後編
翌日、僕は正直、向かうのをためらった。しかし行かなければならない気がした。僕自身のために。
大沢さんはベッドに座って、遠くを見るような目をしていた。僕が入ると、ゆっくり振り向いた。
「おお……来たか、唐沢。」
「木村です。」
老人はしばらく黙ったまま僕を見ていた。それから、ふっと笑った。
「そうだったな。木村……。それでも、話すよ。」
僕は椅子に座った。
「唐沢って男はな……ずるいやつだった。賢くて、口が上手くて、人に悟らせないで色々やる。」
「……僕に似てるんですか。」
「似てる。背丈も、目つきもな。それに……優しいところまで似てる。」
優しい。それは僕にとって褒め言葉のはずなのに、背中を冷たい汗がつつっと流れた。
「唐沢が……あの夜、一番最初に言った言葉、覚えてるか?」
覚えているはずがない。だが僕は、知らず知らずのうちに喉を鳴らしていた。
大沢さんはゆっくりと告げた。
「『忘れたい』って言ったんだよ。」
その言葉が、深い穴の底に落ちていくように、僕の心に沈んでいった。
「わしは言った。そんな都合よく忘れられるもんじゃないって。そしたら唐沢は笑ったんだ。『じゃあ忘れたふりを続ければいい』ってな。」
老人の声は震えていた。
「それからだ。あいつは名前を変えた。身なりも変えた。まるで別人になろうとしたんだ。」
僕は呼吸ができなかった。
「……大沢さん。僕が、その……唐沢だと、思ってるんですか?」
老人は目を細めた。
「わしは、思っているわけじゃない。ただ……知りたいんだ。」
「何を、ですか。」
「唐沢、お前は――本当に忘れたいのか、それとも……本当に忘れてしまったのか。」
僕は震えた。
忘れたい。忘れたいことが、僕にあるのか。
それとも、すでに―。
老人が僕の手を握った。皺だらけの、小さくて温かな手だった。
「お前が誰でもいい。ただ、一つだけ確かめたい。」
「……なんですか。」
老人は囁くように言った。
「スコップの感触――思い出すか?」
僕は一瞬、目の前が真っ暗になった。
手のひらに、あの重さが。湿った土の冷たさが。深く差し込んだ瞬間の衝撃が。
なぜ。
なぜ僕は、その感触を――。
「……やめてください。」
かすれる声で、そう言うしかなかった。
大沢さんは静かに手を離した。
「わしが話せるのはここまでだ。あとは……お前自身の問題だ、木村。」
老人は、僕の名を呼んだ。
木村なのか。唐沢なのか。
その答えを知っているのは――僕だけだ。
だが僕は、まだそれを思い出せない。
いや、思い出したくないのかもしれない。
僕はしばらく黙った。目の前の大沢さんは、何事もなかったように碁盤を眺め、黒石を指で弾いて遊んでいた。
数分前に語っていた話、山中に穴を掘って、誰かと協力して死体を埋めた、とかいう荒唐無稽な昔話、あれは本当に冗談だったのか?この老人の薄い皮膚の下に沈んだ血管のように、その話もどこか不気味に脈打っている気がした。
「ほら唐沢、番だよ。考えすぎちゃだめだ。」僕は曖昧に笑って石を置いた。
帰り道、自転車をこぎながらも、いま聞いたばかりの“大沢さんの記憶”が頭の中で形を変え続けていた。妙に具体的なのだ。「川ではなく山だった」とか「スコップが折れた感触」とか──。記憶の混乱にしては詳細すぎる。老人ならではの創作かもしれないが、あれだけ鮮明だと逆にリアリティが出てしまう。
アパートに着いても、胸の奥がざわついたままだった。
ふと、昔のことが気になった。僕自身のことだ。そんなわけはないのだが、まるで自分がどこかの時間を抜かして生きてきたような、妙な空白がある気がした。いや、大学に入り、平凡に暮らしている。忘れているはずがない。殺人なんて、冗談じゃない。
しかし、“忘れる”とは本当に怖いものだ。僕は小学生のときに一度だけ、どうしても思い出せない一日があったことをふいに思い出した。病気でもなかったのに、翌朝、ノートのページが一枚だけ何も書かれていない。「昨日は?」と友達に聞いても適当な答えばかり。親に聞いても「普通に過ごしてたじゃない」と返されただけだった。普通とは何だ。本当に普通だったのか?
胸の奥がひやりとした。
その翌日、僕は大学生協でよもぎ色の小さな日記帳を買った。日付を自分で書き込む自由日記とよばれるタイプだ。丈夫そうな装丁とクリーム色の上質紙の手触りが日記継続を保証してくれるように感じた。
「日記をつける」という当たり前の行為が、まるで自分を現実につなぎとめるロープのように感じられた。もし自分の記憶がゆるむ日が来ても、これがあれば確認できる。僕は恐怖を誤魔化すように、初日のページに丁寧にボールペンを走らせた。
今日、大沢さんの碁の相手をした。奇妙な話を聞いた。
二日目。講義の感想やバイトの愚痴を書いた。三日目。夕飯のメニューまで書いた。
「これでいい」記憶の穴は、もう僕の生活に入り込む余地がない──はずだった。
……四日目の夜。バイトから帰宅した僕は、いつものように机に向かった。手帳を開いた瞬間、違和感が背中を走った。
ページの端に細い線が一本、引きかけのように残っていた。僕の字ではなかった。触れると、ペン先がまだかすかに紙をひっかいた感触が残っている気がした。
家族が書くはずはない。誰かが鍵を開けて侵入したとも考えにくい。大沢さんの仕業であるはずもない。では誰だ?
いや──本当に“誰か”がいるのか?あるいは、僕が一瞬だけ記憶を失って書いたのか?そんなはずはないと頭では否定するのに、その否定が薄っぺらく感じられてくる。
ページをめくるたび、知らない言葉が増えているような錯覚がした。いや、まだ何も書かれてはいないはずなのだ。だが、白い紙の上に、これから浮かび上がるはずの“誰かの記憶”の影だけが、薄く見えるような気がした。
僕は冷えた指で手帳を閉じた。そして、明日の自分を信じるために、そっと机の上に置いた。
明日になれば、何も起きていないと分かるかもしれない。ただの思い過ごしだったと思えるかもしれない。
けれど、
明日も僕は、手帳を開くのだろう。知らない記憶が、また誰かの手で書き込まれていないかどうかを確かめるために。
[終わり]
自分でもぺちゃぺちゃと粘着してくる気味の悪い小説になったなと思いました。
ただ記憶の混乱から高齢者が、目の前の人を昔の仲間の名前で呼んだり、昔の事件を今も起きた事のように話すことは実際に目撃したことがあります。
そして自分の記憶についても、どこまで確かな事なのか、一抹の不安を禁じ得ないのです。




