4 悲しい罠
その日はいつも通りの日だった。
いつも通り、王太子が放り出した職務を代理で務め、その関係書類を彼に届けに行った。
けれども王太子はローズには会ってくれなかった。代わりに対応してくれたのは、彼の護衛騎士。……リオンではない。
愛想のいい騎士は、過剰にローズの機嫌を取り──そのわりに、王太子の執務室へは前室にすら入室を拒む。騎士の目はどこか、“察してくれ”と訴えてくるようで。彼女はすぐに理解して、顔をこわばらせ奥へ続く扉を見た。
こういうとき、大抵奥の執務室には、王太子の秘密の恋人がいる。
またかと思うと身体から力が抜けた。
途端、大事に抱えてきた紙の束も、それに費やした自分の時間もなんだか無意味なものに感じられ、虚しかった。
けれどもこのような屈辱にも、ローズはもう執務室へ押し入って婚約者たちを糾弾する気にもなれない。
正式な婚約者としては、そうする権利があるとわかっている。昔はそうして己の婚約者を嗜めもした。
だが、王太子は何度もそれを繰り返し、彼女の前で堂々と恋人の肩を持ってきた。
『彼女のほうが素直で、美しく、私が愛するに相応しい』
毎度決まりきったようにそう言われ、何度相手の女性に勝ち誇った目で笑われたことか……。
ローズがそれに気丈に立ち向かえたのも両手の指の数まで。
比べられて、劣っていると言われるのは本当に辛いことだった。
この日も、ローズの胸には過去にあった嫌な記憶が甦り、苦しくなって。思わず彼女は逃げるように身を翻していた。
来た道を急いで戻りながら、彼女は苦い思いに顔を曇らせる。
だが涙は出なかった。もう、何度となく泣いてきて、心のどこかがすっかり固くなってしまったらしい。
ローズはただ、進む道を見る。目に映る贅を尽くした王宮の廊下はとても冷え冷えとして見えたが、こんなことはこれまでにも幾度となくあった。
ローズは、先を見なければと自分をなだめる。
(王族の政略結婚なんて、案外どこもこんなものなのかもしれないわ……)
王族は国民に支えられて存在する。だからローズも彼らが必要とするのならば、彼らを支える義務がある。
そう自分を慰めながら、前を向く。
自分の行く末が王太子にとってはお飾りの妃でも、ローズがここにいることには確かに意味があった。
王太子妃はいずれ王妃、国民の国母となる。パートナーの愛は他にあっても、国民という子供を愛せばいい。
(どんな立場でも、きっと何もかもは手に入らないのよ)
だけど、一つでも生きがいがあるのなら耐えていける。その思いで、ずっと前を向き続けられると彼女は奥歯を噛み締めた。
そうして重苦しい気持ちで廊下へ出て階段を降りる。と──ふと、階下からリオンがやってくるのに気が付いた。
交代時間なのか、それとも使いにでも出されていたのだろう。
涼しい目元で口を真一文字に結び、颯爽と階段を上がってくる彼を見て。ローズは少しホッとして。しかし、彼女は次の瞬間彼の騎士の隊服を見てハッとする。
そういえば、持ってきた書類を先程の騎士に預け損ねてしまった。
しかし、彼女はもう、王太子のところへ戻るのは嫌だった。
彼と相手の女性が出てきたところに出くわしてしまう可能性もあるし。
王太子は不在だと自分に嘘をついた騎士とまた顔を合わせるのも気まずかった。あの愛想のいい顔の下で、どんなことを思われているのか分かったものではない。もしかしたら、婚約者に軽んじられる惨めな女だと哀れまれているのかもしれないと思うと──やはり戻る気にはなれなかった。
そこで彼女は、自分のところまで歩いてやってきて、丁寧に頭を下げてくれたリオンに書類を託けることにした。
彼に紙の束を手渡しながら、彼女は申し訳なさそうに小声で言う。
『ごめんなさいね。それで……重ね重ねで大変申し訳ないのですが……あまり他の者の目には触れないように置いてきていただけると助かります……』と。
こんなことを頼むのは非常に情けなかったが……王宮内では周知の事実だとはいえ、自分が頻繁に王太子の仕事を肩代わりしているなんてことが広まると、王太子の評判がまた下がってしまう。
