11 麗しい罠
リオンが彼女を初めて見かけたのは十数年前。彼がまだ少年で、騎士見習いの小姓として王城を走り回っていた頃のこと。
その出会いを“見かけた”としか言えぬのは、その時はまだリオンがローズに認識されていなかったせいだ。
一方は盛大な歓迎の式典の主役として国王の傍に座った高貴な幼女。
片やリオンはと言えば、式典の準備を手伝わされていた小姓のうちの一人に過ぎず。仕事の合間に、観衆の隙間からほんの少しだけ見ることのできた隣国の王女様。──それがリオンから見たローズとの出会いである。
その王女様は、優しい亜麻色の髪に、澄んだ茶色の瞳は利発そうで。色白で、ふっくらした頬と額にくるりと落ちた巻毛がかわいらしい王女だった。その時リオンは、まるでミルクティーみたいな女の子だなと思った覚えがある。
ただ、大勢の大人たちに囲まれた彼女はどこか不安げだった。
小さな身体にはいささか不釣り合いな大きな椅子に、一生懸命背筋を伸ばして座ってはいたが、幼い手は祖国から連れてきたという若い侍女の手をしっかりと握りしめていた。
幼かった彼女はもう覚えていないだろうが。リオンは、王城内にいる子供達の中でも特に身元が確かということで、彼女の遊び相手となったこともあった。──もちろん一対一などではなく、大勢の子供たちのうちの一人として。
幼い頃の接点といえば、その程度。
王宮で常に人に囲まれていたローズは、大人しい性格で主張も強くはないあがり症の少年のことなど、きっと名も、もしかしたら顔すらも覚えてはいないかもしれない。
なにせそんな僅かな接点にも関わらず、リオンのほうでは数回も彼女の傍に上がるとすっかり彼女が好きになってしまっていて。当然の如く、彼はローズに対して強いあがり症を発揮してしまった。
好きになればなるだけ後ろへ後ろへ下がり、誰かの後ろに隠れたくなってしまって、全然親しくなることなどできなかった。
しかし、そんな繊細な性格のリオンがなぜ彼女を特別好きになってしまったかというと──それは、彼が王城に上がって以来、彼女と同じように遊び相手を務めさせられていた王太子と彼女が、あまりにも対照的だったからである。
この頃の王太子はわがまま放題で悪ガキ盛り。他の王子や取り巻きたちを引き連れ、徒党を組んで各所にいたずらをして回っていた。
そんな王太子には大人も手を焼いていたが、特にリオンのように騎士になるべく王城に預けられた貴族の子息たちや、侍女、侍従など。立場が下の者は王太子の恰好のいたずらのターゲット。
生まれつきずっと周りに傅かれてきた王太子のいたずらは、街の少年たちのそれとはまるで毛色が違う。
遊び相手とは名ばかりで、王太子は自分が楽しむためならば下々の者たちを物のように扱っていた。
その振る舞いはまるで子供たちの帝王。リオンは獲物に見立てられ玩具の矢で射られたことだってあった。もちろんその矢には矢尻はついていないが、当たるとそれなりに痛くアザが残る。
そんな将来の国王を、もちろん周りの大人たちは正しく導こうとしたが、彼は叱られれば反発するばかり、優しく諭されれば調子に乗るばかりで一向に改まらない。彼の教師はすぐ根をあげて、幾度も退職者が出た。
そんなことを繰り返すうち彼の周りには機嫌を取る人間ばかりが集まり、おかげで使用人階級の者や子供たちは、その割りを食った。
──そんな経緯もあって。
初め王太子の婚約者が他国から来ると聞いた時、リオンはとても嫌だった。
自国の王太子ですらあれだ。見知らぬ国の王家の王女などどれだけワガママかわからない。想像するだけでも気が重かった。
王宮に王太子と同じような娘がもう一人増えてしまったら、彼らに付き合わされる自分たちの苦労は二倍。きっと今より辛い日々が待っている。そう──思っていたのだが……。
けれどもそんな恐ろしい想像とは裏腹に。実際王国へやってきた隣国の幼い王女は、皆が戸惑うほどに気立てが良かった。
温室育ちで多少世間知らずなところはあったが、幼いながらも努力家で、この国に早く馴染もうと懸命な姿は周りをとても和ませた。
リオンたちや使用人にも優しく──かといって気が弱いわけではなかったようで。王国に来てから数年も経つと、彼女は同じ王族という立場の己の婚約者の素行にはとても厳しくなった。とはいえそれは婚約者の彼が気に入らぬからというわけでも、無闇に当たりが強かったわけではなく、王太子の素行が悪過ぎたゆえのこと。
彼女が王太子に求める自重と他への慈愛は、本来なら王族としてはごく当たり前に求められることばかりだった。
