見えてきた世界のルール
二日連続で、新幹線に乗って寂れた街のスターバックスコーヒーに向かうなんて、自分でも酔狂な行動だと思う。
マイちゃんは『世界を救うのは、たったひとつのハッピーエンド』の初版本を持ってきてくれていたが、なぜか頑なに私には渡してくれなかった。
持ってきたことの証明に見せてくれたのは、恐らく彼女の家にあったであろう複数のお守りと一緒にジップロックに入れられた状態だった。すでに呪物扱いだ。そんな危険物を私に持たせるわけにはいかないという理屈らしい。
今日は、昨日私たちが座っていた席の様子が見える、向かいのソファ席に待機していた。
12時ちょっと前、私の隣に座っていた男性が、グランデのアイスコーヒーを手にやってきて、昨日と同じ席に座る。ソファ席に荷物を置き、ノートパソコンを広げ、テーブルを挟んで反対側の席で作業を始める。
彼がソファから一度離れたとき、サブバッグが隣の席側に倒れた。マイちゃんが言っていた「荷物をどけてもらった」というのは、このことだったのだろう。
13時少し前。昨日と同じ時間帯になり、私たちは無言で緊張する。10分経ち、20分経っても、命華が現れる気配はない。
マイちゃんが不安そうに私を見るが、私は首を横に振った。
ループの中では、私たち以外の人間は毎回同じ行動を繰り返す。今日も同じ店員が働き、同じお客が同じ席に座り、同じメニューを楽しんでいる——おそらくは同じ会話を交わして。
だが、命華は前回と異なる行動をとった。ループのパターンに乗らず、現れてこなかった。
私はスマホを手に立ち上がる。
「そろそろ、出ようか」
「え? どこに?」
私は笑みを浮かべて言った。
「バスに乗って、彼女の家に行ってみよう!」
「ええっ!?」
マイちゃんがぎょっとしたように目を見開く。
バスは自然豊かな風景の中を走っていく。けれど、マイちゃんは外の景色を楽しむ余裕もなさそうだった。
「あ、あの……ナオコさん。本当に大丈夫なんですか? ……帰りの足もありますし……」
私はタブレットを差し出し、地図アプリを開いて見せる。
「実はね、彼女の家の近くに高速バスの停留所があるの。町の様子をある程度見たら、それに乗って温泉街・松馬に行く予定。ここでね、老舗の温泉宿を予約しておいたの。マイちゃん、温泉行きたがってたでしょ?」
マイちゃんが先ほどとは違った意味で驚く。
「えっ!? 部屋風呂もある……! こ、こんな素敵な宿……高いんじゃないですか!?」
「昨日は節約しようとネットカフェに泊まったけど、気づいたの。私たちの状況、どうせ明日になればすべて元通りなのよ。だったら、何にお金を使おうが関係ないじゃない」
私は肩をすくめて笑う。
「……あー、グリーン車にしておけばよかった」
マイちゃんは、ようやく私たちの現状に気づいたようだった。
「ナオコさん、天才です……! 今の私たちの置かれた立場……そういう使い方があったんですね……! 逆転の発想!」
——“逆転の発想”。それこそ、私が物語を組み立てるときにもっとも大事にしていること。今のこの状況で「できること」「できないこと」、それを突き詰めていくのは、とても楽しい。
「俄然、調査のやる気が湧いてきました!」
マイちゃんが元気になってくれて、私も少し安心する。
命華の住む街は東京より北にあり、アスファルトやコンクリートが少ないためか、少しだけ暑さが和らいでいた。
私たちは田畑の広がる道を歩く。本当に田んぼと畑しかない、文字通りの田舎だ。
近くにお寺があったので、まずはそちらに向かってみる。
お寺の裏の山の斜面には、古くからの墓地が広がっていた。そこからは、田畑が一面に見下ろせる景色が広がっていて、少しだけ清々しい気持ちになる。けれど、マイちゃんは警戒しているのか、怖がっているのか、手に持ったアジシオの瓶をぎゅっと握りしめ、周囲をきょろきょろと見渡していた。
(……マイちゃんのアジシオへの信頼は、どこから来ているのだろう?)
