【第2章】労働者に自由を ― マサノリ(56)の場合 ―
「……部長、もう限界なんです。辞めさせてください」
会議室の空気が、ピタリと止まる。
「辞める……?はぁ、最近の若いのは言葉が軽いな。マサノリくん、君、もうすぐ57だよな?」
「はい……。だからこそ、残りの人生を自分のために使いたいんです」
「自分のため?ほぅ……で、君が今抱えてる案件の引き継ぎは?
後任は?部下たちのケアは?」
「それは……まぁ、なんとか……」
「なんとか、ねぇ。無責任なことを言うな」
部長の声は低く、重い。
マサノリは目を伏せる。心の中では、スマホのイヤホン越しに聞こえるタツオの声を頼りにしていた。
《タツオ(通信)》
「大丈夫だマサノリ、法律上、退職の意志を伝えてから2週間経てば、会社の同意がなくても辞められる。
辞職は労働者の権利だ。強気で行け。俺がついてる」
「……でも……」
「ただの自己中になっちゃダメだ。お前が今まで苦労して働いてきたことを伝えろ。
やつは感情論に弱いって、さっき伝えただろ。ちゃんとぶつかれ」
—
部長は腕を組み、深いため息をつく。
「マサノリ。君は真面目で、責任感もあった。部下からの信頼も厚い。
だが最近、明らかに覇気がない。残業も減らしたし、休みも取りやすくしたはずだ」
「……ありがとうございます。でも、正直、しんどいんです。
休みでも仕事のことが頭から離れない。
電話の着信音が鳴るたびに胃がキリキリして。
家族との時間も、眠る時間も、全部“会社”に支配されてるんです!」
「支配?違うな、君は会社の一部だったんだよ。それが社会人ってもんだ」
部長が目を細める。
「社会人って、人生を差し出すことですか!?
僕は……もう、“いい人”でいるのをやめたいんです!
誰かに迷惑かけるって分かってても、自分の時間を生きたい。
逃げだっていいじゃないですか!逃げたいんです!!」
—
通信の向こう、タツオは小さく笑った。
《タツオ(通信)》
「いいぞマサノリ。感情のまま言え。
ただし最後に、“逃げることも戦いだ”って言って締めろ」
—
「……逃げることも、戦いなんです」
マサノリが震える声で言った。
「僕は、戦います。自分の人生のために」
—
沈黙。
部長の眉がピクリと動く。
「……戦うか。君らしいな、そういうの。
あのときもそうだったよ。新人が大泣きした夜、君が黙って付き添ってた。戦えって静かに言ってた。あいつは今も戦ってるよ。
誰も気づいてないと思ったろ?見てたんだ、俺」
「……部長……?」
「俺だって、もうすぐ定年だ。
会社に残る奴と去る奴、どっちが戦いかなんて、
会社に残る奴と去る奴、どっちが正しいかなんて、今の俺にはもう分からん」
部長は机に手をついて、深く息を吐いた。
「……退職届、預かろう。
今日から君は自由だ。……責任を背負わなくていい人生が、どんなもんか見せてくれよ」
—
部屋を出て、マサノリは震える手でスマホの通信を切った。
「……タツオさん、俺……言えました。辞めるって」
《タツオ(通信)》
「よく言った。オレが保証する。
お前は、“戦った”んだ。今日、ヒーローだったぞ」
—
夕暮れ時のオフィスの廊下を、マサノリは軽やかな足取りで歩いた。
肩の荷は、確かに少し軽くなっていた。