71 青年の苦悩 ①
ローズが恋で身を持ち崩しそうなところを、かろうじて踏ん張っていた頃。
リオンも同じように窮地に立っていた。
彼は本日も廊下でローズと出くわした。……当たり前だ、王族のそばにいるのが彼の仕事である。王宮広しといえど、そうずっと避けていられるわけがない。
ただ、本当はリオンは彼女を避けたいわけではない。
それどころか、彼女はリオンが今一番会いたい女性だ。
それなのに。
その顔を見た途端、彼の頭にはカッと血が昇る。
身体は燃えるように熱くなって、とてもではないが、見つめていられないのである。
あの夜の翌朝から、彼の目には王女の姿がこれまで以上に輝いて見えた。
柔らかそうな髪も、ぱっちりした木の実色の瞳も、凛々しく伸びた背筋も、ほっそりとした手足も。
どうしたことか、まぶしすぎて目が眩み、その前に立つ自分が恥ずかしくなるほど。
(──⁉︎ な、なんだこの現象は──⁉︎)
そんな自分にギョッとして、よろよろと後退り……。
気がついた時には、彼の足は力一杯床を蹴ってしまっていた……。
逃亡。そう、逃亡以外の何ものでもない。
本日も、不意打ちのように王女と鉢合わせてしまった彼は、彼女の前から逃亡し、ハッと気がつくと、いつの間にか手近な近衛の詰所に駆け込んでいた。
詰所の中には数人の同僚がいて、いきなり飛び込んできたリオンに、皆目を丸くしていた。
しかし不思議なことに、いつもは過剰なほどに気になってしまう他人の目が、今はまるで視界に入らない。
リオンの頭にあるのは、澄んだ色の瞳をまるくして自分を見上げてきた彼女のことだけだった。
真っ赤な顔で詰所の奥へ進んだ青年は、そのまま突き当たった壁にぶつかるようにして立ち止まり、嘆いた。
当然周りの者たちは「いったい何事だ?」と、いう怪訝そうな目で彼を見ているが、今のリオンにはそれも見えていない。
壁に縋るようにうなだれた青年は、仲間たちに哀愁漂う背中を披露しながら、げっそり悔いる。
(また……逃げてしまった──……)
あの夜以来、リオンはローズの顔がまともに見られない。
端的に言えば──
あまりにも恥ずかしくて。
(──っ馬鹿者! 俺は……いったい何をやっているんだ⁉︎)
詰所内にゴンッと鈍い音が響く。
いきなり硬そうな石壁に顔面を打ちつけた男に周囲の者たちはギョッとした。
リオンは自分を情けなく思うあまり、非常にいかめしい顔をしていて。その、石壁すら怯えて砕けそうな鬼顔を横から覗き込んでしまった同僚は、うっという顔をして青年を刺激せぬようゆっくりと後退して行く。
彼は、周りで固唾を飲んでいる他の同僚たちに目と手でサインを送った。
──やめとこう。声はかけるな、そっとしとけ。怖すぎる。
合図を受け取った者たちは気味が悪そうに頷き、それぞれ自分たちの仕事に意識を戻す。
どうやら皆、青年の奇行には見て見ぬふりを決め込むことにしたらしい。
そんななんとも言えない空気の中で、リオンはひたすら壁に向かって自分のあがり症を責めていた。
(なぜ俺はいつもこうなんだ⁉︎ 今すぐローズ様に『私もお慕い申し上げております』……などと恐れ多いことは言わずともいい! ただ、まずはあの晩よく眠れていたのかお聞きするだけでも……いや、まずはしっかり目を見てご挨拶をだな……!)
こんな調子の今のリオンには、ローズと想いを確かめ合うなどということは、かなりハードルの高いことであった。
まず、信じられないのだ。
彼女が嘘を言っているなどとは思わない。
だが、リオンにとって、ローズは遠すぎる星。
信じていいものか、そうしてしまっていいものか、わからない。
(ローズ様が俺を……? い、いや、思い上がるな! そうではなく、つまり下僕への好意……親愛という意味では……?)
そう考えて、脳裏にローズの顔を思い浮かべる。
リオンの想像の中で、艶めく微笑みを浮かべた王女は、リオンに甘く囁いた。
『リオン? 私のことが好きでしょう? 下僕におなり』
「……っぅわあああああ⁉︎」
「「「⁉︎」」」
突然真っ赤な顔で叫び、壁に額を打ちつけた騎士に。周りで素知らぬ顔を続けてくれていた同僚たちがビクッと肩を揺らす。
気の毒に……こんな若者を間近にして、見て見ぬふりをするということはかなり困難である。
皆、どうしたのか聞きたくてうずうずするという横顔をしているが。どうやら全員かろうじてそれを堪えたらしい。
まあそれはともかくとして。
一気に静まり返った詰所の隅で、リオンは頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
思い切り壁に打ちつけた額からは血が流れているが……。
思考がここまでくると、大抵リオンの頭はパンクしていて痛みなどカケラも感じない。
(っう……下僕でもいいと思ってしまう自分が怖い!)
……青年は、大いに苦悩中であった。




