19 王女と騎士、男と女
それはあまりにも思いがけない出来事だった。
リオンにそっと頬に触れられた瞬間、ローズの心臓は跳ね、床の上の恥ずかしい手紙のことも頭から飛んで消えた。
驚いてリオンを見つめると、自分をなだめようと見下ろしてくる青年の表情は、限りなく優しい。
その顔が、眩しくて。
ローズは、突然不思議な感覚に陥った。
震えるほどに恥ずかしいのに、彼に、ずっとそこにいてほしい、ずっとそうしていてほしいと思った。
動けなかったのは、驚いたからというだけではない。
今、身動きしてしまうと、自分の頬に触れた彼の指が離れていってしまう。そう思ったからだった。
何が彼をこうさせたのかは分からなかったが──普段の彼はいつも他人とは多めに距離を取り、ローズたち王族にも、もちろん馴れ馴れしく接したことはない。当初、彼がとても冷たいように見えたのは、彼が職務に厳しく、自分の振る舞いにもとても厳しい人であるからだ。
だから、そんなリオンが相手だからこそ。今、ローズがわずかでも動いてしまうと、この瞬間がすぐに、あぶくのように弾けて消えてしまうと分かっていた。
自分とて王女としての立場を考えなければならないというのに、そんなふうに惜しんでしまう己の気持ちが、ローズは不思議でならない。
彼女は以前、例の如くハニートラップを目的として言い寄ってきた貴族の青年にも、同じように頬を触れられたことがある。
その青年だってとても美しかったし、手つきも優しくはあった。だが、その時は、唐突な行動に嫌悪感しか湧かなかったのだ。
それなのに。
今は嫌悪感どころか、できるなら、ずっと触れていてほしいとさえ願うのだ。
ローズはそんな自分の気持ちに驚いた。相手が違うだけで、ここまで感じ方が違うものか。
これまで彼女は、王太子からのハニートラップで、男性には散々嫌な思いをしてきた。
これは、その負の記憶を覆すような出来事だった。
「……」
ローズは、ひたすらに息を殺した。
このわずかな、奇跡のような時間が消えて無くならないように。
こうなってくると、恥ずかしささえ何故か心地よく感じるから不思議である。
けれども残念なことに。そんなローズの異変に、リオンが気がついてしまった。
あんなにうろたえていたローズが、いつの間にか真っ赤な顔で黙りこくっている。
王女がジリ……と、何かに耐えるような表情であることを見てとって。彼は(もしや、やはりどこかお怪我を──⁉︎)と、その可能性に焦った──瞬間。騎士の目に飛び込んできた、王女ローズの頬に触れた、自分の指先。リオンの青い瞳は、こぼれ落ちんばかりに見開かれる。
「⁉︎」
その瞬間の、彼の驚愕と言ったら──……ローズは、こんなにギョッとした人間の顔を初めて見たと思った。幸いなことに、この驚きが彼女を冷静さに導いたが。哀れ、リオン。今度は彼が取り乱す番となった。
「⁉︎ ⁉︎」
ローズの頬の上で、リオンの指が凍る。
それは、まったくの無意識の行動。
まさか、とリオン。
いくら密かに彼女を慕っているとはいえ、まさか、自分が──。周りからは、融通が効かないほどの堅物仕事人間と評されて、面白みも愛想もないが。とりあえず生真面目ゆえに職務においては間違いはないと言われる自分が。まさか、許可もなく女性に、しかも自分よりも身分の高い彼女に不用意に触れるなど……こんな無礼な行動を取るなどとは……。リオンはまったくもって自分が信じられない。
(な──なんと愚かな……お、お顔に触れるなど……)
そう思うと、猛烈に冷や汗が出た。
ローズの頬に触れていた時はこの上なく幸せな気持ちであったはずが、急転直下。もしこの愚かな行動のせいで王女に軽蔑されるかもしれないと思うと──肝が冷えすぎて地獄だった。
果たして自分の手は綺麗だっただろうか⁉︎ びっくりしすぎて思い出せないが、まさか無礼な手つき──いや、すでにもう無礼極まりないが、いやらしい触り方をしていなかったか⁉︎ 彼女に不快な思いをさせていたとしたら、なんと申し訳ないことだろう。
