雨曝しのボール
ボクは、いったいなにをわすれていたんだっけ
「なんだろ、あれ。ボールだよね?」
いつもの帰り道、一人で下校しているときのことだった。
その日は、雨が強くて他のみんなは送り迎えをしていたけど、仕事で遅くなるって父さんは来なかった。父さんはセンセイなのは知っているから、しょうがなかった。
雲が灰色の空を覆っていてうす暗い。上から叩きつけるように降り続ける雨。傘に当たると、体験したことはないけどまるで滝の中にいる気分になった。顔を上げて前を見ても、よく見えなかった。
それだというのに、通りかかった公園の中央に、ボールが落ちているのが、はっきりと見えた。
滑り台の近くにできた水溜まりにぽつんと、雨曝しになっていた。
「わすれもの?」
真っ赤な球体。小さなバスケットボールみたいだ。 どこかで、見たことのある赤くて小ぶりな球体。滑り台から転がしたら、どこまえもまわっていく、なんでか、そんな気がした。
一秒でもはやく帰りたいはずなのに、真横にあるボールから目を離すことが出来なかった。
公園は、住んでいるマンション裏にある。クラスメイトもたくさん住んでいるから、誰かの忘れ物かなと思ったけど、すぐにそれはないはずだ。
今日の朝、いつもと同じように。この公園を通り抜けて学校に行った。朝にはあんなボールはなかった。昨日の夜から雨が降り続けていた。サッカーがしたかったのに、外で遊ぶことが出来ないぐらいに、土砂降りの大雨。
だから、誰かがここであそぶなんて思えない。
「ボールだけがここにきて、水遊び。したなんてね」
おかしなことを考えてしまった。そんなのはアニメの話だ。でも、やっぱり目を離すことができない。
公園に落ちているボールへ恐る恐る近づいた。誰かの忘れ物なら、届けなきゃいけない。そんな気持ちで。
しゃがみこんで、じっと見つめた。長靴にすこし水滴が入って気持ち悪かった。
パシャパシャと、傘に雨粒を叩いている。ボールも、雨粒をはじいていた。
「濡れてない」
ボールに当たった水滴が、下へと落ちていった。
それに、バスケットボールじゃない。サッカーボールでもない。テニスボールよりも少し大きい。
デコボコがなくて、すべすべとした表面。
「風船?」
浮いてないから、多分違う。空気を入れる端を縛っているようにも見えない。
首を傾げて、持ち上げようとした。
「あっ」
強風は吹いていなかったのに、傘が道路まで飛んだ。飛んでしまっていた。走ってくる車もないのをみてから、拾い上げた。
「さっきのなんだろ」
誰かに引っ張られて、傘を取られた。そんな気がした。でも、きっと気のせいだ。
振り返って、公園を見た。
「あれ?」
ボールがない。
「どっかにとんでいった?」
周囲を見渡しても、やっぱりない。
公園の隅々まで探し回ったのに、目につく赤はない。
道路にも、ボールは転がっていなかった。
「さがさなきゃ、でも」
靴下が濡れて、足先が少し痛くなっていた。ずぶぬれで、いやだった。着替えてから、また探そうとおもった。
ボクが住むマンションへとはしって帰った。
家にたどり着いて、ずぶ濡れになった服を全部脱いだ。靴下もパンツも、水浸しで冷たくて気持ち悪かった。
部屋のタンスを開けて、新しい服を着てから、父さんの合羽を借りた。父さんの合羽はぷかぷかだった。腕と足の袖をまくらないといけないぐらいに、とても大きい。
ぱちぱちぱちと、ボタンを付けて、フードを被った。
