12 王太子の罠
やっとなんとか落ち着いた庭園の隅で、緊張した面持ちでベンチに座ったローズに、彼は呼びかける。
「……ローズ様」
真正面のベンチの座面にちょこんと浅く座り、きっちり身を正した王女がなんとも可愛らしく、思わず頬が緩みかけたが──。
リオンはそんな自分をすぐに律する。
惚けていてはいけない。自分は今から彼女に大切な話をしなければならないのだ。
その真剣な想いをどうにか伝えたくて。“殿下”ではなく、勇気を奮ってその名前を呼ぶと、彼の緊張が伝わったのか──ローズも真っ赤な顔になりコチンと身を硬くしている。そんな強張った様子の王女を見たリオンは、ヴァルブルガのいうところの“塩っけの強い顔”の下で戸惑った。
(ローズ様……?)
これまでのローズは、いつも彼にとても気さくに接してくれた。
それなのに、ここに来るまでの道中も様子もおかしかったが……今日はなぜこんなに身構えられているのだろう?
急に話しかけたことで驚かせてしまったのだろうとは思うのだが……それだけのことにしては、いつも毅然としている王女がやけにおどおどし過ぎているように思えた。
その理由がどうしても分からず、リオンの緊張も余計に高まった。このままでは、そちらのほうが気になってしまって、うっかり本来の目的が頭から飛んでいってしまいそうだった。
(…………な、なんという体たらくだ……)
リオンは心の中で己を叱咤する。
(王女にここまでご足労いただいたのだ、俺がここで不甲斐ないことはできない!)
彼にはどうしても、彼女のすぐ間近に危機があることを知らせたかった。
リオンがその事実を知ったのは、つい先日のこと。
ちょうど職務の交代の時間だった。王宮内の持ち場へ向かう最中、王太子が側近に八つ当たりをしている場面に出くわしてしまった。
角を曲がろうとした瞬間に、耳に飛び込んできた鋭い言葉。
『──誰も彼もなぜこうもローズを陥落させられない⁉︎』
鬱屈とした怒りのこもった声で吐き出された名に、思わず足が止まる。角の先を覗き込まずとも、誰と知れる苛立った声。この声を、リオンはよく知っている。幼い頃からよく自分達に向けられた、肌に突き刺さるような声。
リオンは一気に忌々しい気持ちになり、拳を固く握りしめる。
その声の主は、主君の息子。この国の後継者でありリオンの将来の主だが……正直どうしてあんな者がと言いたくなる。
もちろん国王たちは王太子を立派に育てようと必死であるが、そんな者たちの想いも知らず、自分の色恋に躍起になっている姿はとても尊敬できるものではない。
リオンの胸には悔しさが募る。
(……なぜ、ローズ様があのような情のない男に名を雑に呼ばれなければならないのだろう……)
王太子は彼女に政務の面でも大いに支えられている。そういう恩すらも彼は感じていないのだろうか。
男として、別の女性に惹かれることはあるとしても、王女と婚約を解消したいなら、せめて思いやりを持って彼女に向き合ってくれれば王女の尊厳も守れたし、リオンだってこんな苦々しい気持ちにはならなかっただろうに。
できることなら、今すぐ王女に『あんな男はやめて、私の妻になってください!』と声を大にして言いたいが……。それが許されるような立場でも、身分でもない。
リオンの口からは思わずため息がこぼれたが、そんな彼の存在には気が付かず。角の向こうの声は、共にいるらしい誰かを罵りながら、続いてこう言い捨て他のである。
『結局役立つのはサネ家の娘だけか!』
一瞬やるせない思いに沈んでいたリオンは、その侮蔑をはらんだ台詞を聞いて身が強張った。
(…………サネ家……?)
