナと話して、納得したかった。でなければ、どうすればいいのか分からない。
リナがどう思っているかも分からないままいなくなってしまったら、俺はこの世界でどう存在していればいいのか、分からない。
俺は馬鹿だった。
この思いを、殺せやしないのに、何も伝えないまま、もう二度と会えなくなったら。
俺はいてもたってもいられなくて、ドアを叩いて呼びかけた。
「リナ!リナ!行かないでくれ!」
ドアを叩く反発の仕方がおかしい。
やはり、魔女が魔法をかけている。結界だ。物理的にも、魔法的にも、何も通さないようにされている。
それでも何か言わずにはいられなかった。
「リナのことを考えて何も言わなかったけど、俺はリナに帰って欲しくない!ここにいて欲しい!」
ドアをもう一度ぶっ飛ばそうとしたが、びくともしない。
滅茶苦茶に力を行使して意識が飛びそうになる。
マイユも後方で索敵能力を使い、中にいる人間を探ろうとしている。
「リナ!リナ!お願いだ、行かないでくれ!!・・・マイユ、魔法効くか?!」
「無理、向こうにいる人の座標がとれないっ。お兄ちゃんは?!」
「・・・くっ、駄目だ。結界の方が圧倒的に強い」
拳で思いっ切りドアを叩く。壊してもいい、それくらいの気持ちで。
壊れてもいい。
それくらいの気持ちで叫んだ。
「リナ!頼む、行かないでくれ!君が大切なんだ。元の世界に戻れた方がいいのは分かってる、でも行かないでくれ!愛してるんだ。・・・俺がこんなこと言うのは馬鹿かも知れないけど幸せにしたいんだ!お願いだ、異世界の魔女、リナを連れて行かないでくれ!」
懇願した。
「リナ、行かないでくれ!」
何万人も殺した〝兵器〟なのに、俺は自分勝手にも、リナを愛していた。
罪深い、恨まれている、呪われている俺が、人の愛すなんてことが許されるのか。大切にするなんてことが、できるのか。
リナの幸せを考えてきたつもりだった。
しかし、実際、俺は自分が幸せになりなかったのだ。
平凡で、素直で、目の前のものを簡単に信じ、面倒臭がりだけど些細な物事にやる気を見出す、自分の好きなものを見つけようとするリナに、俺は恋をしていた。
馬鹿だ。とてつもなく馬鹿だ。
〝兵器〟のくせに。
自分が〝兵器〟じゃなかったらよかったのに。
どこまでもどこまでも倫理観がついてまわる。俺は人殺しで罪深い存在なのだと。
戦争だからいいわけではないとギルティ・ファローナはひたすら主張していた。
それなら俺はどうなるんだ。恋をしても心を取り戻しても何かを大切に思えても、すべてが苦しい。
リナは今の俺を見て、好きだと言ってくれた人だ。
そんなリナがいなくなった世界に、一体何の意味があるのだろうか。
思いっ切り、力を込めてドアに手をかざした。
「リナぁぁぁぁぁーーーーーーーーーー!!!」
壁の一部とドアが吹っ飛ばされた。
・・・あれ?
茫然として肩で息をしながら自分が開けた穴の向こうを見ると、身を竦ませてリナがこちらを見ていたのでサーっと血の気が引いた。
ど真ん中にいたらリナに直撃していたところだった。
瓦礫を越えて、慌ててリナに近寄る。
「ごめん、大丈夫?怪我してない?あの魔女は・・・」
部屋を見回すと、異世界の魔女はどこにもいなかった。
側に寄ると、リナが泣きそうな顔をして寄りかかってきたので、受け止める。
心臓が激しく鳴った。
え?え?
魔女は?
「リナ・・・」
「大丈夫だよ、魔女は別の人のところに」
魔女はいなくなった。
リナはまだここにいる。ということは。
ゆっくりリナの体に腕を回す。冷静に、冷静にと自分に呼びかけながら、抱き締めた。
リナには心理的な鎮静作用でもあるのだろうか。
力んでいた精神と体が軽くなり、ゆっくりと言いたかった言葉を伝えた。
「リナ、元の世界に帰らないでくれ。俺は君のことが好きなんだ。我が儘だと思って、リナを縛り付けるのはいけないと思ったけれど、どうしても抑えられない。行って欲しくない。こんなに人に執着を感じるのは初めてで・・・どうすればいいのか分からない」
リナがぎゅっと抱きついてきた。
「私はロイの側にいていいの?」
「頼む」
「マイユと一緒に暮らしていい?」
「ああ」
「ありがとう。私ここにいる」
見上げたリナが嬉しそうな顔をしていた。
つい、顔を近付けてキスをしていた。
キスをしてから思い出した。
リナも俺が好きって言っていたわけじゃない。
猥褻罪、と思って血の気が引きかけたが、マイユが廊下でネコを抱いて俺たちの様子を見ていて、こう言った。
「リナはきっとお姉ちゃんになってくれるね」
リナの顔は真っ赤になって、下を向く。
俺の腕の中で、呟いた。
「私もロイが大好きだよ」
その呟きは、俺の中のすべての混乱を一本の線にして、乱れた精神を安定させた。