すんと鼻で息を吸うと、つんとする匂いがする。
「父さんの臭いがする」
濡れてもいい青と白のリュックサックを背負ってから、外に出ようと玄関で長靴を履いた。水が入っていて、気持ち悪かったから、ちいさい長靴を履いた。
「さがさなきゃ。わすれもの、とどけないと。こまっているはずだから」
そんな言い訳を口に出して、玄関から外に出た。マンションの最上階に住んでいるから、たくさん、階段をおりないといけない。エレベーターは、どうしてか使ってはいけないらしい。
なんでだろうね。
階段を、トントントンと下りていくと、視界の端に丸い何かがあった。
「あれ?」
踊り場から少し背伸びして下を見下ろした。
「なんであるの」
駐車場に真っ赤な、ボールがあった。べったりと、赤いインクが染み付いたように、小さな点となっていた。
おかしい。絶対におかしい。
マンションの窓側に公園がある。でも、マンションの駐車場はその反対側だ。
ここまで転がってくるなんて、考えれなかった。
湿ったぬるい風は、吹いてる。雨の勢いはどんどん強くなっていく。
動いてない。動いてない。うごいてない。
目を離さない。はなしたらいけない。
多分だめだ。きっと、ダメだ。
じっと見る。
赤い点は、なにも動かない。
眼が渇いて、瞬きをした。
なんども、瞬きをする。
「あ、れ」
動いている。すこしずつ、こっちに動いている。
近づいてきてる。
指先がすこし冷たくなったような気がした。
ゆっくりとしゃがみこんだ。
足音を立てないように、後ろ向きに歩いた。バッグが肩からぬげた。
かかとが階段の段差にあたる。バランスを崩しそうになって、手すりに手を置いた。
振り向いて、一気に階段をかけ上がる。
部屋まで、全力で走った。
玄関前、鍵穴に鍵が入らない。
「はやく、はやく」
すっと、入った。鍵を回す。ドアノブをねじった。
扉を開いた。前かがみになりながら、家にたどり着いた。
玄関を閉めても、呼吸が苦しかった。
父さんの合羽のボタンを一つ一つ外す。
ぱち、ぱち、ぱち。
ボタンが全部、外れたから、脱ぐ。
足を上げて、長靴を脱いだ。
パチ、パチ、パチ。
靴下を脱いで、リビングのソファーにたどり着く。
ペチ、ペチ、ペチ。
身体を、ソファーにしずみこませた。
ぱち、ぱち、ぱち。
手のひらを叩いているような、拍手が聞こえる。
「窓、から?」
雨粒が、ガラス窓を叩いているのかもしれない。
ボクは顔を上げて、窓を見た。
カーテンがかかっている。
重たくなった身体を、ソファーから動かす。一歩、二歩。腕を伸ばす。指でカーテンに触れる。手触りがいい緑の布は、温度がない。
渇いた音がする。窓の先から。
どこかで、聞いたことがある。誰かの拍手はいつもこんな渇いた音だったような気がする。
――ねぇ、ねぇ、すごい、すごいっ。
誰かの声が耳の奥から聞こえる。
きっと、なにもない。
きっと、なにもないはずだから。
ボクは、カーテンをめくった。
恐ろしい顔をした少女も、真っ白な顔で浮かぶ幽霊も、
何も、なかった。
雨が窓ガラスを叩いているだけだった。
「……よかった。なにも、ない」
力が抜けて、カーペットに寝転がった。
ごろごろ転がってテレビのリモコンを取って。
ボタンを押した。……あれ、つかない。
テレビの電源を直接押した。ほんとうに、つかない。
反射したボクの姿がうつる。
一人、しかいない、よね?