まずは耳を疑った。
“役立つ”という言葉は、その者が、王太子の支配下で、彼になんらかの利益を与えるためにあるという意味に聞こえた。
(サネ家といえば……王妃様の親戚筋の者たちで、王宮にも何名かが使用人として在籍しているが……)
真っ先に思い浮かんだのは、ローズの側にいるヴァルブルガ・サネ。
背が高く、中性的な顔をした物腰の柔らかな王女ローズの男装の侍女。
(……いや、しかしあの者には、王女が絶大な信頼を置いている……)
彼女が王女ローズの傍に上がるようになったのは、リオンが近衛騎士になる少し前のこと。
一昨年王妃が亡くなって、その配下だった者たちはそれぞれ散り散りに持ち場を移した。そうした中で、ローズの元へ新たに配属されたのがヴァルブルガである。
彼女は不思議な魅力の持ち主で、周りからは“人たらし”“女たらし”と称される。案の定王女にもすぐに気に入られたようで。二人は今では傍目にもとても仲が良い。
その仲睦まじさは、時にリオンが羨ましく思うほど。
ヴァルブルガ・サネは、いとも簡単に、『私の姫』だとか、『愛しのローズ様』などと言って退ける。
それらは、リオンがローズに言いたくても絶対に口にしてはならぬことであり、もし許可されたとしても、恥ずかし過ぎて言えぬことであった。
──まあ、それはともかくとして。
その主従関係が良好に見えるからこそ、リオンは王太子の口からサネ家の家名が出たことを不安に思った。
もし王太子の言う『サネ家の娘』が彼女であれば、王女がどれだけ傷つくだろう。そしてもしそうではなくても、彼女と同じ家門の者が王太子の支配下にあるとすれば、ヴァルブルガも何かしらの影響を受ける可能性があり、それは看過できない事態である。
リオンは、角の向こうでくどくどと配下を叱りつける王太子の言葉から、なんとかその人物を特定できないかと耳をすませたが……彼らの話はそこまでだった。
王太子は時折物に当たるような音を廊下に響かせながら、彼の存在には気が付かないまま配下ともに廊下を立ち去っていった。
何も確信の持てる話を聞けなかったリオンではあったが、もちろんそのまま黙っている訳にはいかなかった。
リオンは、迷うことなくすぐに人を手配し、密かにサネ家についての調査を始める。
その調べによると──サネ家はともかく、ヴァルブルガ・サネという人物の人となりは、真面目なリオンの気が遠くなるようなものだった。
特にリオンが仰天したのは、彼女が王妃の侍女となる前のこと。
実家にいた頃の彼女は、少女期からとにかく人好きがし、多くの者と浮名を流していたらしい。しかも、その相手は男に限らぬらしいとあって……それを知ったリオンは困惑を隠せなかった。
(これは……王妃はご存知だったのか……?)
一部の話によれば、娘に扱いに困ったサネ家の当主が、世間から娘を遠ざけ厳格な生活をさせるべく親類である王妃に託したとのことだが……。やはり生前の王妃もヴァルブルガをとても気に入り目をかけていたという。
しかも、そうして王妃の傍にあることで、貴族たちとも面識を持つ機会が多くなった彼女には、熱心に援助を申し出るパトロン的存在が幾人もいたらしく……。そのリストの中には、大貴族の奥方までもが名を連ねているのだから驚いた。
世間では、貴族が惚れ込んだ才能の持ち主に援助をするという話はよくある話だが……多くは芸術家に対するもの。それが一侍女に、というところが驚きで。
真面目で、年中あがり症に困っているリオンからすると、まさしく異文化。そのような人間がいるということすら信じられない気持ちだった。
だが、報告によれば、地方にあるサネ家の領地界隈では、彼女ヴァルブルガ・サネは誰それの愛人なのだろうとか、いやいやあの者こそが情事によって貴族の奥方たちを操っているのだとか……そのような聞き捨てならない噂が幾らでも聞かれたらしい。
それらを聞いたリオンは、当然強い不安に苛まれた。
こんな危険人物が王女の傍にいるなどということだけでも危ぶまれるが、もし──王太子が言っていた“サネ家の娘”が彼女なら最悪だ。これらの情報は、王太子が『これはローズを陥れるのに使える』と目をつけるに十分すぎるものに思えた。
もし、仲が良く見える王女とヴァルブルガの主従関係が、あの男による差し金であったとしたら──。
そう案じると、リオンの脳裏からは何をしていても悲しむローズの顔が離れなくなった。
けれども彼はもちろん王女の立場を考えれるなら、事は慎重に運ばねば危険だと承知していた。できれば王女には秘密裏にそれを確認したかったし、もし彼が疑ったようにヴァルブルガ・サネが王太子の間者なら、できれば彼の者には、王女には知られぬまま身を引かせたかった。……そう、考えていたのだが……。
王宮で、彼女が他の者には見せないような安堵した眼差しをヴァルブルガ・サネに向けたのを見た時。リオンは咄嗟に、心臓が凍るような恐ろしさを感じた。
まだあの者が王太子の密命で動いているのか確信はない。だが、ローズが彼女を見る目は、深く温かい信頼に満ちていた。あそこまで信頼している者から裏切りにあってしまったら王女はどんなに傷つくだろう。リオンが焦がれてやまないあの花のような笑顔も、今よりもっと少なくなってしまうのではないか──。
そう思うと、それだけはなんとか食い止めたいと悲痛に願った瞬間に。リオンの身体は大きく突き動かされていた。
あがり症だ、恥ずかしいだと言っていられなかった。
そうして気がつくと──リオンはいつの間にかローズの前に跪いてしまっていたのである……。
この時の彼の思いは一つだけ。
どうにかして、彼女が傷つかぬように危機から遠ざけたい。──それだけだった。
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不調により本日検査;チェック、ご感想の返信は帰宅後にさせていただきます <(_ _*)>