中編
数日後、また老人ホームに行った。碁盤の前で大沢さんは僕を待っていた。
「唐沢、お前、よく来たな。」
「……木村です。」
初めて、否定してみた。反射的に。
すると大沢さんはゆっくり僕を見つめ、微笑むように言った。
「そうか。木村か。そりゃ、そうだな。」
その瞬間、何かが僕の胸の奥でゆっくり崩れた。
だが、盤面に石を置きながら大沢さんはぽつりとつぶやいた。
「……でもな。名前なんて、あとから変えられるものだ。」
僕は、持っていた白石を落とした。
「たとえば、嫌なことを忘れたい時とか。罪を隠したいときとか。そういう時は、名前を変えるんだよ。」
僕の喉は乾ききっていた。
「……誰の話ですか?」
「誰の話でもないさ。」
そう言って大沢さんは笑った。だがその笑みは、ほんのわずかに僕を試すようだった。
僕は震える声で聞いた。
「大沢さん……僕は、あなたが言う唐沢なんですか?」
老人は少し考えた。そして答えた。
「さあな。お前が覚えてるなら、そうなんだろうし。覚えてないなら、違うんだろう。」
「でも俺はな、唐沢、お前と一緒に夜の山道を歩いた気がするんだよ。」
老人の声は柔らかかったが、逃げ場がなかった。
僕の手のひらには、なぜか乾いた土のざらつきのような感触が残っていた。
老人ホームを出るころには、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。オレンジ色の光が、舗装道路の上に長く僕の影を延ばす。それがまるで“他人の影”のように見えて、僕は足を止めた。
僕は本当に木村なのだろうか。
そんなばかげた疑問が胸の奥にしつこくこびりついて離れない。
スマホを取り出し、学生証を確かめた。写真は、確かに僕だ。氏名欄には“木村悠太”とある。
でも―。
写真の僕は、知らない男のように見えた。
その夜、大学の学生部の学生支援室のパソコンにIDとパスワードを入力して、大学の記録サーバーを開いた。過去の提出レポート、課題、出席記録を見返す。
“木村悠太”という名前が、画面のあちこちに並んでいる。
当たり前だ。僕は木村だ。だがそれらは、“木村というキャラクターが大学生活を送っている証拠”に過ぎないようにも思えた。
名前はいくらでも操作できる。書類は書き換えられる。履歴も上書きされる。
もし僕が“別の誰か”だった記憶を、まるごと失っていたとしたら?
ふと、胸が強く鳴った。
*****
僕は釈然としない気分で自転車でアパートに帰った。
アパートの机に座り、レポートに手を付けるのでもなくしばらく宙を見つめていた。
僕は僕なんだ。気を強く持て。
しかし気は晴れず何か忘れ物をしているような気がした。
僕は机の引き出しを開けた。自分でも理由はわからなかったが、何かを探しているような気がした。
引き出しの奥から、小さな銀色の鍵がひとつ出てきた。見覚えがない。どの部屋の鍵でもない。僕の鍵束にもついていなかった。
「……なんだ、これ。」
掌にのせると、冷たい金属の感触が妙に馴染む。
持っていた記憶はない。それでも、この形、この重さ、この触感は―。
僕、これを……知っている。
直観がそう叫んだ。
鍵の内側に、油じみた黒い汚れがうっすらとついていた。胸の奥がひやりとした。
これ、山小屋か何かの鍵じゃないか?
そう思った瞬間、
―誰かの背中を追って歩いている映像が、突然脳内に差し込まれた。
夜の山道。雨の匂い。懐中電灯の丸い光。そして、青いシートの端を握る自分の手。
「……うそだ。」
僕は机から立ち上がった。息が荒くなる。胸が早鐘のように打つ。
忘れるはずがない。もしそんなことをしたなら、絶対に忘れるはずがない。なのになぜ、光景だけが淡く思い出される?
その瞬間、スマホが震えた。
老人ホームからだった。
「木村さん、大沢さんが……あなたを呼んでいるんです。『話さなきゃならないことがある』と。」
[続く]




