物語を放つ
八月中旬になり、暑さはほんの少しだけ和らいだ。ほんの少しだけ。
大幅に修正を加えたゲラで編集担当者を悲鳴させた新作も、無事に校了を迎え、私の手を離れた。ようやく一息つける時間ができた。
《記憶の扉と十一の鍵》は、主演声優の交代により、後継音さんが担当してセカンドシーズンが始まることになった。
個人的には月代さんの声の方が好きだったけれど、後さんは後さんで、より少年らしい瑞々しさがある。これはこれで良いと思うことにした。
マイちゃんも、私の原作の漫画制作に勤しんでいるようだ。
彼女は描いたページをネットで送り、相談を重ねながら作業を進めている。
互いに生活費を稼がなければならないこともあり、以前のように毎日会うことはできなくなった。
それでも、同じ料理を宅配で頼み、通話をつないで一緒に食べる。
離れていても、対話と交流は変わらず続いている。
ただ、なかなか直接会えない分、会ったときの熱が強くなるのは、良いことなのか悪いことなのか分からない。
私は改めて、11:11:11の現象について考える。
知っている限りの情報をデータとして書き起こす。
こちらの世界では、日を跨いでもデータが消えないのは助かる。だからこそ、より詳細にまとめられていく。
加留間遥にもその情報を送ると、彼の方からも1995年以降に知り得た事故の記録を提供してもらえた。
これらデータを、どう活かすべきか。
土岐野との会話を思い出す。
私たちがループからの脱出の日を迎えようとしていた頃、彼が冗談めかして言った。
「脱出したら、この体験を小説にするのか?」
「自分の経験をストレートに物語に落とし込むのは……ちょっとキツいかな」
そう返すと、彼は意外そうに首を傾げた。
「だったら、ルーパーの中で誰を主役にしたい?」
「……土岐野さんかな」
彼は驚いた顔をした。
「俺なんて面白くないだろ?」
「冷静で、読者が共感しやすい人物だから。ループ現象において、ちょうど良い立ち位置にいるの」
「ちょうど良い?」
「ルーパーたちとの関係も自然に広げられるし、調べようとすればモデルになり得る人物にも辿り着ける」
土岐野は目を輝かせ、笑った。
「また楽しそうなゲームを仕掛けようとしてるな? いいよ、喜んでモデルになる。少し照れるけど」
あのときの笑顔を思い出す。
「苺も悪くないけどシャインマスカットとか旬を感じるスィーツよね」
宝石のようにシャインマスカットが輝くケーキの入った箱を開けながら、陽気に話す幹元さん。
映画化が決まった『記憶の扉』のパンフレットに載せる文章の原稿を取りに来ていた。
データを送れば済む話なのに、幹元さんは小さなエッセイでも、必ず顔を合わせて受け渡しをする。
今日もそんな理由で、私の部屋にやってきていた。
私は紅茶を淹れ、テーブルに置く。
先日、別の編集者からもらった香り高い茶葉。幹元さんは目を閉じて、その香りを楽しんでいる。
ケーキともぴったりで良かった。
他愛のない話をしていたが、会話が途切れたところで、私は切り出した。
「幹元さん。今、考えている物語があるのですが……現代ものって大丈夫ですか?」
今まで異世界ファンタジーしか描いたことがなかっただけに、幹元さんは少し驚いた顔をする。
「SFか、ミステリーになると思う」
「なになに、面白そうじゃない。でも、何でそんなに改まって聞くの?」
私はタイトルページを差し出した。
【11:11:11】そう書かれた草稿とプロット。
7月11日の11時11分11秒に事故で命を落とし、ループ世界に閉じ込められた男の物語。
主人公の名は鴇田廻。モデルはもちろん土岐野。
他の年のルーパーである佐東や樋廻と共に脱出を試みる。
幹元さんは原稿を丁寧に受け取り、しばらく黙って読み進める。
「物語はすごく面白い。でも……現象の起きる日時がこれだと、ちょっと問題になりそう。11月11日にするとか……」
戸惑い気味の声。無理もない。彼女はあの“7月11日”を実際に体験している。
「この構想、一年前から温めていたんです。加留間監督の『閉ざされた夏の日』から発想を得て。もちろん、監督ご本人にも設定をお借りする許可はいただいています」
「でも、これを今出すのは、ちょっと……」
私は静かに頷いた。
「『閉ざされた夏の日』は、7月11日11時11分に兄を亡くした加留間監督が、自分の喪失と向き合うために作った作品。
そして、私のこの物語は、天環さんと月代さん、あの二人が亡くなった“あの瞬間”が何だったのかを描くものなんです」
幹元さんが、驚いたように私を見た。
「天さんの呪い……って、何なんですか?
あの人は、そんな陰湿なタイプじゃないですよね?
亡くなったあとに勝手なことを言って、イメージを下げて、作品まで貶めるなんて――許せない!」
私は頷き、静かに拳を握る。私の拳に幹元さんの視線が向けられているのを確認する。
「だからこそ、数字をあえて変えませんでした。オカルト好きが食いついたら、それでいい。
話題になれば、天さんは“呪いをかける加害者”じゃなく、“現象の被害者”として語られるようになる」
幹元さんは眉を寄せる。
「でも、それだと時雨先生に批判の矛先が向くんじゃ……?」
私は微笑んだ。
「出版社には迷惑をかけるかもしれません。でも、知りたいんです。あの7月11日の11時11分11秒が何なのか」
私は顔を上げ、あの時間に亡くなった人々のリストを差し出す。
幹元さんの視線が、それに吸い寄せられる。
「幹元さんは、あの二人の死を“仕方なかった”で済ませられますか?
どうして彼女たちは死ななければならなかったのか――知りたくはありませんか?」
私は、そっと彼女の心に風を吹かせた。
幹元さんの瞳に、迷いと決意が交錯する。
彼女はしばらく視線を落とし、深く息を吐いた。
「……分かりました。すぐには答えを出せません。
出版社の中でも慎重に動く必要があります。
この原稿は、一旦私に預からせてください」
そう言って幹元さんは、原稿をそっと閉じた。
その手の動きに、編集者としての冷静さと、ひとりの人間としての覚悟が混ざっていた。
「あなたの言う“真実”が、もし本当にあるのなら、必ず形にします」
小さくそう告げて、彼女は紅茶を飲み干す。
カップの底で、残った光がゆらめいた。
この物語は、ただの物語ではない。
7月11日の11時11分11秒という“刻”を、現実世界に刻む。
謎と真実を放つ。
そして、世界を、こちらでも動かすために。




