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69 心おどる報せと、しわくちゃのハンカチ

 


 その日、王太子セオドアは城下に出ていた。


 行きたくもない王都外の村の視察にいかされて、セオドアはすこぶる機嫌が悪かった。

 今、王宮内は姉の妊娠で沸き立っていて、その騒ぎから逃げ出せたのはいい。

 しかし姉の報せが、父王に涙を流させるほどに喜ばれていることが気に食わなかった。

 皆、口々に姉を褒め称え、労るような言葉を吐く。

 おまけにあのローズまでもが異様に張り切っていて、普段なら、自分が放り出した仕事を代わりに請け負ってくれるはずが、それもどこかおざなりで。

 そのせいで、今日は視察に出る羽目になったわけだ。

 まあ、その依頼に承認の印を適当に押していたのは彼自身だが……。それも彼に言わせれば、ローズが代わりに行くだろうと見込んでのことなのだから、やはりローズが悪いということにすり替わる。


「チッ……まったく……! 貧乏人の暮らし向きなど見てどうしろというんだ! あんなのは奴らの怠慢の結果だろうが! ああまだ気分が悪い! あんな不潔なところへどうして私が……!」


 薄暗い室内で、長椅子にだらしなくもたれかかり、セオドアは声を大にして言った。

 こんな愚痴は、王宮で、特にローズの前では決して言えない。

 そんなことをすると、すぐさま厳しい顔で叱りつけられる。


『殿下……それは違います。まず──彼らの慎ましい暮らしを侮辱してはなりません。よくあの方たちの集落をご覧になりましたか? 一見質素に見えても、暮らしやすいよう工夫され、それに気持ちよく整えられていましたでしょう? それにそもそも、彼らに豊かで健やかな暮らしを届けるのが我々の役目であり、生活が苦しそうだとお思いになったのならば、それを改善をしていくのが殿下のお役目であり、こたびの視察の目的で──』……云々。


 その、繰り返し聞かされた言葉を思い出し、舌打ちするセオドアに。

 しかし、彼の恋人はそんなうるさい台詞を彼に聞かせたりはしなかった。


「まあ殿下ったら」


 本日も赤毛を美しく整えた令嬢はくすくすと微笑みをうかべながら、彼に色っぽい瞳で秋波を送り、甘い言葉をささやく。


「私の前でそんなしかめっ面をしないでくださいませ。すてきなお顔が台無しですわ」

「クラリス……」


 彼の隣に身を寄せるようにして座った娘に、セオドアが少しだけ口の端を持ち上げた。

 クラリスは微笑みを深め、セオドアが欲しがっている言葉をささやく。


「高貴な殿下が卑しい者たちのことなんか考えないで。殿下は私のことだけ考えていらっしゃったらいいんですよ」


 相応しくありませんわと目を細めてかわいらしく首を傾けた令嬢に。セオドアはすぐに夢中になる。

 しかし手を握ろうとすると、その白い手はするりと逃げていって。代わりに挑発的な仕草で、セオドアの頬をゆっくりとなでていく。

 指のかすかな感触は優しいのに、こんな時のクラリスの瞳はいつも蠱惑的。

 こうした恋愛の駆け引きめいた彼女の振る舞いも、セオドアを魅了する一つだった。

 セオドアはうっとりと自分の頬に当てられる手を捕まえて、いつものように心の中で比べる。


(──そう、これだ。ローズではこうはいかない……)


 セオドアが片方の口の端を持ち上げてふっと笑んだのを見て。彼の機嫌が治ったのを見てとったクラリスは、甘えたような声で問うた。


「それで……殿下、エマ王女がお子を身篭られたというのは本当ですか? こちらへ一時帰国なさると?」


 その情報は、今はまだ国民には発表されていない。にも関わらず、セオドアは軽く頷いた。

 この男は、時に一つの情報が、王族の命運を左右するという基本をわかっていない。

 とにかく彼は、今現在、姉が、自分にはままならない父王やローズを喜ばせ、動揺させている事実が面白くない。

 セオドアはぶつぶつと愚痴を吐く。


「ああ、まったく……姉上ものんきなものだ。弟の不遇も知らず、のんびり里帰りとは……」

「まあ可哀想な殿下……」


 ふんと鼻を鳴らす王太子の胸に、クラリスは寄り添った。

 が、不意にその瞳がキラリと策謀の光を宿す。


「そうですか……エマ殿下がお戻りになられるのですね……」


 王太子をなだめながら、クラリスは心の中でふうんと考える。


(……これは好機かもしれないわ……)


