核の宙
その男は、ふと我に返ったように、にこりと笑みを浮かべた。
「ごめん、さっきから会社からLINEが来てて。ちょっと電話してくるね」
彼は私に話しかけているようで、実際には別の誰かにそう言っていた。
つまり、彼の世界では、私の席には“誰か別の人”が座っているのだ。ここはBARではなく居酒屋。一人で来るよりも、複数人で来る方が自然だろう。
スマホを手に、彼はこちらをちらりと見て片手を上げる。私に「来てほしい」と伝えているようだった。
「マイちゃん、幹元さんに電話するの忘れてた。先に何か頼んでてくれる?」
そう言って、私はスマホを手に彼の後を追う。
「じゃあ私も、お手洗い行こうかな♪」
後ろからマイちゃんの声がして、彼女もついてくる気配を感じた。
トイレのある廊下の途中、男がふと立ち止まり、振り返る。
『君も……ルーパーなのか?』
「ルーパー?」
私が首を傾げると、彼は苦笑しながら軽く頭を下げた。
『すまない、まずは自己紹介からだったね。俺の名前はサトウヒロシ。2019年の7月11日をずっと繰り返してる。そういう現象に巻き込まれた人間のことを、俺たちは“ルーパー”って呼んでるんだ』
ループしてるからルーパー。なるほど、そういうことか。
「私は井上称央子。そういうことなら、私もルーパーです。
今、隣にいるのが、私の仲間です」
私は彼の横にいるマイちゃんを指差した。彼女は、テーブルにあった塩の瓶を不安そうに手に隠し持ち、こちらを見つめている。
サトウヒトシのことは変な人には見えない。でも、初対面の相手にいきなり名前を出すのはためらわれた。おそらく、サトウヒロシにはマイちゃんは見えていないだろう。しかし、「俺たち」と言っていた以上、彼にも同じような仲間がいるのだろう。こちらも一人じゃないことを伝えておくべきだと思った。
佐藤は周囲をきょろきょろと見回す。
「……申し訳ないけど、君の仲間は、俺には見えないみたいだ」
「でしょうね。さっき、あなたはその仲間と同じ席に座っていましたから。あなたは、私たち“こちらの世界”の人間にも、物にも、触れることができない。見られることもない」
彼がどこまで状況を把握しているのか、どこまで情報を伝えるべきか、慎重に探る。
「その仲間の方も、ルーパーなんですか?」
「はい。仲間もルーパーで、私と一緒に行動しています。
……サトウさん、本当に2019年からずっとその日を?」
マイちゃんがスマホで何かを検索している。そして、2019年の夏に起きた“Medio del Mondo”というタワーマンション近くでの竜巻による事故のニュースを見つけ、私にその画面を見せてくる。
そこには「佐藤 宙」の名前が。顔写真も一致している。
「……宇宙の宙でヒロシって、素敵な名前ですね」
彼は少し驚いたような顔をし、それから苦笑した。
「君は2021年のルーパーかい?」
私は首を横に振り、少し迷った。彼が2019年に取り残されてから、もう9年。果たしてこの事実を伝えていいのだろうか?
「……いえ、今は2028年です」
佐藤の表情が固まった。
「えっ……まさか……!」
その動揺を紛らわすように、私は質問を投げかけた。
「ところで、私とあなたには何の接点もないのに、どうして出会えているんでしょう?」
「それは……この店の注文システムを作った時、俺がいたチームが関わっていたからで――」
「それだけでは、私とあなたを繋げるには不十分です。私はそのシステムには関与していません」
彼は首を傾げる。
「君の……それは関係ないのでは?」
「えっ、関係ない? なのに、どうして出会えてるの?」
「基本、前の年のルーパーが関係したモノや場所に、次の年の現象が起こるから」
つまり、命華が関わった場所に、翌年のルーパーが出現する可能性がある、ということか。ということは、必ずしも私が後任のルーパーになる必要はなかったということになる。
しかし、誕生日のタイミングの問題なのだろうか……嫌な人から嫌なバトンを渡されたものだ。
「でも今回は、初めて二年以上離れたルーパーと直接関われた。驚いてるよ。構造を説明したいけど、立ち話でできるような内容じゃないし……今、ツレもいるし」
彼の視線が、店内へ向かう。
「その方は、ルーパーではないんですか?」
彼は静かに頷いた。さっきまで、柔らかな笑みを浮かべていた。あれはデート中だったのか?
