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死線の忘却  作者: 豪陽
2/3

中編

 数日後、また老人ホームに行った。碁盤の前で大沢さんは僕を待っていた。


「唐沢、お前、よく来たな。」


「……木村です。」


初めて、否定してみた。反射的に。


すると大沢さんはゆっくり僕を見つめ、微笑むように言った。


「そうか。木村か。そりゃ、そうだな。」


その瞬間、何かが僕の胸の奥でゆっくり崩れた。


だが、盤面に石を置きながら大沢さんはぽつりとつぶやいた。


「……でもな。名前なんて、あとから変えられるものだ。」


僕は、持っていた白石を落とした。


「たとえば、嫌なことを忘れたい時とか。罪を隠したいときとか。そういう時は、名前を変えるんだよ。」


僕の喉は乾ききっていた。


「……誰の話ですか?」


「誰の話でもないさ。」


そう言って大沢さんは笑った。だがその笑みは、ほんのわずかに僕を試すようだった。


僕は震える声で聞いた。


「大沢さん……僕は、あなたが言う唐沢なんですか?」


老人は少し考えた。そして答えた。


「さあな。お前が覚えてるなら、そうなんだろうし。覚えてないなら、違うんだろう。」


「でも俺はな、唐沢、お前と一緒に夜の山道を歩いた気がするんだよ。」


老人の声は柔らかかったが、逃げ場がなかった。


僕の手のひらには、なぜか乾いた土のざらつきのような感触が残っていた。



 老人ホームを出るころには、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。オレンジ色の光が、舗装道路の上に長く僕の影を延ばす。それがまるで“他人の影”のように見えて、僕は足を止めた。


僕は本当に木村なのだろうか。


そんなばかげた疑問が胸の奥にしつこくこびりついて離れない。


スマホを取り出し、学生証を確かめた。写真は、確かに僕だ。氏名欄には“木村悠太”とある。


でも―。


写真の僕は、知らない男のように見えた。


 その夜、大学の学生部の学生支援室のパソコンにIDとパスワードを入力して、大学の記録サーバーを開いた。過去の提出レポート、課題、出席記録を見返す。


“木村悠太”という名前が、画面のあちこちに並んでいる。


当たり前だ。僕は木村だ。だがそれらは、“木村というキャラクターが大学生活を送っている証拠”に過ぎないようにも思えた。


名前はいくらでも操作できる。書類は書き換えられる。履歴も上書きされる。


もし僕が“別の誰か”だった記憶を、まるごと失っていたとしたら?


ふと、胸が強く鳴った。



*****


僕は釈然としない気分で自転車でアパートに帰った。

アパートの机に座り、レポートに手を付けるのでもなくしばらく宙を見つめていた。


僕は僕なんだ。気を強く持て。


しかし気は晴れず何か忘れ物をしているような気がした。


僕は机の引き出しを開けた。自分でも理由はわからなかったが、何かを探しているような気がした。


引き出しの奥から、小さな銀色の鍵がひとつ出てきた。見覚えがない。どの部屋の鍵でもない。僕の鍵束にもついていなかった。


「……なんだ、これ。」


掌にのせると、冷たい金属の感触が妙に馴染む。


持っていた記憶はない。それでも、この形、この重さ、この触感は―。


僕、これを……知っている。


直観がそう叫んだ。


鍵の内側に、油じみた黒い汚れがうっすらとついていた。胸の奥がひやりとした。


これ、山小屋か何かの鍵じゃないか?


そう思った瞬間、


―誰かの背中を追って歩いている映像が、突然脳内に差し込まれた。


夜の山道。雨の匂い。懐中電灯の丸い光。そして、青いシートの端を握る自分の手。


「……うそだ。」


僕は机から立ち上がった。息が荒くなる。胸が早鐘のように打つ。


忘れるはずがない。もしそんなことをしたなら、絶対に忘れるはずがない。なのになぜ、光景だけが淡く思い出される?



その瞬間、スマホが震えた。


老人ホームからだった。


「木村さん、大沢さんが……あなたを呼んでいるんです。『話さなきゃならないことがある』と。」



              [続く]


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