彼には呆れるし腹も立つが、王国と祖国のことを思うとそれはあまりよろしくない。
ローズは内心ではため息をつきつつ、ここでリオンに会えて本当に助かったと彼に感謝した。
彼は愛想はないが、仕事はきっちりこなしてくれる。その信頼がローズの顔には滲み出て、先程まではあんなに強張った顔をしていたというのに、自然彼女の頬は安堵に緩んでいた。
『お願いしますね、リオンさん』
感謝を込めて、且つ、大袈裟になりすぎないよう丁寧にローズはリオンに目礼し、微笑んで彼を見上げた。
するとそこで実に思いがけないことが起こった。
真顔で彼女の言葉を聞いていた彼が、不意に目を細めたのである。同時に、彼の真一文字に引き結ばれていた口元の端がわずかに持ち上がり、少しだけ頭が傾く。ふわりと揺れた彼の金の髪を見て、ローズは驚いた。
それは微かだったが──確かにほがらかで、彼女を気遣うような微笑みであった。
冷たく見えていたリオンの碧眼の奥に、少しだけ温かみが宿った気がして、それが──とても優しく見えて。
ローズは思わずポカンとしてしまう。
そして唖然とする彼女に、騎士は静かに言ったのだ。
『リオンとお呼び捨てください。……ローズ様』
これにはローズはさらに驚愕した。
思わず身がすくみ上がっていた。──どこかでリオンに書類を手渡した後でよかったと思った。今、もしそれを手にしていたら、つい握りしめてしわくちゃにしてしまったに違いない。
ローズは、これまで騎士リオンに名前で呼ばれたことなんて一度としてなかった。
これまでは、ただ『王女』とか、『殿下』などと呼ばれていて、言葉少なな彼からは、それだって稀なことだった。しかし彼女はそのことには特に不満はなかったわけだが……。
こうして彼に、どこか恥ずかしそうに自分の名前を呼ばれてみると、ひどく心が揺れてしまう。
思わず顔がカッと赤くなり──……。
──が。
その瞬間彼女は思い出す。
これまで散々男たちに偽りの思慕を囁かれてきたローズの脳裏ではトラウマがガンガンと警鐘を鳴らしていた。
……いや、いくらなんでもこれはおかしいだろう。
これまであんなに冷たかった人が、急に態度を変えるなんて不審すぎる。
そもそもこれまで様々な美女を突っぱねてきたリオンが、自分になんてデレるはずがないではないか。これは絶対に裏があるとローズは確信し、歯を食い縛って暴れる己の心臓の衝撃に耐えた。
彼女は一国の王女ではあるが、はっきり言って自分に自信がなかった。
自分なりに美しくあろう、淑やかであろうと努めているが……王太子にも振り向いてもらえず、真心から誰かに恋されたこともなく、近寄ってくるのは王太子に仕向けられた思惑深い男たちばかりときては……彼女が女性としての自分に自信が持てなくても無理もない話である。
だから彼女はこの異常事態をこう解釈した。
きっと王太子は焦っているのだ。もうすぐ婚礼という瀬戸際でもローズが揺るがないことに焦り、これまでとはちょっと趣向を変えた相手でローズを落としにかかってきている。
ローズはこれまで王太子の前では、選んで安全だと判断したリオンに話しかけてきた。きっとだからなのだ。リオンなら、ローズを揺さぶれると王太子は思ったのであろう。
なんてことだと彼女は頭を抱えた。
実を言うと、ローズは騎士リオンに小さな憧れを抱きはじめていた。
もちろん婚約者のある身。結ばれようなどとは思っていないから、それを態度に出したことはない。
だが、不真面目な王太子を見続けてきたせいか、冷たくても勤勉で芯の強そうな騎士は、ローズの目にはとても眩しかったのだ。
──だからこそ悲しかった。
彼が王太子のハニートラップに手を貸し、ローズを惑わす役目を引き受けたことが。
とてもとても悲しかった。
お読みいただきありがとうございます。
なんとも不憫な気質のローズです( ´ ▽ ` )
是非とも早くじれじれさせたい!笑
続き早よ〜!と書き手を急かしてくださる方は、ぜひブクマや評価等お願いいたします(*ᴗˬᴗ)⁾⁾⁾貴重なモチベーションです!