4 動揺
この国に法律があり、異世界人救済法がなければ。
俺は彼女に気付きさえしなかっただろう。
今はただ、それがひたすら恐ろしい。
まさかあのやたら「エー」と伸ばす発音の多い言葉を実際に使うときが来ると思わなかった。
俺はその日、休暇中だった。急遽出向するよう求められて困るほどの用事など元々ないのですぐに本部に向かったが、それがニホンジンの異世界人迷子のためだと分かって意外に思った。あんな複雑な文字体系を使う民族が世界の多数派になるとは思えなかったから、こちらに来る確率も低いだろうと思っていた。
あれから確認された異世界人は数名である。異世界との裂け目は様々な場所に現れるようで、異世界人の人種も異なり、またこちらの世界に現れる場所も旧ルドクレス国内である以外は無作為だった。研究は進められているが、謎がまだ多い。
ただし、保護は手厚くなっている。異世界人対策課にすべての情報が集まるので、一括管理している。言語に関しても異世界人から聞いて記録してい有る。
都市のど真ん中で店を開いたイギリスジン、アランは向こうの世界で共通語となっているのは英語だと言っていた。そのため、アランは比較的軍部の近くに留まってくれている。アランは都市にいる異世界人の中では古株だ。
確かに英語は大概の異世界人に通じ、異世界人はアランの英語を聞いて平静を取り戻していたはずだった。
会議室に数人の軍人とメイファが詰め、アランと共に事情の説明に必死になっているらしい。
ニホンジンは英語では落ち着かなかったのだ。何故だろう。
疑問に思いながら会議室に入ると、その女の子は涙をボロボロと流しながら真っ黒な瞳で俺のことをぽかんと見つめた。
あまりにも注視するので、俺は奇妙な心地がした。
そんなふうに真っ直ぐ見られるのは初めてだった。
敵意もない。否定の色もない。憐れみもない。恐怖もない。
ただ、純粋に何かを求めるような目線。
戸惑いを覚えながら、目の前に座って、彼女を見据えると、とても普通な少女に見えた。
彼女もこちらを真っ直ぐ見つめてくる。
一体、彼女から発せられるニホンゴは、どんな響きを持っているのだろうか。
自分がそんな気持ちを持つこと自体を疑問に思いながら、俺は練習したジンロクの残した言葉を発した。
「わっちの言葉が、おまえさん分かるかえ?」
「ちょっと待て」
何故か慌てるように静止を求められ、俺の思考は停止した。
通じた。彼女の言葉も分かる。
だが、止められた。しかも命令形で。
何でだ。
疑問符を浮かべている俺の後ろで軍人たちが喜びの声を上げ拍手をした。
メイファに命じられ、異世界の少女コウザイ・リナは、俺が保護することになった。
命令に従わざるを得ないものの、どうすればよいか分からなかった。異世界人保護のマニュアルなどない。大体の異世界人は給付金を受けながら自立しようとするからだ。だが、リナは保護者がいなければならない年齢だった。要するに生活能力がない。
俺に生活能力があるかどうかは別だが、家もあるし生活環境は一応ある。言葉を教えなければならないから、ニホンゴが多少分かる俺は適任といえる。それに、家にはマイユがいた。
マイユは突然俺が異世界の少女を家に連れて帰ると、じーっと観察し、「私が昼間に言葉を教える」と申し出た。真っ黒な髪の毛に黒い瞳。象牙色の肌の同じ年頃の少女に興味を持ったらしい。
俺はリナから情報を引き出して彼女に相応しい環境を作ってやらねばならなかった。
なので、必然的にリナとよく喋った。
「リナは向こうで何をしてたんで?」
「・・・学校行ってた」
「ガッコー?」
「寺子屋・・・とでも言えば伝わるのかな?」
寺子屋。
ジンロクが単語帳に書き残していた。学校のことである。
「こっちにもありますぜ」
「まじで?!通じた!!」
まじで、とは何だろう。
できれば簡単なニホンゴを使って欲しい。
「リナは面妖なコトバを使うな」
「めんよう。めんようって何?羊の毛?」
どうやら百年以上前のニホンゴと現代ニホンゴには表現や語彙や発音に多少の違いがあるらしかった。
学校に行っていたのなら、こちらでも学校に通ったらどうかと連れて行ったが、リナが言葉が分からないと落ち込むだけになった。
ゲイロン氏の論文には、異世界人の保護に社会参加が欠かせないと書いてあった。そうしなければ、異なる世界から弾きだされ、異世界人は消失してしまうのだと。
社会参加とは何か。
とりあえずこの世界の保護者である俺とマイユの生活に絡めばよいのではないだろうか。
それならば家の中で役割を決めてみたらどうかと思い、リナに俺とマイユを朝起こす係を頼んだ。これは結果的に俺とマイユにとって正解だったが、リナを相当苦労させることになった。俺とマイユは自然に目が覚めるまで、なかなか目が覚めない。自分たちも意識していなかったことだった。まだまだ知らないことがあるものだ。
アランの店にアルバイトさせてみるのも、手段だと思ってアランに頼んだ。
色々工夫して、試してみないとリナは消えてしまうのかも知れない。
法律で守られている、ギルファロ国に国民として認められている人間の存在が守られないのは避けなければならない。
リナは時折沈んだ表情でぼんやりしていた。
放心状態、というやつである。