 エマ王女は、和平のために、あの目障りな王女ローズと交換という形で()の国に輿入れした王女だ。

 彼女は亡くなった王妃が残した唯一の娘であり、国王の最初の子供。

 しかも、国民のために身を犠牲にした形で国を離れた彼女を、つまり国王はセオドア以上に溺愛している。

 その献身的な経緯から国民からの支持も高く、その人気は勤勉な王女ローズとも並び立つほど。

 いや、今回同盟国カレルヒルの世継ぎともなる子供を授かったのなら、その身の価値はうなぎ上りのはず。その影響力はローズを凌ぐはずである。


(もし彼女を味方につけられれば……)


 その算段に、クラリスは心躍らせた。


(これはぜひ、エマ様がお戻りになられる前にお会いしなければ……)


 にんまりと微笑んだクラリスは、未だ隣で父王や姉、ローズにぐちぐちと文句を言っている男に、とびきりの甘い顔で枝垂れかかる。


(……ねえ殿下? それで……エマ様はいつお戻りになられるご予定なんですか?)




 ──同じ頃。

 王宮の広々として豪華なメインエントランスでは。

 ローズが涙ながらに仕事をしていた。


「ぅ……大扉よし……、床には破損箇所なし……、ねえ……シャンデリア、大丈夫……かしら……当日、飾りが落ちてくるなんてことは……ない、かし、ら……? う……」


 喋るたびにハンカチで目元を拭いつつ、ローズはエントランス中を歩き回っている。その手に握りしめられたハンカチは、すでに水浸し。もう涙を受け止める余地はなさそうである……。

 そんな王女にべそべそしながら尋ねられたアニスは口ごもる。


「……、……えー……とぉ……」


 のんきがメイド服を着て歩いているようなアニスでも。さすがに、こんな状態の主人を前に、のんきな発言はできなかった。

 彼女たちの周りでは、王女の異変に気がついた使用人や衛兵たちが皆心配そうな顔で見ている。

 ──が、そちらにはまるで気が付かないアニスは、ちょっとおろおろしながらローズに尋ねる。

 こんなに鈍い彼女が……ローズの異変が騎士リオンの逃亡直後からなのだということにも気がつくわけがない。


「ローズ様……? どうなさったんですか? ものすごく悲しそうですが……何かございましたか? 靴の中に石でも入って痛いとかですか⁉︎ もしくはお腹が痛いとか⁉︎」


 そりゃあ大変だ! と、焦り出したアニスに、ローズは気分は沈み切っていたが、なんとか小刻みに首を振る。


「ち、違うの……お腹は……痛くないわ……」


 アニスはここ最近のローズの恋の諸々を知らない。

 そして、こんな場所にアニスにそれらがバレてしまったら、現在周りで不安そうな顔でこちらに注目しているものたちに、きっと何もかも知られてしまう。

 ──アニスは確実に──驚いてそれを大声で叫んでしまうだろうから。

 ローズは咄嗟に、涙声を吐き出すように言った。


「あ、あのね……う、生まれてくる甥っ子か姪っ子が……もし私に似ていたら、きっと愛しさがばくは……爆発するだろうなって……思っていたら……目、目から、な、涙が……う……」

「ええ⁉︎ そ、そんなにもですか⁉︎」


 無理があるかなとも思ったが。素直なアニスはローズの言葉を信じたらしかった。

 侍女は仰天し、慌てて自分の服をまさぐり「ハンカチ! ハンカチ!」と、すでに涙が滴り落ちるほどに湿ったローズのハンカチの代わりの品を取り出そうとしている。


 ──が。


(ごめんね……アニス……)


 ローズは心の中で謝る。

 もちろん彼女のべそっかきの理由は、まだ見ぬ甥っ子姪っ子への、気の早すぎる溺愛では、ない。

 アニスの差し出すしわくちゃのハンカチに礼を言い受け取りながら……。

 ローズは心の中でその金の髪の青年を思って泣いていた。


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