57 王女の寝言と忌々しい喧騒
王女の部屋は、古くから王族が使ってきた部屋である。
この王宮は千年以上前に建てられた歴史ある建造物で、これまで幾度か戦火に見舞われた。そういった背景から、要人の部屋には間違いなく脱出路がある。
(……が、その場所はローズ様と、国王陛下などのごく一部の人間しか知らない……)
ならば残念ながら、今回はその道は使えない。
もしここで仮に、リオンがローズを起こして尋ねたとしても、それはローズも他言を許されないこと。
彼女は同盟国との和平の使者としてこの国にいる。安全面での配慮から王宮の秘密通路のことを教えられてはいても、他国の王宮の秘密を勝手にもらせる立場にはない。
ではどうしたものかとリオン。
(……ローズ様を部屋にお戻しするためには、衛兵の目を掻い潜り、大扉を開け、さらに中にいる侍女の目をかいくぐらなければならない……)
そしてとリオンは後方へ険しい視線を向ける。
耳を澄ますと、あの男、王太子が騒いでいる声が耳に届く。
微かに聞こえる言葉のいくつかから察するに、酔った王太子は広い王宮の中で王女の部屋への道を間違い、行きつ戻りつして腹を立てているらしい。
しかし、その声は確実にこちらに近づいてきていた。きっとそう時間をあけず、あちらから無頼漢と化した王女の婚約者がやってくることだろう。いつまでもここで立ち止まっていては、衛兵と王太子らと挟み撃ちにされてしまう。
あまり時はないと悟ったリオンは、一瞬だけ考え込んでから意を決したように慎重にローズを抱き抱え直した。そして周囲を警戒しながら立ち上がる。──と。
揺れを感じてか、再び彼の腕のなかでローズが彼に身を寄せてきた。リオンは中腰のままギクリと動きを止める。と──。
そこへ、追い討つような寝ぼけ声。
「……オ、ン……」
「⁉︎」
その声を聞いた途端リオンがギョッとした。
かすかで聞き取りづらかったが……。リオンの耳には、まるでその言葉自体が輝いているようにはっきりと聞こえた。
(……今のは……)
王女が呼んだのは、明らかに自分の名前だった。そう確信したリオンは呆然と王女を包んだ布団を見下ろした。
だが、それきりだった。それきりローズは再び寝息を立てて動かなくなった。
(……ね……寝言……?)
どうやらそうだったらしい。
彼女が目を覚さなくてよかったとどこかで思ったが。それを凌駕するのは、たった今聞いたとてもとても幸せそうな響き。もしやとリオン。
(ロ……ローズ様の夢のなかに……俺が……いる……?)
そう考えると、リオンはまた己の体温が急上昇するのを感じた。
(ど──どういうことだ……? どういうことなんだ⁉︎ これではまるで──)
青年は呆然と腕の中の布団の包みを見下ろす。
これでは本当に、王女が自分に想いを寄せてくれているみたいだとうろたえた。そう思うと腕がワナワナ震えて──リオンはそんな自分を心の中で激しく叱咤した。
(いやまさか! そんなことがあるわけが……)
ローズに面と向かって(※寝ぼけて)『好きだ』と言われたものの、リオンはそれを信じきれていないところがあった。
相手は高貴な身分の人である。
こんな甲斐性のない自分に対してそんなバカなと思っているし、何かの間違いかもしれないと思っている。
そして何より。自分がローズの言葉を間に受けて、自惚れて王女に馴れ馴れしくしてしまうのではないかという恐ろしさがあった。それは、騎士としては絶対に許されないことである。
(そ、それに今はそれどころでは……)
とは、思うのに。腕のなかの貴人がつぶやいた寝言は、青年騎士の耳に甘く鮮明に刻みつけられた。これはしばらくと言わず、永遠に彼の中から消えそうにもない。リオンは……再びある種の絶望を感じた。
青年の中で、使命感と願望が葛藤を生む。
もし許されるのなら、こんな緊急時の移動手段としてではなく、恋人として王女を抱きしめたい。そんな己の渇望をありありと感じて。リオンはほとほと困り果てた。
(ば、馬鹿な……)
うつむくと、熱くなった顔から汗が滴り落ちた。
リオンは思った。もしや……これが煩悩というものなのだろうか。
なるほど、こんなにも大切な使命を抱えているというときにこの抗い難さは尋常ではない。
王家の近衛騎士として職務に忠実に、国民にも家族にも恥じることのないように自分を律して生きていたつもりであったが──ここにきて。自分が一番守りたい女性が、己の使命の一番の障害になろうとは。リオンにも、これは予想だにしない苦難であった。
リオンは天に祈るような気持ちで、心の中で必死に懇願した。
(っローズ様……! お、お願いですから、しばし……もうしばしだけじっとなさっていてください!)
リオンは苦悶と動悸に苦しみながらローズを抱きしめて、やっとの思いで立ち上がる。(この時の真っ赤な顔で必死なリオンをもしローズが見ていたら。王女はきっと伏して萌え悶え転がった)
リオンは筋金入りのあがり症。慕っている相手に寝言で名を呼ばれただけでもそれは彼にとっては大変な事態である。とても平然としていられるような気性ではないが……。
青年はグッと奥歯を噛み締めて諸々に耐えた。
(……チャンスは一度きり……っ! 惑っている場合ではないぞリオン!)
決意で動揺をなんとかねじ伏せたリオンは、暗闇のなかを静かに進みはじめる。音もなく駆けるその足は──なぜか、たった今来たはずの廊下を戻っていた。
彼が前進する先からは、徐々に騒々しい声が近づいてくる。考えるまでもなく、ローズの部屋へ乱入しようという王太子とそれを止めようと必死な侍従の声であった。
その忌々しい喧騒に向かって、リオンは駆けた。




