第10話 多層世界の真実と天魔の天秤
この世界の構造(最上層~最下層)
階層 世界 六天守(称号・名)
最上層 天界 万物の源流
第二層 神界 天帝 天来
第二層 天空界 風聖 風輪
第二層 冥界 冥月 闇夜
第三層 人間界 水神 水月
第三層 魔界 魔獄 血丸
最下層 地獄界 炎王 炎魔
天魔の天秤
左の皿で天素を吸ったり吐いたりする。右の皿で魔素を吸ったり吐いたりする。
※ 天素を吐きだす時は、神や神獣が生まれない様に薄い天素が出る
午前七時を指している。
どうやら、昨夜の地獄のような『調整』の最中に、意識は限界を迎えていたらしい。
処置室で力尽きたはずの体は、いつの間にか硬い簡易ベッドの上に運び込まれていた。
(……生きているのね、まだ)
身体を起こし、シーツから出た腕を見て、息を呑んだ。
透き通るようだった白銀の肌は、どす黒い魔素に侵食され、闇がこびりついたような色に変色している。
鏡を覗き込めば、かつての澄み切っていた瞳は消え、血を流し込んだような不気味な赤色が見返していた。
「調整成功、か……」
皮肉なものだ。身体の痛みは嘘のように消えている。
それどころか、皮膚のすぐ裏側で、制御不能なほどの暴力的なエネルギーが渦巻いているのが分かる。
ベッドから這い出し、その場に立ち上がった。
痛みはないが、まるで別人の肉体になったかのような奇妙な感覚に眉をひそめる。
脇に用意されていたインナー用の簡素な服を手に取った。
本来は鎧の下に着るためのものだが、今はこれで十分だ。
どす黒く汚れた肌を少しでも隠すように身に纏い、診察室へと足を向けた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
診察室では、昨夜の博士が一人、手元の魔導水晶に映る数値をチェックしていた。
近づく足音に彼は顔を上げ、じろりとこちらを見た。
「異常はないか、フェンリル」
「ええ。身体は動くわ。……この肌と目は、いつ戻るの?」
「知っての通り、それは無理やり入れられた魔素の残りカスだ。一日もすれば少しずつ引いていき、やがて完全に消える。だが、安心するな。調整を繰り返すたび、お前の『神としての美しさ』は確実に削り取られていくのだからな」
博士はそう言うと、周囲にいた助手たちを顎で追い出した。
重厚な扉が閉まり、静まり返った部屋の空気が、一瞬で重く、ひりつくようなものに変貌する。
「フェンリル……。出撃前にお前に、どうしても教えておかねばならんことがある」
いつもの冷淡さは消え、その声には押し殺したような焦燥と、隠しきれない震えが混じっていた。
思わず、博士の濁った瞳を凝視した。
「……何かしら。そんな神妙な顔をして。何か、聞かせたいことでもあるの?」
問いかけに、博士は応えず、背後の気配を警戒するように声を極限まで落とした。
「茶化すな。これは、お前の命……いや、この世界の存亡に関わる話だ。……お前は、この世界の『形』について、どこまで知っておる?」
唐突な問いに、戸惑いながらも、記憶にある知識を口にした。
「……どこまで、と言われても。この『神界』があって、その上には『天界』がある。下には人間たちが住む『人間界』や、不浄な魔物がうごめく『魔界』や『冥界』が点在している……。それくらいは、子供でも知っていることだわ」
博士は力なく笑って首を横に振った。
「いいか、耳を貸せ。……世界はそんな単純な横並びではない。多層構造になっておるのじゃ」
「……多層構造? 聞き慣れない言葉ね。どういう意味かしら」
「ふん、無理もない。戦うことしか教わらぬお前たちが知るはずもないことだ。……簡単に言えば、世界はいくつもの階層が重なり合ってできているということじゃ。最上層の『天界』、第二層の『天空界・神界・冥界』。そして第三層の『人間界・魔界』、最下層の『地獄界』だ。それぞれが次元を違えて重なり合っておるが、別の層へ渡るには『時空の門』を抜ける以外に道はない」
「……そんな話、一度も聞いたことがないわ。与えられるのは、戦うための命令だけだったもの」
淡々と事実を告げると、博士は深い溜息をつき、手元の魔導水晶から視線を外した。
「……だろうな。お前のような冴えた頭を持つ者が余計なことを考えぬよう、奴らは情報の蛇口を閉めておる。だが、何も知らずに使い潰されるのも、あまりに滑稽だ」
「……随分な言い草ね。一体、何が言いたいの? 回りくどい言い方はやめて、はっきり言ったらどうかしら」
射抜くような問いかけに、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
博士はゆっくりと振り返り、震える手で自身の白衣を強く握りしめる。
「――ここからが本題だ。 よく聞け。すべての源である『天素』と、よどみである『魔素』……この二つの関係こそが、お前が知るべき真実だ」
(天素……? 天素って、何? 初めて聞く言葉だわ。教わってきた魔素とは、全く別のものなの……?)