そう思いながら、私は愛華の墓がこのどこかにあるのかと目を凝らした。
墓地には、私たちの他には誰もいない……と思ったが、一人の年老いた女性がいた。お墓の前に座り、お菓子を供えながら、誰かと会話をするように小さな声で話しかけている。
邪魔をしてはいけないと思い、私たちはその方には近づかず、少し離れた場所を歩く。
しばらくすると、坂の下から子供が二人、元気よく駆け上がってくる。斜面のきつさをものともせず駆けてくる体力は羨ましい。
「ばあばー! 父ちゃんが、そろそろ戻れって!」
お墓にいた女性の家族らしい。
「母ちゃんが言ってた。ずっと日向にいたらダメなんだって! 危ないって。 だから、もう帰ろ〜」
「そうね……。あっ、あんたたちもメイちゃんに話しかけたら? きっと喜ぶと思うわ」
「叔母さんもう死んでるし、喜ばないと思うよ」
……子供って、容赦ない。
「そんなことないわよ。きっと天国から、あなたたちのこと見守ってるんだから」
「でも、メイカ叔母さん、俺たちのこと嫌ってたし」
兄弟らしき子供たちは顔を見合わせて、「ねー」と声を揃えてうなずいた。
思わず私たちは顔を見合わせる。今日が命華の命日なのだから、家族が墓参りに来ていてもおかしくはない。
おばあさんが子供たちを宥め、三人で手を合わせてから墓地をあとにした。
彼らの姿が見えなくなってから、私たちはそっとその墓に近づいた。
【貢門命架】
墓石に刻まれた名前を見て、私は胸の奥が少し重くなった。ネットで彼女の情報は見ていたけれど、こうして実際に墓を見ると、「本当に亡くなっている」という事実が、現実として突き刺さってくる。
マイちゃんがそっと塩をかけようとしたので、それを制して、私は手を合わせた。
「……とっとと成仏してください」
隣で一緒に手を合わせているマイちゃんはそう呟いていた。
寺を出てその足で、貢門命架の家へと向かう。
夏野菜がたわわに実る畑の中に、その家はあった。
私たちは、場違いな観光客を装って、野菜の無人販売を眺めたり、自然を背景に写真を撮ったりしながら周囲の様子を伺っていた。
さすがに家を直接訪ねるのは気が引ける。なので、周囲を大きく回って観察することにした。
命華の家は、まさに「ザ・農家」といった風情で、私道のような畦道が伸びている。左手にはトラクターが止まっている車庫とも農具倉庫ともつかない建物があり、右手には作業用と思われる大きな倉庫があった。そちらにはベルトコンベアやパレットが積まれていて、出荷作業の後なのか、道具を洗う清掃作業が行われていた。
その奥には二軒の家屋が建っていて、周囲は畑に囲まれている。
私が家ををのんびり眺めていたときだった。
『ぅるさぃうるさいうるさ〜い!』
突然、女性の怒鳴り声が響いた。
玄関の引き戸あたりから聞こえた声は、平和な田園風景にあまりに不釣り合いだったが、近くで作業していた人々は、まるで何も聞こえていないかのように反応がなかった。
『組合の広報のイラストなんかを仕事だとか言わないで! 私のため? 馬鹿にしてるのはそっちでしょ!』
ドン、と玄関が音を立てるしかし扉には変化はない。閉ざされたまま引き戸をすり抜けるように、女が現れた。
「出た!」
思わず私が言うと、マイちゃんが身構える。
スウェットのようなラフなTシャツと半ズボン。メイクもしていない。けれど、その独特な目つきで、彼女が命華だとすぐに分かる。
命華は、玄関の方を振り返って怒鳴ると、足元の石を拾い、玄関に向かって投げつけた。ガラスに当たったはずだが、扉にはまったく変化はなかった。
そして、こちらの方へ歩き出す。家の敷地から道路に出て左側へと命華は歩き出す。
私は意を決して、一歩踏み出す。
「マイちゃん、あの本を手に持っててくれない? すぐ出せるように」
「えっ、ナオコさん!?」
マイちゃんが驚いて止めようとするが、私はその手を軽く制し、命華に声をかけた。
「あの……イラストレーターの命華さん、ですよね?」
命華は立ち止まり、私の方を見て、そしてニコッと笑った。その笑顔が、逆に怖い。
「あら? あなた、昨日スタバで会ったファンの子ね」
私は笑みを浮かべたまま、小さく頭を下げる。
「申し訳ありません、お家まで押しかけてしまって……」
「やだぁ……こんな格好で……! ちょっと恥ずかしい……!」
命華は照れくさそうにスウェットの裾を引っぱり、もじもじと体を揺らす。すっぴんの丸顔に、僅かに汗ばんだ肌。
化粧がない分、薄い眉と目つきの悪い小さいめ余計にホラーの登場人物に見える。
深呼吸して、私は確認したいことを試すことにする。
「いえ、私が勝手に押しかけたんです。命華さん、もしよろしければ、握手させていただけませんか?」
マイちゃんが焦って前に出ようとするが、私はそっと右手でそれを制し、左手を命華へ差し出す。
命華も笑顔で手を伸ばしてきた——が、その手は、私の手をすり抜け、何もない空を切った。
その瞬間、マイちゃんが慌ててアジシオの瓶を命華に向かって投げてくる。マイちゃんは命華が見えてないのでその行動は、命華に殴り掛かろうとしている状況になっている。しかし二人は接触することはなく、瓶は命華の背後に転がり、命華は平然と立って、何かがおかしいと感じたのか、自分の手と私を交互に見ている。
私は微笑んだまま言う。
「ありがとうございます。……握手できて光栄でした」
まるで握手ができた体でそう締めて、すぐに身を翻した。
「ちょっと待ってよ! 今の、何!?」
足早に遠ざかろうとするが、命華が追いすがってくる。
「マイちゃん、本、出して!」
私は本を受け取りフリスビーを投げるように命華の方に投げる。本は命華の身体を突き抜けて背後後方遠くに落ちた。思ったよりもいい感じに飛んだ。
私はマイちゃんの手を引いて早足で命華から逃げる。
「え? 何? 何を投げ……」
少し歩いた所で、背後から命華の声は消えた。
「……うまくいった」
私はホッと息を吐き振り返る。
そこには誰もおらず、遠く離れた道の真ん中に「世界を救うのは、たったひとつのハッピーエンド」の本が落ちている。
命華の存在はあまりに重たくて、このまま関わっていたら心が持たない。
道端に本を投げ捨てた事は少し申し訳ないが、それでも今は、これでよかったのだと思う。
私はマイちゃんと手を繋いだまま、高速バスのバス停方向へと歩き出した。




