72 青年の苦悩 ②
あの夜から彼はずっとこの調子。
ローズのことを考え始めると、頭は真っ白、顔は真っ赤。思い悩むあまりか思考もおかしなことになってきて。それを自分でも分かっているが、止められない。
ただ、その一因は、あの日以降、彼が夜もろくに眠れてもいないことにもあった。
なにせ、すべての原因となったステージが、自分の部屋。
これは、この朴訥な青年にはかなり気の毒なことである。
その簡素な空間に戻ると、彼はどうしてもあの夜のことを思い出す。
あの日、月光の下で恥ずかしそうに笑った王女の姿が確かにそこにあった。
毎日自分が眠る寝台の上で、無邪気な顔で寝入ってしまった姿を思い出すと──。
慣れたはずのその部屋が、一気にときめきと羞恥の空間に変わる。
そこにとどまると、めまいがしそうなほどに気持ちが昂ってしまい……とてもではないが、リオンは私室にいられなかった。
こうして自分の部屋で満足に休息を取れなくなったリオンは、現在隊舎の居間の片隅で休んでいる。
だが、はっきり言ってそれも焼け石に水。
共用の居間にある長椅子の一つを占領して横になってもみるのだが……。
天井を見上げても、まぶたを閉じても。彼はどうしてもローズのことを考えてしまう。
──殿下のお怪我はもう治っただろうか。
──そもそもどうして殿下はあの夜のことを夢だとお思いになったのだろう……?
──殿下のお言葉は……好きだとおっしゃってくださったお気持ちは本当だろうか……。
止めどなくこんな考えが浮かんできては、あの夜の彼女の微笑みや寝顔が頭に浮かび──……。
とてもではないが眠れない。
しまいには頭が煮詰まって。焦げつくように顔も身体も熱くなって。堪らなくなり跳び起きる。これではダメだと外へ出て、がむしゃらに鍛錬してみてやっと、夜明けごろに倒れ込むように眠れる。
あの日以降ずっとその繰り返しだった。
ゆえに疲れは取れないどころか蓄積して行くばかり。
今は染み付いた習慣として、職務や訓練には勤しめているが、それもかろうじてのこと。
本日など、久々に訓練中に怪我をした。
ハッとした時には目の前に対戦相手の剣があり、咄嗟に避けたものの腕をかすった。幸い訓練用の剣には刃がないゆえに大怪我とはならなかったが、相手にも迷惑をかけてしまい、そんな自分が情けなくて堪らなかった。
「…………」
リオンはもう幾度目になるかわからないため息をつく。
今は心底自分がわからない。
どうしてこんな無様なことになっているのだろう。
今やるべきことは、きっとローズと話すことだとわかっている。逃げ出すなんて、失礼極まりない。──だが、衝動的な恥ずかしさは病的なまでに激しくて、これまで味わったことのない葛藤と動揺を彼に与えた。
(……これまではただ……ローズを慕っていればよかったのに……)
高いところに立つ彼女のために、近衛騎士として得た踏み台の上から手の届く範囲のことで支える。
それ以上のことをしたくても、リオンが手を伸ばす先にはいつもガラスの天井があってどうしても手が届かない。もどかしい思いをしたこと、悔しく苦い思いを味わったことも幾度となくあった。
しかし、今王女から新たな台が差し出されている。
特別に王女から愛されている者に与えられるその台は、リオンの目には輝いて見える。
その上に立ちたい。喉から手が出るほどに。
……しかし。
リオンは頭を抱えてうめいた。
(……これは……いったいどう解決すればいいんだ⁉︎)
これまであがり症に苦しみ、恋愛経験もほぼなく、仕事以外で人と対話するスキルも底辺レベルの彼には、これからどう行動したらいいのがカケラもわからない。
誰かに相談したくても、頼みの綱のギルベルトは今国王の警護で城外に出ている。
驚くことに、この青年はこれまでギルベルト以外の男と私的な会話をした経験がほぼない。
「…………」
困り果てたリオンは、壁に苦悩の顔を向け考える。
と、その時だった。
背後から「……おい」と、苦々しい声をかけられた。
ハッとしてそちらをみると、後ろの数歩離れた場所から、同僚の騎士が眉間にしわを寄せた不審そうな、怪訝そうな顔で彼を見ている。
「……、……何か……」
あまり話したこともない男である。思わず身構えてリオンがそう応じると、相手は「何かじゃねーよ」と吐き捨てた。
「お前……その頭、いつまでも壁に擦り付けてんじゃねーよ!」
「え……? あ……」
血がついて怖ぇーんだよ! と、鋭く指摘されて気がついた。
完全に無意識だったが……幾度か壁に打ちつけた額がいつの間にか流血していた。
目の前の石壁が赤く染まっている。
そんなことには少しも気がついていなかったリオンは、気まずい思いで頭を下げる。
「……申し訳ありません……」
「ったく、壁掃除しとけよ……あと、さっさと医務室に行ってこい!」
同僚はリオンを睨むと、ぶつぶつ言いながら詰所の中央にある作業台のほうへ戻っていった。
「……」
その不機嫌そうな姿を、リオンは申し訳なさもあって目で追う。
男が戻った作業台には、その男以外にも二名ほどの同僚が着席している。
皆リオンよりは年上の騎士たちで、おそらく年齢は五十代や四十代。リオンが見習いの頃から王宮にある顔で、私的な会話はしたことがないが、付き合いは長いといえば長い。
雑談する彼らの姿を見て、ふと彼らの年齢が、慕うギルベルトくらいだろうかと思ったリオンは、そうだとハッとする。
──……彼らに助言を求めてはどうだろうか……。
──皆、経験豊富そうな御仁だ。なにか、いい知恵を貸してくれるかも……。
あがり症の彼としては、こんなことを考えること自体が稀。しかし、今のリオンは、精神的にとても困窮していた。
藁にもすがる気持ちとはこのこと。
それに、いつまでもこんなに身を持ち崩した状態でいるわけにはいかない。是非とも何とか打開したかった。
リオンは意を決すると、勇気を振り絞り同僚たちのほうへ歩いて行く。
「…………あの……すみません……」
緊張した声で話しかけると、男たちの顔がリオンに向いて──うっと歪む。
その歓迎しているとは言い難い表情に、リオンは怯んだ。
(……やはりいきなり声をかけたりしてはダメだったか……)
それはそうである。
自分がこれまでどれだけ彼らに愛想がなかったと思っているんだと、リオンの気持ちは苦く縮み、たじろぎそうになった。──時。
同僚たちが怒声を放つ。
「だからお前っ! その流血どうにかしろって! げ……近くで見ると……思ったよりひでぇな……」
「うえ……馬鹿じゃねぇのお前、何やってんだ……?」
「額割って平然と歩くんじゃねーよ……」
「──あ……」
呆れたように叱られて、リオンは己の額に手をやる。
痛む場所に触れると手に想像以上に血がついた。
驚いていると、またすぐに怒鳴られる。
「馬鹿か! 化膿するから傷口触るな! おい薬どこだ⁉︎」
「えーと、ちょっと待て……このへんに……」
「お前ちょっと座れ!」
「⁉︎」
男の一人にガシッと手を掴まれて、リオンがギョッとした。
強引に引っ張られ、椅子に座らせられ。彼が唖然としているうちに、同僚たちはあれよあれよと青年の怪我の手当てをしていく。
「あ、あの……」
「「「動くな!」」」
戸惑って話しかけようとすると、同時に叱られた。
だが、男たちは荒々しくも甲斐甲斐しく、リオンの血をぬぐい、薬を塗って……。
このかつてない状況に、リオンはひたすらぽかんとしている。