思考が追いつくのを待たず、博士は溜め込んでいたものを吐き出すように、一気に言葉を紡ぎ始めた。
「天素は天界が生んだ、最も純粋なエネルギーじゃ。その天素が神や神獣を生み出し、天空界と神界を造り上げた。だが、それが端で澱み、第二層の底に冥界を生んだ。その冥界の魔素がさらに下へと落ち、魔界や地獄界を形成したのじゃ」
博士は一度言葉を切り、苦々しく顔を歪めた。
「だが、それでは第三層が魔物だけの地獄になってしまう。それを危惧した天界は、世界の均衡を保つ『天魔の天秤』を作り出し、人間界を創造したのじゃ。これは、偏った力を吸い込み、別の力を吐き出すことでバランスを取る装置じゃ。天素が多い場合はその天素を吸い込み魔素を吐き出し、魔素が多い場合は薄い天素を放出する……そうやって人間界を創造し、維持してきたのじゃよ」
「……天魔の天秤?」
その言葉に含まれた不穏な響きを、聞き逃せなかった。
聞き返す私の声には、隠しきれない緊張が混じる。
「そうじゃ。だが、その天秤が二百年前に余計な事件を引き起こした。天素は別名『亜魔素』と言い、長い年月を経て天空界や神界が出来た時のように、突然変異を誘発する力がある。……『人間界での神の誕生』じゃ」
(人間界で、神が……?)
動揺を一切表に出さず、ただ氷のように冷めた眼差しで博士の次の言葉を待った。
沈黙に耐えかねたように、博士が再び口を開く。
「人間界で神や神獣が発生せぬよう、魔素を吸い込んだ時は薄い天素を吐き出していたのに、突如、突然変異で、人間界から水神と呼ばれる、神をも凌駕する力を持つ異端が生まれた。それがおよそ二百年前のことじゃ。そして、この神界に魔物が現れ始めたのも、同じ二百年前……。今のこの神界の混沌は、全て繋がっておるのかもしれんのう」
心臓が冷たくなるのを感じた。
「……人間界を脅威に感じた誰かが、あえて神界にその『天魔の天秤』を持ち込んだ……と? それが、この魔物の異常発生の原因だと言うの?」
逃げ場を奪うような問いに、博士は答えなかった。
ただ、深く刻まれた眉間の皺をさらに深くし、視線を泳がせただけだった。
沈黙は、肯定よりも雄弁に真実を物語っている。
だが、それ以上に拭えない違和感が胸に渦巻いた。
博士の方へ身を乗り出し、その枯れた腕を強く掴んだ。
「……一つ、聞いていいかしら。なぜ、そんな機密を話したの?」
掴まれた博士の腕が、わずかに震える。
その瞳を正面から見据え、さらに言葉を重ねた。
「この神界を護る『十二神』の一席。使い潰されるだけの駒ではないはずよ。 なのに、なぜ上層部は真実を隠し、あなただけがこれを打ち明けたの? ……あなた、私に何を望んでいるの?」
博士はゆっくりと手を振り払い、力なく視線を落とした。
その顔は、先ほどまでの冷徹な研究者のものではなく、ひどく疲れ切った一人の老人のようだった。
「ワシには息子が……、いや……さあな。ワシはただの老いぼれ博士じゃ。だが、真実というものは常に、もっとも残酷な場所にある。……お前がそれを知った上でどう動くか。ワシが見たいのは、その『結果』だけかもしれん」
その言葉は、突き放すような響きでありながら、今の歪んだ神界の運命を、十二神であるリルに託したようにも聞こえた。
博士はそれ以上語るのをやめ、合図を送ると、再び重々しい扉が開き、無機質な白衣を纏った助手たちが部屋に戻ってきた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「……これより、最終確認を行う。フェンリル、バトルカウンターの前へ」
促されるまま、部屋の隅にある巨大な装置の前に立った。
それは、対象が放つ魔圧を数値化し、その『存在強度』を測定する装置だ。
「魔力解放。全力でやれ。ここで自身の出力を把握できねば、戦場でその身を焼き切ることになるぞ」
博士の鋭い言葉を受け、深く息を吐いた。
意識を内側に向けると、昨夜無理やりねじ込まれた濁ったエネルギーが、血管の奥で獣のように咆哮を上げた。
「――はぁぁぁッ!!」
叫びと共に、魔力を一気に解放する。
ドォォォォン!という衝撃波が部屋を揺らし、計測器の装置が激しく点滅を始めた。
表示される数字が、目まぐるしく跳ね上がっていく。
2000……5000……8000……。
かつての限界値であった8500を、一瞬で通り過ぎる。
10000……13000……15000……!