キッチンには、テーブルだけ。リビングには、ソファーとか。
それしか、ない。
音がまだ、小さく聞こえている。
ぱち、ぱち、ぱち。ぱしゃ。
少しずつ、大きくなる。
ぱしゃ。ぺた、ぺた。
濡れた足で、近づいてくる。
ぱしゃ、コン。
玄関にいる。
トン、トン、トン。
玄関の扉が、叩かれた。
「――ますか」
「え」
聞き覚えのある、声がした。
いないはずの、あの子の声がした。
「――くん、いますか」
名前を呼ばれた。耳に胼胝ができるぐらいに、呼ばれた、ボクの名前を。
あの子の、声で呼ばれる。
「――くんは、いますか」
苗字、はなんだっけ。
名前、はなんだっけ。
あの子、彼女とは、あの公園でいつも遊んでたのに。
「ぁ――ぼ?」
間延びした声が、玄関からする。
窓を叩きつける雨音に隠れることもなく、そこで待っていた。
返事をしたくない。
したらいけない。
「――くん、いないの」
チャイムが鳴った。
「――さん、いないの」
なんども、なる。なんどもなる。なんど、もなる。なんどもなる。なんとも、なる。
「今日もあそびに、きたよ」
「……ぃ」
ドアノブがねじられてる。鉄が重なり合う音がする。
「――ます。いるから」
叫んだ声は、上擦っていた。どうすればいいのかわかない。
そうか、そうだ。そうなのか。玄関から声がする。
一人、じゃない。二人、でもない。
たくさん。いっぱいいる。
「そう、なんだ。そうなんだ。そうなんだ。そうなんだ」
玄関は、まだ開かない。
声がしているだけだった。
「あけて。あけて、あけて。あけて」
玄関の、鍵は開いていた。
扉を見つめた。
「あい、てるから」
「あけて、あけて、あけて、あかない。あかない」
ただ立ったまま、なにもしたくなかった。
扉の前には、沢山の子供たちがいる。あの子も一緒に、混じっている。
だから、あけたくない。
「あかない」「ない」「ない」「あかい」「くん」「かさかして」
玄関になげっぱだった、父さんの合羽を抱きしめた。鼻をツンとさせるタバコの匂いがする。てのひらで耳を塞いだ。
「あけても、いいよ。あけても、いいから」
目をつぶって、そのまま、しゃがみこんだ。
手の先から、声がする。玄関がいつかは、開くかもしれない。
でも、ボクは見たくない。
いないって信じてたのに。
だって、いやだから。
傘を貸さなかっただけなのに。
あの子は、雨の日に。
――ボクのせいで、いなくなったから。
背中を優しく押される。トントン、トントン。今度は頭をポンポン。大きくて角ばったてのひら。
よく覚えている、いつものしぐさ。
眼を開けて目の前にいたのは、くしゃりと笑みをうかべてる「父さん?」
「なにやってんだ。こんな、寒いとこで」
眠っていたみたいだった。
「今何時?」
「飯食う時間だぞ。ほんと、お前を迎えに行くべきだったよ」
玄関に寝転がっていたボクは、起き上がって周りを見た。
誰もいない。
何もいない。
なにもなかった。
父さんの合羽とボクのリュックサックだけがあるだけ。
「そっか。今日のゴハン、なに?」
「カレー。いつもどおりのな」
父さんが持っているコンビニ袋には、カレーの弁当が二つ入ってる。
「やった」
小さくガッツポーズして、キッチンまで行こうとした
「ちょっとまて」
リビングに繋がる扉に手を掛けようとして、止められた。
「そういりゃあ、これ、なんだ?」
雨合羽を肩にかけた父さんは、リュクサックを指さした。
「階段の踊り場に置き忘れていてよ。もしかして、こんな雨のなかで、あそぶきだったのか?」
雨の日に遊ぶことに不機嫌な顔をみせるようになった父さん。
エレベーターが使えなくなったのは、いったいなんでだったけ。
リュックサックにはなにもいれてなかったはずなのに、少しふくらんでいた。ちょうど入る大きさのーーで。
「まっ―」止めようとしたけどおそかった。父さんは、チャックを開く。
小さく、息を吸い込んだ。「あ」
濡れた、朱いボールが僕を見ていた。
あの子が、また帰ってきた。
――あしたもきょうももっと、あそぼうね