前編
人間の記憶のあやふやさを考えて、漫然と描き始めたら、このような恐怖小説になりました。
「これでどうだ!」
「うーん、これは参りました。これは取られちゃいましたね。」
僕は頭をかいた。
僕は老人ホームで碁を打っていた。サークルの先輩に教えてもらったボランティア募集だった。ボランティアぐらいしておくほうがエントリーシートに書き込むことが増えて良いのだそうだ。
僕は歌や踊りはできないが、高齢者の暇つぶしの囲碁の相手をするボランティアならできないこともない。
そのボランティアの中で忘れられない出来事があった。入所者の大沢さんが、昔の知人なのか唐沢と呼んでくるのである。僕は木村なんだが、まあ適当に相づちを打つ。
ボランティアを始める時に高齢者は記憶の混乱があるから否定を決してせずに相手に合わせるように指導されていた。
昔の仲間だと錯覚したのか、大沢さんは古い記憶を語りだした。 それは奇妙な話で、どうみても事件性を示唆するような話なのだが本人にはそういう自覚が全くないのである。 殺人を忘れるなんて事があるのだろうか? 異常に創作好きの老人なのだろうか?
「唐沢、お前、あの夜のこと覚えてるか?」
白黒の碁石をつまんだまま、大沢さんはふと天井を見るようにして言った。
「……夜ですか?」
「そう、あの川べりだよ。重たかったなあ。あれはさすがに重かった。」
碁盤の上で僕の手が止まった。
「川、ですか?」
「うん。ほら、お前が運転してくれたじゃないか。坂道でさ、車がガタガタ言って、俺は怖くて。けど、お前は平気な顔していてな。」
僕は笑ってごまかそうとした。
「へえ……僕、運転なんてしたことないですよ。免許もまだ取ってなくて。」
だが大沢さんは聞いていなかった。老人特有の、相手の返答など関係なく自分の流れで語り続ける感じだった。だがその語りの内容が、あまりに具体的で、情景が目に浮かぶほどだった。
「青いシートにくるんでさ……ほら、あの、黒い靴が見えていたんだよ。あれを隠そうとして、二人であたふたしたじゃないか。」
僕は喉がひりつくのを感じた。碁盤の上の石がなぜか遠くに思えた。
「黒い靴……?」
「そうだよ、唐沢。あの男が履いてたやつだよ。覚えてないのか?」
覚えているはずがなかった。そもそも僕は唐沢ではない。木村だ。僕自身の人生に“川べりに青いシートを運んだ経験”なんて存在するはずがない。
はずなのに。
その言葉のひとつひとつが、脳の奥のどこか柔らかい場所をそっと押してくるような、不思議な感触があった。
老人ホームの帰り道、僕は歩きながら無意識に靴を見ていた。まるで“自分の足が誰か別の人のものではないか”と確かめるように。
ありもしないはずの記憶が、微かに、微かに、像を結ぼうとする。
夜の川べり。湿った土。ランプの光。青いシート。
あり得ない。そんなことがあるはずがない。でも―。
*****
大学に戻ると、僕をボランティアに誘った先輩が声をかけてきた。
「どうだった?大沢さん、今日は機嫌良かった?」
「……はい。まあ、いつも通りでした。」
本当は違う。だがこの話を他人に説明できる気がまるでしなかった。それに、老人の妄想だと笑われるのが目に見えていた。
「老人ホームの人から言われなかった?あの人、少し時々ね……」
「記憶が混乱するんですよね?」
「いや、昔のことになると逆に妙に詳しく話すことがあってさ。あの人、なんか事件に巻き込まれたことがあったみたいだよ。職員も詳しく知らないらしいけど。」
それが余計に僕を不安にさせた。
事件に巻き込まれた――それは、被害者としてかもしれないし、加害者としてかもしれない。
そして唐沢という名前。僕の知らない誰かの名前。だが大沢さんは言い切っていた。「お前だろう」と。
僕は先輩に冗談めかして聞いてみた。
「僕って……似てたりします?唐沢って人に。」
先輩は少し考えて、「うーん」と唸った。
「いや、顔はどうかな。ただ……雰囲気は似てるかもしれない。落ち着いた話し方とか。」
その一言が、背骨のあたりをひやりと冷やした。
夜、アパートに帰った僕はしばらく机に突っ伏していた。頭の奥で“川の記憶”のようなものが、ぼんやり光っては消える。内容は曖昧だ。だが、体のどこかは覚えているような気がする。
ふいに、ある映像が浮かんだ。
―スコップの重さ。
それを誰が持っていた?
どうして、そんな感触を僕は“知っている”のだ?
僕はそっと枕元のスマホを手に取った。検索欄に「A県 遺体 シート」「A県 未解決事件」と打ち込んでいく。
ヒットした記事は過去のものばかりで、直接関連があるとは言えなかった。だが、検索結果の中に “G県県境、山中で白骨遺体発見”という古いニュースがあった。
胸がズキリと痛んだ。
僕はその夜、ほとんど眠れなかった。
まぶたを閉じると、暗い森の匂いと、深く刺さるスコップの手応えが蘇るようだった。




