29 騎士の地獄
──そして、その数十秒後。
リオンとギルベルトの姿は、ダンスホールの前室、控えの間にあった。
「……やれやれ」
出てきた大扉を片手で閉めたギルベルトがため息をこぼす。二人とも、ローズを医務官に診せるためにダンスホールの中から追い出されたのだ。自分たちを追い立てたキャスリンの形相が凄すぎて。少し乾いた男の顔には苦笑いが浮かんでいた。
「まあよかったなリオン、ローズ様はそこまでお加減が悪いわけではなさそうだ」
ギルベルトが見た限りでは、ローズの手足の動きに病の気配はなかった。あれなら、あとは医務官に任せれば大丈夫だろうとそう踏んで、彼は先にホールを出されていたリオンを振り返る、が。
振り返った瞬間、ギルベルトがギョッとして思わず分厚い身体を退け反らせる。
彼が声をかけた青年は、どうやらローズが心配で居ても立っても居られないらしく、たった今追い出されたホールの大扉から視線すら外さずに、その前を行きつ戻りつしている。瞳は暗黒。唇は何かに耐えるように硬く結ばれていて……そんな騎士の有様に一瞬驚いてしまったギルベルトは、複雑そうに笑いを深めた。
「おいリオン、少し落ち着け。お前がウロウロしてもローズ様はよくならん」
冷静なれとたしなめられると、弟子はやっと足を止めて師を見る。その蒼白の顔を見て、ギルベルトはつい眉尻を下げる。
「お前……なんて顔だよ……」
若者の顔には、苦悩がありありと滲んでいた。眉間は強ばり、口元もぐっと噛み締められていて。鬼気迫る表情がいかめし過ぎて、もしここに少しでも気の弱い者がいれば、きっと青ざめてすぐさま逃げ出してしまったことだろう。
ギルベルトはどうしたものかと困り果てた様子で頬を掻く。
この青年に、王女ローズの前で、そのあからさますぎる好意を隠せと命じたのは彼である。それはもちろんリオンを守るため。
近衛騎士が王女に恋をしているなんてことがバレれば、隊からも、下手をすれば国からも追放されかねない。それは彼だけではなく、青年の一門にも累が及ぶほどのことである。
しかし……。今のリオンの顔は、あまりにも諸々がバレバレ。その正直で不器用な顔を見ると、なんだかとても哀れであった。
ギルベルトは、困りつつも静かに周囲に視線を走らせた。
ダンスホールを出たこの控えの間は、舞踏会の際には、王家の客が何百人と出入りするとあって、とても広々としている。
そこに今はギルベルトたち以外の者の姿はなく、出入り口の先にはきっと衛兵が立っているだろうが、この距離ならば、もしリオンがローズ心配のあまり思いの丈を吐き出したとしても、余程の大声でなければ、そちらに聞こえる心配はないだろう。
それに、先ほどまでここにいた王太子セオドアもいつの間にか姿を消した。これならば、多少の内緒話はできそうだと、ギルベルトは、静かに弟子に声を掛ける。
「……なぁ、リオン、そんなに心配せずとも大丈夫だ。医務官殿も来てくださったし、何度も言うが、思うにローズ様はそんなに重症ではないぞ。今日はずいぶん鍛錬に励んでおいでのようだったからきっとお疲れになったんだろう」
「……」
ギルベルトが言うと、ピリピリしていたリオンは少しだけ肩から力を抜いて、控えの間の中の空気はやや和らいだ。しかし、青年の瞳は憂いをたたえたままで、口は重く押し黙っている。今度はどこか、炎が消えてしまった暖炉のように物悲しく消沈してしまったそんな彼の反応を、ギルベルトは辛抱強く待つ。
この、実は内気な青年を下手に急かすと、その想いは彼の胸の奥深くに仕舞い込まれて、頑なに秘められかねない。そうなると、もうギルベルトにも相談にも乗ってやれない。
しばし待っていると、若者は少し躊躇うように口を開いた。
「…………隊長……」
ギルベルトが視線でなんだと、応じると。リオンはまた大扉のほうを見ながら悲しそうに「ローズ様は……」と、つぶやいた。
「ローズ様は……先ほどは、どうして私にお顔を見せてくださらなかったのでしょうか……」
「……ん?」
気がつくと、いつの間にかリオンの首と肩が前のめりにまるめられている。しゅん……と、音が聞こえてきたような気がして、ギルベルトは、とっさに──……。
「ぐ……っ⁉︎」
噴き出しそうになる己の口を堪えた。
いや、もちろん笑うつもりなどなかったが……長身のリオンが背中をまるめている姿が、明らかに落ち込んでいて、どこかいたいけで、可愛らしく。先ほどまで鬼のような顔をしていた男と同じ人物とはとても思えないギャップに、ギルベルトなりに突っ込むのを耐えた結果であった……。
敬慕する隊長がそのような有様に陥っているなどということも知らず、リオンは肩を落とす。いささかショックだったのだ。