「SNS、何かアカウントお持ちですか?」
会ったばかりの人にアカウントを教えるのは少し迷うが、メールよりはマシだ。
「……Xを使ってます」
戸惑う佐藤。
「TwitterとかFacebookとかは?」
私は思い出す、彼の時代はまだTwitterだったと。最近では(旧Twitter)という書かれ方もしていないから忘れていた。
「Twitterのことです。今はイーロン・マスクが買収して『X』って名前に変わったんです」
彼はなんとも言えない複雑な顔をした。
「私のアカウントは @inouenokawazu(井の上の蛙)です」
アプリ画面を見せるとすぐに、@S_Hir04 というアカウントからフォロー通知が届き、DMに「こんにちは」というメッセージも。
『これで、連絡は取れると思う。アカウント名の下、投稿の日付を見てくれれば、俺が本当に2019年にいるってわかるはずだ』
私のXのコメント一覧に佐藤そらのコメントが新しくつく。
【今日はニシムクサムライに来ています】
投稿時刻:2019年7月11日 18:35
マイちゃんと私は、顔を見合わせた。
「でも、このフォローって、0時を超えたら消えちゃいますよね?」
「そうだね。でも、俺のアカウントはシンプルだから覚えやすいと思う。明日また連絡をくれたら連絡はつけられる筈……多分」
そして、彼は提案した。
「できれば次のループで、また同じ時間に同じ席を予約してもらえないかな? 俺も同じように予約しておくから。今度こそ、ちゃんと話をしたいんだ。ルーパーだけで」
冷静で、話の通じる人間のようだ。情報も得たいし、会う価値はある。
「わかりました。明日、同じ席を予約しておきます」
私は佐藤にというより、マイちゃんに向けて言うようにそう答え、席へ戻ることにした。
その後、落ち着かない飲み会となった。
というのも、年を超えてブッキングしてしまった私と佐藤宙が、同じテーブルについているからだ。
彼は「彼女のスマホの画像を見る」という名目で私の側に移動してくれたので、私もマイちゃん側へとずれて、奇妙な“重なり現象”は回避できた。
とはいえ、見た目は、デート中らしき男性と、無関係な女二人が同じテーブルで飲んでいる図だ。
私がマイちゃんに事の顛末を説明している声は、当然ながら佐藤にも筒抜けである。
「佐藤さんは、2019年の事故をきっかけにループ生活に入ったそうなの。それで、どうやら仲間もいて、他の年のルーパーともつながっている様子」
説明しながらも、佐藤が時折こちらに視線を送ってくるのを感じる。
返事をしたいだろうに、できない。もどかしさが伝わってくる。
「私たちのことはお気になさらず、隣の席の人と思ってください」
と、にっこり笑ってそう言っておいたが、目の前で自分のことを話されていて、気にならないはずがない。
私たちよりも少し早く来ていた彼らは、最後にデザートを食べて席を立ち、やっとホッとできた。
「ところで、明日その男の人とナオコさん会うんですよね! 私も参加しますから」
「でも、佐藤さん、マイちゃんには見えないよ?」
「SNSが使えるんでしょ? なら、ネットを通じて私も参加できる!」
「……変則リモート会議ってことか……」
元恋人と話していたときの佐藤の雰囲気からして、彼が“女二人”だからと舐めてかかるタイプには見えない。
それに、こちらに危害を加えることは物理的には不可能だ。
……とはいえ、本当に大丈夫だろうか?
「なにをそんなに会わせるのを躊躇ってるんですか? ヤバそうな人なんですか?」
マイちゃんの問いに、私は慌てて首を横に振った。
「そんなことない。良い人……だと思う。ただ、会ったばかりだから、まだどんな人か掴みきれてなくて」
「じゃあ、私がしっかり見極めてみせますから」
マイちゃんは力強く言い放った。




