8 ついにやってきた罠
結局この日も朝から王太子の姿は居室にはなく、国王への挨拶だけをすませて同じ場所へ戻ってきたローズ。その目は沈み、暗い色をしていた。
どうしても、せめてと思ってしまう。
王太子からの愛情はすでに諦めているとはいっても、解消することが難しい婚約なら、せめて関係は良好にしておきたい。
挨拶くらいはしておきたかったし、話もあったのだが……本日も、王太子は不在。
そしていつものことなのに、懲りずに落胆する自分にため息が出た。
彼が何をしているのかは知らないが、怠け者の王太子がこんなに早い時間にどこかに行っているということは、それは十中八九、意中の女性に関することだろう。
調べによると、こたび王太子が熱を上げている女性は、男爵家令嬢のクラリス・レガーレ。
いつものように赤毛の、可愛らしさと色香を兼ね合わせたような女性らしい。
ヴァルブルガが懇意にしている王宮の侍女たちに聞き取りした限りでは、今回の王太子の入れ込みようは尋常ではないとのこと。
クラリス嬢はとにかく甘えるのが上手く、特に彼女の大きな瞳にうるうる見つめられると、男性の大半は言いなりになってしまうらしい。取り巻き男性も多く、王太子は今、彼らに対抗心を燃やして躍起になっているそうだ。
それを聞いたローズは、すごなぁと思った。
(どうしたら、そんなに何人もの男性を虜にできるのかしら……婚約者すら魅了できない私には、到底真似のできない高等技術だわ……)
そんなふうに思うと、ついしょんぼりしてしまう。
きっとまた、自分とは真逆の令嬢に違いないなと思った。
王太子に早くしっかりしてほしい彼女は、気をつけていてもつい彼に口うるさくなってしまう。ローズだって、昔は婚約者の前ではかわいらしく振る舞いたいと思っていた、が──。立場を思うとそうも言っていられないのである。
王太子は何かに夢中になるとすぐに他に身が入らなくなる。
つまり、女性に夢中になると職務はおざなりにされ、下の者たちが困る。
そこで見かねた彼女が王太子に苦言を呈すと、ローズが王太子に煙たがられるという……なんとも悲しい負のスパイラル。
使用人たちには感謝されども、その度に『お前は本当に可愛げがない』『口うるさい』と睨まれる彼女の気持ちも少しは考えて欲しいものだ……。
さて……ともあれ本日もそうして王太子の顔を見られなかったローズ。
挨拶をできなかったことにも落胆したが、実は王太子の側近から最近王太子の金遣いが荒くなっているから嗜めてもらえないかと頼まれていた。皆、ローズが王太子に遠ざけられていると分かっているくせに、こういった面倒ごとが起こると彼女を頼る。
立場的にも、性格的にも彼女がそれを放って置けないことを皆よく心得ているのである。
(……いいように使われているわね……)
まあそれも自分の役目と理解しているが、どうしても気が重かった。
国王の前を辞してきたローズは、ではどうやって王太子を捕まえるかと悩みながら来た道を戻った。
令嬢に入れ上げている王太子を諫めるとなると、せめてタイミングを選ばねば、またローズが彼に罵られるばかりか、反発を強めてしまう。なにせ──浪費の原因は、令嬢に対する貢物なのだから──恨まれることは確実。ゆえに側近たちも自分たちで言いたくないのである。そんなことをしては、後々出世に差し障る。
というわけで。憂鬱な問題についてあれこれ考えていたものだから、ローズの足取りはとても重そうだった。
しかしふと気がつくと、いつの間にかそんな彼女を、来たとき同様侍女のヴァルブルガが支えてくれている。階段に差し掛かったとき、危ないですからと腕を取られ、上の空だったローズは、そこでやっと侍女がさりげなく自分の足元を気遣っていてくれたことに気がついた。
「あ、ごめんなさいヴァル……私、ぼうっとしていて……」
と、ヴァルブルガは微笑して、戯けた様子もなく当たり前のように言ってのける。
「いいえ、私の愛しのローズ様に怪我なんてさせられませんから」
そんなセリフがなんとも自然で様になっていて。ローズは思わず惚れ惚れと感心した。これがヴァルブルガの人たらし……というか、女たらしと言われ、王宮内外の女性に騒がれる所以なのだろう。
