65 蘇る愛のささやき
「ん? どうした?」
「……はい、夜勤の侍女はおりました。おりましたが──……彼女は寝ておりました。ぐっすりと」
「ん? んん?」
苦味のある真顔で返されたギルベルトは……一瞬目を見開いて。……ああ、なるほどと苦笑する。
「今晩の夜勤はアニスか……」
その脳裏に浮かぶのは、ほのぼのふっくらした顔の侍女。
彼の侍女は、非常にのんきなことで有名だ。
それはあのキャスリンですら手を焼く大物さ。しかし彼女たちの主たるローズは、そんなアニスの素朴で裏表のない性格を気に入っているらしく。たびたび粗相はするものの、それが返ってローズの気持ちを和らげるという理由でそばに置かれているらしい。
ギルベルトはやれやれと笑う。
「そうか……まあ、お前からしたら幸運だったということだな……。しかしこれは、キャスリンに知られたらアニスは大目玉をくらうな……」
つまり、ローズはアニスの居眠り中に外へ出てリオンのところへ行った。
発覚すれば、アニスは主の無断外出に気が付かなかった責任を問われる。
まあ……もちろん、たとえそうなったとしても、原因たるローズはアニスを庇うだろう。──が、きっとキャスリンは怒り狂う。
これは悩みの種が増えたとため息をこぼすギルベルトに、リオンは続けた。
「そのようなわけでして……衛兵をやり過ごしたあとはそのままローズ様には寝室へお帰りいただき、私は窓から脱出後……」
「窓……⁉︎ おま、無茶するな⁉︎」
その説明に、アニスの件で苦笑していたギルベルトがギョッとする。
リオンの話が本当だとすると、彼は窓から外へ出て、外壁を伝って再び内部に侵入したということになるが……。
ローズの部屋は王宮の五階部分に当たる。
王宮の建物は複雑な構造ゆえ、下には二階の屋根があるなど、そのまま五階分の高さがあるわけではないが、落下すれば、軽症ですむようなものではない。
そこを、暗いなかで、窓枠やひさし、外壁の装飾などを伝って来たと平然と言われ、ギルベルトは今更ながらにゾッとした。
「お前……いくら身体能力に自信があるからといって……」
呆れ果てたというふうの長に、リオンは少し困って目線を下げる。
ギルベルトは心配のあまり腹が立つという、父親のような顔をしていた。
「……申し訳ありません、あまり考えているいとまがなく……。詳しく報告いたしますと、まずローズ様の部屋の露台から壁の賢者の像の装飾に足をかけ、その向こうのひさしに飛び移り──……」
「あ! やめろ!」
真面目に詳細を語ろうとするリオンに、ギルベルトはよせと大きく手を振って制する。
心配すぎてとても聞いていられなかった。
「わかったわかった! もういい……! 今更言っても仕方のないことだ! 賢者の像様にはあとで謝っとけよ! ──で? そのあとはここに直行してきたんだな⁉︎」
ギルベルトが大きく手を振って確認すると、リオンは黙って頷いた。
なるほどとギルベルト。
今夜この男が詰めていたここ近衛たちの詰所から、ローズの部屋まではそう距離はない。
近衛は王族のための騎士。
当然夜間も王族を守るためにそばに控えるため、複数ある近衛の詰所は王族の居住区内にもある。
他国の王女であるローズの部屋は、多少国王たちの居住区からは外れているが、それでもそう離れてはいないのである。
若者のすべての説明を聞いたギルベルトは、深々とため息をこぼす。
厳しい顔つきをしているが、心の中では、ローズもリオンも、そして王太子も。若者はみんな無茶ばかりするなと、いっそ大笑いしてしまいたい気分だった。
「……まあ話はわかった。そうだな、その状況ではお前がそう行動したのも仕方がない。結果として殿下を謀ってしまったが……殿下の飲酒問題はいつものこと。この場合はローズ様の名節がいたずらに傷付かぬように行動して正解であっただろう」
セオドアがわがままな気質であることは、王宮内では誰もが知るところ。今更このくらいの騒動で何かが変わるわけでもない。
だが、ローズのほうはそうもいかない。
これまで高潔に生きてきた人だからこそ、悪意のある噂話で多くの人々からの信頼を損ねてしまうこともある。
王室の騎士としては、この場合は国民たちから大きな期待を寄せられている将来の王太子妃の評判を守るほうが、王室のためだろうとギルベルトは判断した。
とはいえ。『王太子を謀った』とは言っても、先ほどギルベルトが王太子にした説明は大筋は真実。
国王は王太子が酒で身を滅ぼすことを心配して、ギルベルトらに調査を命じている。
リオンがここへ来たときギルベルトが一人であったのも、彼が王太子に言った通り、他の騎士たちは王宮内の調査に出ていたからだった。
そしてその調査には、リオンも加わっていて──が。
ご存知の通り、今夜リオンは調査の当番ではない。ここだけが唯一、ギルベルトが王太子についた嘘である。
「やれやれ、もしばれれば殿下のご気性では俺たちを絶対に許すまいなぁ……」
気鬱げに笑うギルベルトに、リオンが一瞬だけ眉間にしわを寄せ不満を滲ませた。が、それはすぐに消える。
王太子のローズへの無礼さを思い出すと、リオンの心の中には色々と思うところはある、が……。
ギルベルトや、後からやってきてくれたキャスリンのおかげで、なんとか王太子を誤魔化し、ローズを部屋に無事戻すことができた。
だから、今はそれで十分だった。
きっと今頃、ローズは寝台の暖かい布団のなかで平和に眠っていてくれている。
ならばそれでいいのだ。
「…………」
リオンは深呼吸して、王太子に対する憤りを振り払った。
多くは望まない。ただ、ローズの平和な日常と、ささやかな幸せを守っていきたいのである。
リオンはギルベルトに丁寧すぎるくらいの感謝の礼を述べて、詰所を辞した。
あとは、明日目を覚ましたローズの判断を仰げばいい。もしくは、ギルベルトが近衛の長としての判断で、国王に報告するかもしれない。その場合は、君主の判断に従うまでである。
身分ある彼女を勝手に抱き上げたことや、寝衣を見てしまったこと、無許可で部屋に入ったことへの罰は当然受けるつもりである。
(当然そうでなければ、とても俺の気がすまない……)
厳格にそう自分を戒めるが、どうしてもその時のことを思い出すと頭が焦げつくようで、すぐに顔がカッカと火照った。
普段のきちんと隙のない身なりを整いあげたローズももちろん素晴らしいが、寝衣で髪を解いた彼女のごく私的な姿は、貴重で、そして──たまらなく可愛らしかった。
(ぅ……だ、駄目だ……とても忘れられそうにない!)
