【第3章】労働者に未来を ― ユキナ(35)の場合 ―
カフェの隅。窓際の席に座る男が、カプチーノを一口啜った。
カイト(40)、ヒーロー歴5年。今はただのイケメン風サラリーマンにしか見えないが、彼の背中には、戦う者だけが持つ“使命感”が宿っていた。
「……またユキナさんの話?」
耳に届くのは、隣のテーブルのふたりの会話。ひとりは“あのお局”こと小山チエコ(49)。
「何社目かしらねぇ、もう。事務、営業、販売、ちょっとずつかじって、何も残ってないって感じ。うちでも、書類のフォーマット間違い多いし」
「でもチエさん、ユキナさんのこと、けっこう気にしてない?」
「そりゃ気にするわよ。女が生きるには金がいる。
旦那に全部任せて“私は自由”なんて時代じゃない。だから、言うのよ。“辞めんな”って」
カイトはゆっくりとスマホを取り出した。
《カイト(通信)》
「ユキナ。ターゲットの心、割れたぞ。攻めどころは“未来への不安”だ。
相手の正論に乗せられるな。“今を生きる自由”をアピールしろ。
あと――“作戦C”で行く。俺も出る」
《ユキナ(通信)》
「え、マジで?……夫役とかムリ、恥ずい」
《カイト(通信)》
「演技だ。派手にいこうぜ、なぁ奥さん」
—
カフェの別席。
ユキナ(35)は、ついさっきまで映えるカフェスイーツを撮っていたスマホを伏せ、目の前のお局をまっすぐ見た。
「……ということで、退職、したいんです。次はちょっとSNS運用系とか、そっちに行きたいなって」
チエコは眉をひそめ、カップを置いた。
「あなたさ、本気で言ってるの?運用って言ったって、“バズらせた実績”でもあるの?」
「いや……まだ、勉強中ですけど……次こそ!」
「何社目?6?7?……私、今まで黙ってたけど、あんたの“次こそ”って言葉、3回目よ」
「……っ」
「仕事ってのは、地味で退屈でつまんないのよ。
でもね、その中でコツコツ積んだ“キャリア”が、後であなたを助けるの。
今のあんたじゃ、“履歴書が映え”ない。
給料が上がらないって嘆く前に、自分の価値を磨きなさいよ」
――正論。痛い。正論。
だがユキナは、甘くてキラキラした“理想の未来”を捨てるつもりなどなかった。
「でも……私、美容もしたいし、旅行も行きたいし。
今のお小遣いじゃ足りないんです。旦那はちゃんと稼いでくれてるし、
私は私で、“私らしく”生きたいんです!」
「“私らしく”?またその言葉。あんた、そればっかり」
—
「お待たせ」
突然現れたのは、光を背負ったようなスーツの男――カイト。完璧な笑顔。
「彼女の夫です。いつもお世話になっております」
チエコが目を丸くする間に、カイトは自然に席へ。
「実はですね……彼女、最近ずっと悩んでいたんです。
でも、僕がもっと頑張るって約束したんです。
そろそろ子どもを考えるタイミングで、彼女の心が壊れる前に、仕事のストレスから解放してやりたいって」
「……子ども?」
「えぇ、彼女にとっても僕にとっても“最後のチャンス”ですから」
(※すべて嘘)
「……あんたたち、夫婦で揃ってドラマ撮ってんの?」
「いえ。人生って、一発撮りのドラマでしょ?」
カイトは真顔で言った。
—
チエコは黙った。
深くため息をついて、コーヒーを飲み干す。
「……私はね、女性が働き続けることが“防御”だと思ってた。
でも、あんたみたいに“攻める”女もいるのかもしれないわね」
「……じゃあ、退職届……」
「出していいわ。まぁ、あんたの未来がどうなるかは知らないけど」
—
店を出たユキナは、カイトに言った。
「まさか、子どもができるかもって嘘つくとは思わなかったわよ」
「女は“夢”を語れ。男は“嘘”をつけ。どっちも、自由への第一歩だ」
「それ名言?」
「今作った」
ふたりは顔を見合わせて笑った。