王女ローズには、もちろんギルベルトやキャスリンたちほどではないとしても。自分も少しは信頼を得られているだろうと誇らしい気持ちをどこかに思っていた。
(……それなのに)
リオンは己に落胆する。
先ほどの王女は、自分には顔色がいいのか悪いのか、それすらも見せてはくれなかった。拒絶するように顔を隠し、それを明かすのは嫌だと言うように首を横に振ったローズの姿を思い出すと胸が苦しかった。
リオンはさらに悲しげな顔をする。
「…………隊長……俺は……もしやローズ様に…………嫌われているんでしょうか……」
「ぇ……? は……ぁ?」
思いがけない台詞に、ギルベルトが瞳を瞬く。先程の一連のことを見ていたギルベルトは(そんなわけないだろう)と思ったが……。
リオンの声があまりにも重かった。思い詰めるような切なげな声音に、こちらを床に落とされた瞳はまるで捨てられた子犬のよう。
「……、……、……」
そんな青年騎士の顔を見てしまったギルベルトは、思わず頭痛を堪えるように額に手を当てる。
──これだから、他のやつにはリオンの素顔を見せられない。こんな顔は、リオンが『ローズ様を好きです』と言っているようなもの。
リオンはしゅしゅーんとうなだれたまま、悲しそうに続ける。
「侍女殿がいらっしゃった瞬間、殿下は助けをお求めになるように俺から離れていかれましたよね……? もしや、これまでこんな俺でも、多少はあの方のお力になれていると思っていたのはひどい勘違いだったのでしょうか……」
「いや、そんなことはあるまい……」
リオンの苦悩を聞いたギルベルトは、なんとも困ってしまった。
青年の鈍さに呆れてしまうような……しかし、この生真面目な青年騎士の気質では、仕方ないのかと哀れにも思った。
リオンは、昔からかなり控えめな性格だ。
職務のことでは大胆に振る舞うこともあるし、信念のために誰かに物申すことをためらいはしないが、普段は誰かよりも前に出ようとすることはほとんどなく、自分が他より優れている、評価されているなどとおごるようなタイプではない。
一応貴族の出身だが、物欲もあまりないらしく、彼の部屋は質素そのもので、これだけ恵まれた容姿をしていながら、着飾っているところも見たことがない。食にも同じで、ギルベルトに『身体を作るため』と言われなければあまり食べないし、飲酒もしない。いったい何を楽しみに生きているのかと問いたくなるほどに、ただひたすらに王家の家臣であろうとしている一途な青年なのである。
けれども、そんな慎ましい青年が、昔から王女ローズのこととなるとこうして普段とは違う一面を見せる。故にギルベルトも、その想いを止めはしなかった。
なぜならば、心に何も持たない者よりは、なんであれ、熱意を傾けられるものがある者のほうが、厳しい騎士の修行に耐えうると思ったからだ。
──しかし……熱意はいいが──……この弟子、やや純粋がすぎたようである。
リオンは端正な顔を苦悶に歪め、己の頭を両手で鷲掴みうめいている。
「……もしや……先日、俺が殿下の恋文を見てしまったことをお知りになり、俺に失望しておしまいになったのでしょうか⁉︎ それとも、殿下を見る俺の目が気持ち悪かったのでしょうか⁉︎ あんなふうに逃げ出していかれるなんて……」
「いや、落ち着けリオン……」
ギルベルトが再びなだめるが、どうやら気持ちが重くなると次から次に悪い考えが浮かんできてしまうらしい。苦悩するリオンの青ざめていた顔は、今度はだんだん赤くなる。
「き、気をつけてはいるんです! あまり女性をジロジロ見てしまっては失礼ですから! で、でも……殿下の気配を察知してしまうと近頃は表情が言うことを聞かぬのです! つい頬が緩んでしまって……!」
「そ、そうか、分かった。分かったからリオン。しかし少し声を落とせ……? な?」
「……っ、この間、『名前でお呼び捨てください』なんてことを殿下に血迷って言ってしまったせいで、殿下がいつ名前で呼んでくださるかなと思うとソワソワしてしまうし……」
「そ、そうか、お、お前かわいいな」
「っ⁉︎ もしやその顔が下心まみれだったのでしょうか⁉︎ 隊長……! 俺は……俺はなんて未熟者なんでしょうか……! し、しかし、先ほど殿下を抱き留めたのは、けして……けして不埒な思いからでは……絶対にお怪我をしてほしくなくて!」
「待て待て待てリオン……声が……声が大きい、大きいぞリオン……‼︎」
ダンスホールに轟くリオンの声。ギルベルトは、非常に慌てた。
このままでは遠くに立つ衛兵はおろか──大扉の向こうのローズたちにまで、この悲痛で必死な訴えが、届いてしまいそうである。