廊下の途中で、騎士はよろめく。
王女のためには、きっと自分が記憶を抹消して差し上げたほうがいい……とは思うものの。
頭の中にあるその姿は、まるで彼の心の芯に焼き付いてしまったように鮮明で、輝いていて、とても消せそうになかった。
リオンの顔の火照りは高まる一方。今晩見たローズの姿が次々と思い出され、止まらない。
──月夜に揺れるローズの青白い寝衣の裾。
──そこから伸びた、ほっそりした手足。
──それらを閉じ込めたふかふかの布団の幸せな重さ。
──隙間から見えた幸せそうな寝顔と、耳に届いた微かな寝息。
思い出すと、胸がじーんと感動に痺れる。だが、リオンはそんな自分に失望して赤い顔のままげっそりする。
(自分が……こんなに不純な人間だったとは……)
……こんな青年の様子を、もしギルベルトが見ていたら。『お前、何もそこまで重く受け止めるなよ……』と呆れて言っただろう。
しかしつまり、今回ギルベルトが全面的にリオンを支持したのは、彼のこういう気質のためでもある。
この純朴さでは、とてもではないが王女の部屋で夜間に密会などできるわけがない。
リオンは幼くして王宮で小姓となり、騎士を目指した。その生活は多忙であり、禁欲的。それに加えて性格も一途であがり症。
自由に酒に女性にと遊び回ってきた王太子と比べても、世間の同年代の青年たちと比べても全然擦れていないのである。
そこに来て、王太子とリオンのどちらの言葉を信じるかと言われれば……それは当然リオンなわけであった。
廊下の壁際までよろめいていったリオンは、自分の胸ぐらを強く握りしめ、真っ赤な顔で動悸に耐える。
(駄目だリオン、思い出すな! 忘れろ!)
そんなことを大真面目に命じる彼は。しかし一番重大なことを忘れていた。いや、今までは、『それどころではない』と、考えないように──意識の奥で捻り潰すように隅に固く閉じ込めておいたものが、ここでもう無理だと堰を切った。
やっと事態がひと段落した安堵感からでもあっただろう。
煩悩を振り払えと精神を集中させようとして、彼は思い出す。
──私は──あなたが好きです
「⁉︎」
まるで──たった今耳元で囁かれたような心地にリオンがギクリと身体を震わせた。
同時に、密やかな明かりのもとで優しく微笑んだローズの顔を思い出し、青年は愕然と青い瞳を見開く。
囁かれた時の彼女の息遣い、愛しげな眼差しまでがまざまざと蘇り、暗い廊下のさなかで、リオンは一人呆然とする。
その脳裏に、再び声が響く。
──好きですよ
途端、リオンの全身に走ったのは、雷のような衝撃であった。
無意識にも、苦労して必死で思い出さないようにと堰き止めていただけあって、決壊した記憶は激流のよう。
胸の奥からは怒涛のような動悸が迫り来て…………。
こうなってくると、青年はもう冷静には戻れないわけである。
リオンは困惑し、頭が真っ白になった。
夜間であることも忘れ、思わず暗い廊下で叫んだ。
「………………あ、あ、あれは──現実か……⁉︎」
……かくして。
次の日の早朝。この廊下では、爽やかな朝日に照らされ呆然とその場に立ち尽くす騎士リオンの姿が発見された。
硬直した彼を発見した使用人は、まだ寝ぼけていたこともあって……一瞬彼を、廊下の隅に立つ彫像の一つかと思い雑巾で磨きかけた。
これまで王宮を散々磨き上げてきた歴史ある薄汚れた雑巾が、その白い頬に触れた瞬間に使用人はそのことに気がついた。
かわいそうに……寝起きの使用人は相当に驚いたらしく。彼は廊下に響き渡る悲鳴をあげて叫んだが……。
それでもリオンは放心したままだった。
ピクリとも動かない騎士に、使用人は『立ったまま絶命している⁉︎』と、本気で怯えたらしい。
──結果。
報告を受けた保護者が、大慌てで彼を回収しに来た。
きっと使用人は、本当に、朝から勘弁してほしいと心底思ったことだろう……。