「なっ……!? バトルポイント、更に上昇します!」
助手が驚愕の声を漏らす。
通常、神界の調整による強化限界は、元の数値の1.5倍が定石だ。
それ以上の負荷は、対象の肉体そのものを崩壊させてしまうからだ。
ピピピピピィッ!!
激しい警告音と共に、数値が固定された。
【BATTLE POINT:17000】
「1万7000……。通常時の2倍だと!? 馬鹿な、そんな負荷に耐えられる肉体など……!」
助手の手が震え、記録用の魔導書にペンが走る。
彼らは『調整成功』の欄に機械的にチェックを入れたが、その瞳には恐怖の色が混じっていた。
1万7000。
それは十二神の枠を遥かに超え、最高戦力である『三傑』の領域に足を踏み入れんとする、異常な数値だった。
「……1万7000か。十二神の限界を超えているわね」
自身の掌を見つめた。
どす黒く変色した肌の奥で、制御しきれない暴力的なエネルギーが脈動している。
まるで自分の中に、もう一匹の飢えた獣を飼いならしているような、不気味な万能感。
これが、今の私。
もう神とすら呼べない化け物ね。
「……『調整』成功だな。フェンリル、こちらへ来い」
博士が助手たちを下がらせ、奥の私室へと招き入れた。
デスクの端には一枚の写真が置かれていた。
そこに写っているのは、まだ若かりし頃の博士と、その隣で肩を組み、穏やかに微笑む一人の青年だ。
ラフな私服姿の青年の首元には、紫色をした歪な形の石が、吸い込まれるように綺麗に光るペンダントとして揺れている。
博士は震える手で、その写真の横に置かれていた腕輪を取り出した。
「これを持って行け。『時の腕輪』じゃ。……ワシの、息子から預かった物でな。何でも異世界から来た技師が作ったらしい。そいつを身につけて行け」
差し出された腕輪を受け取ると、それは驚くほど透き通り、不思議な輝きを放っていた。
腕輪を手に取ったまま、写真の中の青年の首元で光る、あの紫色の石をじっと見つめる。
ふと、その外側に目をやると、精密な細工に混じって、場違いなほど無機質な文字が刻印されていることに気づく。
――『みんなのコンピュータ 3機』。
(……何かしら、この言葉。異世界の技師が作ったという、この綺麗な腕輪に、一体どんな意味があるの?)
思わず指先でその文字をなぞる。
博士の視線は、目の前の現実を通り越して、遠い過去を彷徨っているようだった。
「……その腕輪が真の力を発揮する時、お前はワシの言葉を思い出すじゃろう。いいか、フェンリル。戦場では何が起こるか分からん。もし……もし、運命を呪い、この世界に絶望した時は、その腕輪に魔力を込めろ。……すべてを、やり直すつもりでな」
博士の目は、いつもの冷たい科学者のものではなかった。
何かを必死に祈っているような、あるいは、何かに必死にしがみついているような、そんな目だった。
その重みを感じながら、細い手首に腕輪を嵌めた。
冷たい感触が、なぜか少しだけ心を落ち着かせた。
(絶望した時? 時の腕輪? ……これで別の次元の世界に行けと言う事かしら? 博士は逃げろと言っているの?)
問い詰める時間はなかった。
廊下から響く重厚な鐘の音が、作戦会議の刻限の刻限を告げていた。
「……行くわ。博士、一つだけ教えて。あなたの息子さんは、どこへ行ったの?」
「……先鋒として、五十年前の『モンスターテン』で戦死した。……データだけを遺してな」
博士の短い答えに、唇を噛んだ。何も言わず、背を向けて歩き出した。
「……データ、か。死ねば、最後に残るのはこの数値だけなのね」
悲しそうに少しだけ笑った声は、自分でも驚くほど低く、もう人間のものとは思えない響きだった。
「フェンリル……死ぬなよ」
背後から聞こえた博士の小さな声を、聞かなかったことにして扉を開ける。
「……場所を移動するわ。会議室へ。仲間たちを待たせているもの」