それからよく泣いた。自分の世界からはぐれた者は、その喪失感に苦しむと論文にはあった。
よく分からないが、リナのことを様子を見ながら、なるべくニホンゴで声をかけるようにした。
リナは物覚えが悪かったし、あまり勉強が好きでないようだった。
簡単な単語もすぐに覚えられず、絵本を見ながら首を傾げるので、何でこんなのも分からないんだと思った。
そんな姿を見ているとイライラする。この世界に溶け込まなければ、存在の存続も危ういのに、それを理解できるだけの言語能力も今はない。
なんて合理的でない存在なのだろうと焦った。
だが俺は後で気が付いた。
初めて他人にイライラした。
食事を見て日本食だと言って喜んだ。
「お米!あるんですね!びっくり」
「わっちの親の親のまた親ジンロクが広めたんでぇ」
「革命的な人だったんですね」
リナが何やら感心しているのは分かったが、俺は「カクメイテキ」という言葉の意味が分からなかった。
懐かしいかと思い、ジンロクが残した資料を見せると読めないと言っていた。現代ニホンではあんな複雑な表音文字の体系を使っていないらしい。百年の隔たりは激しい。
魔法のことを知って、リナは目を丸くしていた。リナがいた世界には魔法がないという。
政府が異世界に帰る方法を調べているのかと訊いてきたので、早く帰りたいのだろうと思った。
だが、その内、リナは俺とマイユの生活の中に当たり前に存在するようになった。
俺がニホンゴで声をかけると、リナは笑いを堪えるような顔をして、ほっとした表情をする。
新鮮な驚きを見せるリナの様子を見ていて、俺はついリナに何かを教えたくなる自分を発見した。
とても奇妙な心地だった。
家の中に、気に掛けないとならない存在がいる。
保護しなければならない、異世界人。法律で守られた、国民の一人。
軍事に特化した魔法など、彼女の存在を守るのに、一切役に立たない。
彼女に必要なのは、この世界を教えること。
それだけ、ではなかった。
夜中に悪い夢でも見るのか、ひどくうなされているのが聞こえてくる。
戦場で鍛えられた俺とマイユは耳がいい。
リナが泣いていると俺は妹とリナの部屋でかち合わせるようになった。
ベッドに苦しそうに泣いて、無意識に暴れているリナの姿は異様だった。
ベッドに上がって側に寄っても、どうすればいいのか分からなかった。
「何でこんな泣くんだ」
「世界を失ったから」
「悲しいのか?」
「私はリナじゃないから分かんない」
マイユは眉間に皺を寄せ、「でも」と言った。
「まるで世界を拒絶しているみたい」
リナは帰りたいのだ。リナを存在せしめた世界へ。
だが、帰る方法は今のところない。
ここでどうにか存在を確立させ、生き延びなければならない。
困っているところで、また発作のようにリナが眠りながら泣き出した。
腕をばたばたと暗闇の中に動かすので、思わず掴んだら、リナがもう片方の手で俺の寝巻を掴んだ。
わけの分からないうちに俺はリナを抱き締めていて、すっぽりと腕の中に収まるリナの小ささに驚いた。
どうしたんでぇ、と繰り返しながら暴れるのを治めこんでいると、その様子を観察していたマイユが目をぱちくりとさせて言った。
「お兄ちゃん」
「あ?」
「それいいかも知れない」
「え?」
「リナの気が収まってきている」
息は荒いけれど、確かに静かになっていた。
マイユはリナの背を撫でながら、ギルファロ語で大丈夫大丈夫と繰り返した。
「何だそれは」
「なんだって?」
「大丈夫って何が大丈夫なんだ」
「お兄ちゃんと私が保護して守らないといけないんでしょう?私たちがいるから大丈夫ってこと」
正確には俺が任務を受けているんだが。
「科学的・論理的じゃない」
「うん。でも落ち着いてきたよ」
リナはぐったり俺に体を預けて、すーすーと寝息を立てていた。
マイユはぽつりと言った。
「不思議だね。赤ん坊も母に抱かれると泣き止む。人のぬくもりって何か心理的作用があるのかな」
リナの安心した様子に、ほっとしている自分を発見して、俺はこれも心理的作用なのだろうか、と思った。
その後、俺とマイユは左右からリナを抱いて寝たが、俺はなかなか眠れなかった。
何故かこんな形で眠ることになったが、俺はこの形態に一応賛成した。
弾きだされて消えそうなリナを囲んで抱き締めていればこの世界に留めておける気がした。
論理的に説明できない、科学的根拠のない行為である。
だが、こうでもしないと、魔法の研究によって、論理で構築され、科学的根拠によって立証されている事実だけでは、異世界人の少女をこの世界に留めておけない気がした。
俺が守らなければならないのは、一体何なのだろう。
法律で守るべき国民?異世界人救済法に則って保護された異世界少女?
それは間違っていないはず、だが、違和感がある。何かが違う。
腕の中にいるのは、自分と自分の関係を形成してきた世界とはぐれ、闇雲に何かを掴もうとするリナだった。
不安がり、世界に惑い、拒絶する。
それに気付いた俺の心に、痛みが走った。
突然理解した。
俺が守らなければならないのは、この国の国民として認められた異世界の少女ではなく、この世界に放り出されて泣いているリナなのだ。
急に、俺の中に異物が入り込んだような心地がした。