そう、彼女は女性でありながら、非常に女性にモテるのだ。
すらりとした長身で見た目も整っており、本人が好む男装を王女に許されていることもあって、とにかく彼女は王宮内では目立つ。おまけに父兄が騎士位を持っていて、そんな彼らに囲まれてきたせいか、ヴァルブルガも女性には優しくするものという意識が徹底されている。
中性的な彼女に優しくされると、女性たちは皆、そんな気がなくても一瞬どきりとするようで。性格の柔和さと仕事の手際の良さも手伝って、ローズは何度、彼女を譲ってくれないかと高位な貴族女性や、この国の王女たちに請われたかわからない。
また、そういった好意を彼女に寄せない者たちも、王女ローズの腹心という立場のヴァルブルガをゴシップの種として好奇の眼差しを向ける。王宮内には常に、『王女を思慕し、献身的に支える男装の麗人』という彼女の噂が流れており、それはローズを困惑させ、ヴァルブルガ本人を大いに愉快がらせた。
──ともあれ。
彼女がローズを献身的に支えてくれているのは本当である。
彼女は今や古参の侍女キャスリンとも肩を並べるほどのローズの腹心。主の苦境のすべてを心得ていて、だからこそ、ローズを不憫に思い、自分たちだけはせめて王女をこの上なく大切にしようと誓っている。
そんな彼女たちを、ローズが心から頼りにするのも当然で。今回も、男性たちからの甘い言葉には不信感をあらわにするローズも、ヴァルブルガからの言葉は素直に受け取った。
嬉しそうに笑い、自分より頭ひとつ分背の高い彼女を見上げて、ありがとうと返す。──そんな自分に……まさか苛立っているものがいるなんてことは、ローズは一切考えもしなかった……。
「ヴァルブルガは優しいわね、あなたがいてくれると本当に気持ちが安らぐわ」
ローズが信頼しきった声で賛辞を送ると、ヴァルブルガも甘やかに微笑んで、主人の疲れた心を時ほぐそうと軽口めいた言葉を返す。
「光栄です。この先も、私の姫が永遠に私を頼りにしてくださることを切に願っていますよ」
彼女の言葉にローズはにこりと微笑みを返し、その姿はまさに仲の睦まじい主従、だったのだが。
その瞬間に、彼女たちの背後で動くものがあった。
もう黙っているのは耐えられないという様子で、その者は彼女の名前を呼ぶ。
「ローズ様!」
「……え……?」
突然鋭く名前を呼ばれて。王女がキョトンとして振り返り、その隣でヴァルブルガが、おやという顔をした。
驚いて足を止めた彼女たちの後ろから颯爽と近づいてきて、ローズの前に進み出てきたのは──リオン・マクブライドだった。
「リ、オンさん……?」
ローズはびっくりして、顔も身体もサッとこわばらせる。
王太子の側近からの憂鬱な嘆願のせいでうっかりしていたが……そういえば、ここには彼がいたのだ。
一気に彼女の心に緊張が走った。
彼の方から呼められるなど珍しく、現在彼からのハニートラップを疑っているローズは、やはり咄嗟に警戒感をあらわにしてしまう。……何を言われるのだろう、お願いだから優しいことなんか言わないで──と、内心でビクビクしていると──リオンは、何故かいつもより厳しい顔をしている。
てっきり、いつも差し向けられてくる男たちのように、過剰に優しくされ、虚しい愛を囁かれるのかと思っていたローズは……戸惑った。
リオンの目はローズを支えているヴァルブルガを、貫くような鋭さで睨んでいた。厳しい眼差しで刺された侍女は不思議そうな顔をしている。これは只事ではなさそうだと、ローズがヴァルブルガの前へ出る。
「え……あの、どうか……なさいました……? 彼女に何か……?」
ローズが問いかけると、リオンが彼女を見る。その真剣さに、ローズはとても驚いた。
と、彼は決意したように重く口を開く。
「……ローズ様、ぜひお話ししたいことがございます。私に少々お時間をいただけないでしょうか。……できれば──二人だけで」
「⁉︎」
“二人だけで”という言葉にローズが激しく動揺する。
──ついに来てしまった……! そう察したローズの顔色は、真っ青だった。