ローズに向かってあんなに落ち着いてくださいと言っていた彼が、今度は自分が慌てる羽目に。
驚きすぎのあまりか、リオンはすぐには動けないらしかった。
ローズの頬の上で凍らせていた指も、全身も、次の動きに惑ったように固まっている。
と、そんな微妙な間に、ローズのほうでも戸惑っていた。
(ど、どうしたのかしら……リオンが動かなくなってしまったわ……)
自分の頬に指を触れさせたまま、時が止まったように動かない騎士に、ローズは少し不安になった。先程の表情からするに、彼は我に返ったようだったが……。
そろりと視線を上げると、見開かれた青い瞳と目が合う。
「!」
ローズの目は明らかに困惑していて。その恐る恐るという上目遣いの瞳に。ほんのり桜色に染まった頬に。とうとうリオンが根を上げた。
彼はすぐさま勢いよくローズから離れ、後退ったかと思うと。背後にあった厨房の作業台に腰をしたたか打ちつけた。大きな音が鳴り、それを見ていたローズの瞳がまるくなる。
「リ、リオン大丈夫……⁉︎」
痛そうな音に、ローズはリオンに駆け寄ろうとするが、騎士は大きく開いた片手を掲げ、慌てて彼女を制した。
「っあの! ご──ご──ご心配には及びません……!」
「でも……」
「ほ、本当に! 大丈夫です!」
「…………」
力一杯主張する青年騎士の様子に。それを見たローズは、眉尻を下げる。そして、思わずというふうに、ぽつりとつぶやいた。
「…………そんなに慌てて離れて行かなくても……」
いつもは冷静な彼の、あまりの動揺のしように。ローズは自分もとても恥ずかしくてたまらなかったが、ついそう言ってしまった。
そんなに慌てて逃げて行かなくてもいいのにな……という、少しがっかりしたような響きが漏れてしまったように思う。
と、そこにローズの不満を感じ取ったか。唖然としていたリオンが、ハッとして勢いよく身を折った。その時彼は、例の手紙が散らばった床へ顔を向けた形になったが……。リオンも、ローズも、もう今はそれどころではなかった。
「──も──……申し訳ありませんローズ様! ご尊顔に触れるなど……なんというご無礼を……!」
「……」
必死で謝るリオンを見て、ローズは少し落胆した。彼に不満があったわけではない。なんだかとても残念だった。
さっき彼が頬に触れたほんの一瞬は、リオンは二人の境にある隔たりを忘れていたようだった。
あのささやかな一時、自分たちは王女と騎士ではなく、ただの男女になったような。そんな気がしたのである。
そこには身分もなく、もちろんハニートラップなんてややこしいものもなかった。
(得難い、尊い一瞬だったわ……)
ローズは、ほうっと、熱い吐息を漏らし。騎士として一生懸命頭を下げる青年に、仕方なく、主人としての声をかけた。
「……謝らないでリオン。分かっているわ、私を落ち着かせようとしてくれたのよね?」
どうもありがとうと、できるだけ気持ちを抑えて伝えると、騎士のほとほと困り果てたという顔が恐る恐る上がってくる。
リオンの顔は、本当に真っ赤だった。
彼の恥ずかしそうな顔は、本当にローズの性癖に突き刺さる。……が、この時ばかりはさすがのローズも、彼がとても心配で。そんなふうに思う余裕はなかった。
できるならば、さっき彼がしてくれたように、彼に寄り添って、背でも撫でさすってやりたかった。
だが、今、ローズがそれをしてしまうと、もうすっかり互いの、『王女と騎士』という立場を思い出してしまったリオンが、余計に恐縮し、困ってしまうことは分かっていた。
だからローズは、とても残念だったが、いつも通り、彼と一定の距離を取るしかない。
そんな自分達が、とてももどかしかった。
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