第三話 二人去りマンケン意地固め。
かつて同学年の美術部部員は二人いた。
二人の在籍期間は面白いようにほぼ重複することなく、二人が同時に在籍したのは一週間もなかったと記憶している。
最初の一人は「一河」とでも称しておこう。
一河は背丈は大きく細身で黒縁の眼鏡をかけた、顔立ちは至って普遍的な第一印象は真面目青年そのものだった。
一河と遭遇したのは美術部活動中の美術室にてであった。彼が体験入部、仮入部に訪れたことによるものである。
話してみると一河と自分の趣味はたまたま偶然にも合致した、それが趣味の一つのアニメ鑑賞だ。
一河は仮入部期間を終えて美術部に入部し、アニメ談義を繰り広げ、美術顧問に静粛にと注意されるほどに部活動中の会話は盛り上がっていた。
天狗時期の自分とはいえ、比較して一河の技能はそこまで優れているようには思えなかった。
美術センス的にも描写技術的にも、特筆する部分はあまりなかったと言えよう。
自分の趣味でもあるアニメ絵を彼も描いていたが、今でもおそらく彼より自分は上手だったと確信が持てるほどだ。
話の途上で、彼は衝撃の事実を言い放つ。
彼は自分が探し求め、顧問や教師間でも放棄されユーレイ部活と化した「マンケン」に入っているという。
つまり彼は美術部とマンケンを兼部していたのである。
もちろん兼部が出来、部活そのものが存在するのであれば、マンケンにいざ向かうに決まっている。
一河に案内を頼みこみ、そうしてマンケンへの道は開かれた。
いざマンケン部室を目前にして視界が捉えたのは無機質な鉄扉と、周りの環境から考えてもそこまでの部室の規模でない事実。
そして扉の先には、おおよそ畳一枚ほどしかないであろう空間が存在していた。
そこには所せましと簡易な雀卓が中心点には置かれ、後には積み上げられる大量のマンガや同人誌の数々。
見渡すほどの空間はなかったが、目を必死にあちらこちらへと動かしてもマンガの画材のようなものは一切見れなかった。
そう、マンケンは一畳ほどの部室があってもタダの自由空間ならぬ自遊空間としての機能しか持っていなかったのだ。
ここで、マンケン入部への期待も希望も儚く砕け散る。美術部一筋で行くことを自分は決意した。
一河は突然に「同人誌を作らないか?」というアニメ趣味が共通したが故の提案をしてくる。
同人誌とは、簡単に言えば自分が勝手に描いたマンガや小説やイラスト集だ。
同人誌には即売会も存在し、場所代や出店料のようなものを払うことで一次創作・二次創作問わず売ることができる。
商業作品と異なり、印刷やもろもろの出費は自己負担。道楽としては容易だが、実際に利益を得ようとすればそれは困難であった。
そんな同人誌作りに興味がないわけではなかったことから、試しに自分も参加を表明した。
すると一河は「俺の仲間も呼んで××で話し合ってみようか」とさらに提案、場所も自宅からそこから遠いことなく好条件だったので了承したのだった。
そうして同人誌を売るための話し合いの場として、一河と一河の仲間四人ほどと自分がファストフード店に一同に会した。
個人的な一河の友人達の印象としては、どこにでもいるような「チャラ男」達だったと言えよう。
正直自分が苦手とするタイプで、正確やら感性が大きく異なるような偏見があり、どうにも好けない男たちだった。
そうしていざ企画に誘われたのだからと、おおよそ概要が決まっているのだろうと思い「どんな作品を元にするのか?」や「誰が描くのか」というのを聞いてみることにした。
返ってきたのは、この自分や一河含めて六人ほどの中で絵が描けるのは自分と一河のみ。その時点で暗雲が立ちこめる。
それじゃあ俺と一河以外は何をするのかと、聞いてみるも返答ははっきりしないものばかり。
とりあえず題材を決めようと言うも、ほぼ流されてただ会話の為に集まっただけのように仲間同士での、一河も含んだ「同人誌と関係のない」会話が始まる。
コミュニケーション能力に乏しい自分自身はそんな会話についていけるはずもなく、彼らとの温度差に憤りが募っていく。
彼らは何がしたいのか、そして自分は同人誌を作るために集まったと思っていたのにこの様。
誘われた側が内容決定の催促するなんて、本当なら間違っている。
それでも自分は同人誌が描けると思って期待に胸を膨らましてこの場に足を運んだのだ。
そして思う。
ああ、自分はコイツらとは合わない。
それは一河も含まれていて、誘った当人がこの状態じゃ先が見えてしまう。自分が早漏だったのかもしれないし早とちりだったのかもしれない。
けれども、彼らと同人誌をつくる。
正確には俺と一河だけが作業し、他の男達はただ会話の場を設ける為に来ている――そんな想像とは違い過ぎる未来の光景が浮かんだ。
自分は席を立った。
相性の全く合わない彼らとの一時間はつらいもので、はやくに店を出ることとした。
