第1話 はぐれフェンリルと転生者田中タロウ
私はフェンリル。森の奥深くを縄張りとする、孤高の魔物だ。
他の魔物からは追われ、忌み嫌われる身。
いつ敵に襲われるかわからないから、常に警戒を怠らず、人間体の姿に化けて過ごしている。
人間に紛れる際、私は『リル』という名を使っている。
実はこの名、以前からずっと使っていたものだ。
正体を隠すなら全く別の名を名乗るのが定石だろうが、私を追う者たちが、まさか私がかつての名をそのまま使っているなどとは思いもしないだろう。
裏をかく、というほど大した話でもない。
単に、使い慣れた名の方が私にとって馴染みが良く、余計な気を使わずに済むというだけの話だ。
気配を殺し、名も変えず、ただ静かに生きる。
その方が他の魔物にも気づかれにくいし、動きやすいからだ。
今日も、いつものように山道を歩いていた。
その時、空間が異常に歪み、あたり一帯の魔素を根こそぎ吸い上げながら、青白く、不気味に光り始めた。
「っ! 何事!? この魔力の揺れは尋常じゃないわ! この森の命が尽き果てるかのような魔素の急激な消失! まさか、この辺りに強大な魔物が縄張りを広げたというの!?」
すぐに身体が戦闘態勢に入る。
「時空が揺れている? まさか……!? 転生者か! 面倒なものが、こんな辺境の地の……、――よりにもよって、私の隠れ家付近で……!」
光が収束すると、そこには小さな毛布にくるまれた、赤ん坊が一人、ぽつんと地面に横たわっていた。
(関わるな。放っておけ。この子は人間。魔物に追われながら、こんな重荷を背負うなんて、命取りだ。今すぐ無駄な情けを捨てて立ち去るべき! 私は、私の命を守るのが最優先!)
理性は強くそう命じた。すぐに立ち去ろうとした。
でも、その決意は一瞬で崩れ去った。
「ふぇえ、ふぇえ……うわぁん」
か細い泣き声。
「くっ……! (振り向かずに、この場を離れるべきだった……。本当に、どうしてこんな無力な姿で現れるのよ……!)」
私はそっと抱き上げた。その体温。
軽いのに、ずっしりと重い命の重さ。
何だ、この感覚は。
独りで生きてきた私に、こんな重さを背負う覚悟など、あるはずがないのに。
「……チッ。拾ってしまったからには、私がどうにかするしかないわね……もう、後戻りはできない」
仕方なく、私はこの子を自分の小屋へと連れて帰った。
この小屋は、以前、人間の村で暮らしていた時に住んでいた小屋を真似て、山奥に作った隠れ家だ。
小屋のベッドで、私はタロウを眺めていた。
(人間の赤ん坊……どうしてこんなに無力で……なんて愛おしいんだろう……こんな小さな子が、私と同じように、行き場のない命だなんて……この小さな命を、私が守る? ……私に、できるのだろうか?)
自分の警戒心が溶けていくのを感じる。
毛布には『田中タロウ』の名札。
「タロウ……あなたの名前ね。これからは、私があなたの親代わりよ。……フェンリルが、人間の親代わりなんてね。……私に務まるのかしら? いいえ、もう遅いわ」
タロウが泣き出すと、私は意を決した。
人型の体は本来、子を産んでいないと乳を出す機能はない。
だが、フェンリルは魔力を操ることで、自分の肉体の構造を一時的に変えることができる。
――私は膨大な魔素を体内に凝縮させ、無理やりその生理機能を呼び起こし、恐る恐る、乳を与えた。すると、タロウはすぐに泣き止み、穏やかに眠りについた。
その寝顔を見ていると、私の胸に、今まで感じたことのない多幸感が満ちていく。
(この子を誰にも渡したくない。見つからなければいいだけよ)
(もう、孤独なのは嫌だわ……この子がいれば、私は独りじゃない)
(私を……必要としてくれる命が、今、私の目の前のベッドで眠っている)
この子の柔らかな温もりが、私の腕を通じて心に伝わってくる。
その瞬間、私の中で何かが決定的に変わった。
「タロウ……。今日から、私があなたの母親よ」
私は、誰かに追われるだけの忌まわしい日々も、孤独に怯えていた自分も、すべて脱ぎ捨てることにした。
「今の私は、ただ逃げ回るだけの魔物じゃない。……そう、今日から私は、あなたの母親『田中リル』よ」
ただの『リル』という名は、もう捨てた。
この地で、この子と共に人間として生きていく。
その証として、私は新たな自分の名を静かに噛みしめた。