当初の目的である同人誌の話し合いをしない、更にはついていけない会話を繰り広げられる彼らに付き合ってやれるほど自分に余裕も器量もなかったのだ。
そうしておそらくは自分のせいで早くの解散となった後日、一河との距離は自然に離れていった。
同じ部活なのに話すことは次第になくなっていき、最終的には一河は部活に来なくなった。
それが自分による一河の仲間への憤りに一河が気付いたことからの、遠慮なのか拒絶なのかは分からないが時期は非常に重なっていった。
そして数週間経たぬ間に一河は部活を辞めた。
その後三年間彼と遭遇することなく、自分の記憶には「あっさりと辞めていった同学年の部員」とした印象が残るのみとなった。
二人目は「二松」とでも言っておこう。
彼に関しては同じクラスであり友人だった。部活に無所属だったことから美術顧問が目を付けた生徒でもある。
二松は小太りで老け顔で髪はキノコヘアーというなかなかに濃い容姿をしており。クラスでの愛称の一部に「オッサン」があるほどであった。
彼とはもう一つの趣味こと鉄道趣味が合致し、実際にクラスでは鉄道の話題で盛り上がっていた。
二松の技能レベルはおそらくは当時、いやあの学校でもズバ抜けていたようにも思える。
鉄道車両や建造物を描写することを得意とし、線が非常に細く殆どフリーハンドで乱れることなく書き込みも緻密で繊細な絵柄が特徴だった。
背景画を描かせたら、当時の先輩の在籍する美術部でも右に出るものはいなかったであろう――そのような美術技能と才を持っているのが彼だった。
一河と入れ替わるようにやってきた二松と美術部活動中には鉄道の話題で盛り上がり、またしても美術顧問に静粛にと注意を受けるほどだった。
技術を持ち合わせた上に自分との会話が通じる、彼はもしかすると美術部三年間共にする僚友なれるのではないかと思った。
しかし彼のメッキが剥がれるのはそう遠くはなかった。
夏休みこと七月の終、一年生も問わず補習に参加する生徒もおり二松もその一人だった。
補習だからと彼は部活を休むのだが、その休みの頻度があまりにも多すぎた。ほとんど部活に無出席状態になっていたのである。
自分は「忙しいのは分かるが少しぐらいは先輩に顔を出しおいた方がいい」と忠告するも、彼はそれを無視し何かに付けて理由を設けて部活を休んだ。
ついには水泳補習の日で、雨天により中止になり早くに補習が終了したことで十分に部活に顔を出せる余裕があるというのに彼は部活に来ることはなかった。
夏休みが明けても出席回数は減り、夏休み明けに始まる文化祭準備に関しては一度しか来なかったことから彼こと二松のやる気のなさや不誠実さが分かるだろう。
自分はこれでも彼の友人を自称していたこともあり、痺れを切らして呆れて言葉が出なくなる先輩への弁護を欠かさなかった。
自分の口癖は「明日は来ると思いますから」になり「二松は塾があるから」と理由付けして来ないに対して「せめて顔は出せ」と促すも来ることはなかった。
文化祭準備は美術部が一番東奔西走し多忙な時期である。
その大事な時期に彼こと二松は何かに付けて休み、顔をも出さないものだから自分の弁護に免じてなのか寛大な心をお持ちの美術顧問も堪忍袋の緒が切れるものである。
正直この文化祭開催直前まで特に申しだすことなく耐えてくれた美術顧問の器の大きさは感涙モノであった。
そして美術顧問は退部を彼に突きつけた。当然の決着ではあるが、俺はそれでも弁護した。これでも友人を自称しているつもりだったからだ。
先輩は呆れ顔になりながらもその意思を汲んでくれて、美術顧問もその退部宣告を取り消してもいい、ということにもなった。
本当に優しい先輩や美術顧問を持ったものである。これで心を入れ替えて、復帰してくれるだろう――
しかし彼は結局美術部を辞めたのだった。
二松に聞いてみると、彼曰く「辞めさせられた」のだという。
しかし美術顧問がそんな嘘をつくわけでもなく実際は自主的に「辞めた」のである。
二松はそうして俺に嘘をついた。二松は先輩に謝ることもせずに美術部には一切来なくなった。
このときに自分の幾度に及ぶ弁護とはなんだったのか、先輩たちの寛大な決断を踏みにじったことによる憤りが募るのは至極当然と言えよう。
彼こと二松はとにかく何事にもいい加減で――どうしようもないクズ野郎だった。
しかしそんなクズ野郎と鉄道趣味の合致から三年生の晩期こと十一月まで友人付き合いがあったのを、今思えば不可解なことである。
十一月に自然と二松と疎遠になり、卒業に至るまでまともに会話することなく彼との関係は完全消滅した。
これが一年持たずに去っていった二人の美術部員の顛末。
「早すぎる退部野郎」と「いい加減すぎるクズ野郎」そんな二人を見てきた自分だからこそ、美術部を意地でも続けてやろうと自分は思った。
時は十一月。文化祭も終わり、高校美術展を控えるその頃に自分はそんな強い意思を固めたのだった。