しかし、てっきり王族の子供とは、自分を天と思い下々を顧みぬものだと思っていたリオンたちからしてみれば、そんな王女の姿はとても衝撃的。
王太子は他国人の王女ローズのことも下に見て、他の子供と同じようにからかった。が、すると彼女は毅然とそれをたしなめる。その叱り口調は大人顔負け。ピリッと叱ったかと思えば、優しく諭したり。その様子は惚れ惚れとする頼もしだだった。
しかも、彼女は王太子が子供たちをいじめていると聞こうものなら、何をしていても手を止めて駆けつけてくれた。
いつのことだったか──。
ある時リオンたちが王太子に『母上に没収された玩具を王妃の部屋から持ち出してこい』と命じられたことがあった。
その無理難題に少年たちはすくみ上がった。
ただの小姓たちに許可もなく王妃の部屋に入れなど、王城から去れと言い渡されているのと同じことだった。それは発覚すれば本人たちだけでなく、一族にまで累が及ぶほどのこと。
しかももし発覚しても、当然王太子が彼らを庇ってくれるわけもない。リオンたちは困り果てたのだが──。
その時も、助けてくれたのはやはりローズだった。
今でもその光景を思い出すと、リオンの胸には鮮明に感動が蘇る。
──きっと誰かに助けを求められたのだろう。王女は颯爽と現れて、王太子をピシャリと叱りつけてくれた。
その姿はまさに小さな女神様。キリッと背筋の伸びた少女に王太子がやり込められる様子はまさに痛快。
これではリオンらに慕われないわけがないし、息子の素行に手を焼いていた国王たちに頼りにされないはずがなかった。
彼が尊敬する師ギルベルトも、彼女をよく褒め称えていたもの。
『あんなに可愛らしいのに、胸がすくほどにしっかりしていなさる。あのような方にお仕えできたら幸せだろうなリオン!』
物静かな小姓の少年が近衛騎士を目指していることを知っている師はそう豪快に笑い、リオンも本当にその通りだと心底思った。
リオンは近衛騎士になるべく王宮にきた。そのために家族とも離れ、騎士たちの使い走りも厳しい訓練にも文句もこぼさず励んできた。
しかし王太子の暇つぶしの相手をさせられるたび、取るに足らぬものとして扱われるたびに夢は少しずつ萎んだ。
王太子はいずれ国王となる。近衛騎士になるということは、あの王太子にも仕えるということ。尊敬できない主君に臣従の誓いを立てるのはきっとつらいだろう。
真面目な性格の少年は、こんな気持ちのままでは近衛騎士どころか騎士になることも難しいのではと思い悩んでしまっていて、そんな弟子を師ギルベルトもとても心配していたのだった。
けれども。そんな迷える少年に、新たにやってきた王女様は明るい希望を与えた。
王宮で数年も経てば、王女はますます勤勉でしっかりしていき、そんな彼女の王族の手本となるような立ち振る舞いは、近衛騎士志望の少年にとってはとてもまぶしかった。
師が言う通り、きっとローズになら心の底から敬慕して仕えることができる。
リオンはそれまでは、立派な父のようになりたいとそれを目指していたが……この頃からはその夢がより具体的になって、『ローズ様を支えることができるような近衛騎士になりたい』と願うようになった。
だが、もちろん騎士を目指すものとしてのわきまえを叩き込まれていた彼は、婚約者のある貴人にそのようなことを打ち明けたりはしない。
王太子妃を目指して奮闘するローズの邪魔になるようなことは絶対にしたくなかったし、そもそももうこの頃には、リオンは従騎士となっていて、すでに王女の遊び相手を務められるような子供ではなくなっていた。
それまでは『子供だから』と許されていた王宮への出入りが制限されると、その中でも一番奥の居室で暮らしていたローズの姿は、ぱったり見ることができなくなった。
仕方のないことだとは分かっていたが、リオンはやはりとても寂しかった。
彼女が王家にいてくれるのなら、きっと自分は心から忠誠を誓えるに違いないと希望を寄せているだけ、……の、つもりではあったのだが……。
王女の声を聞くことも、顔を見ることも容易でなくなると、そのつらさは計り知れないものだった。まるで太陽の見えなくなった世界にいるようで。それまでも決して笑うのがうまかったわけではないリオンは一層気難しそうに見るようになった。
周りの者たちが、『あと何年で王太子様たちはご結婚なさるんだろう』なんて噂をしているのを聞くと侘しく、『最近ローズ様は暗い顔ばかりなさっている』と聞くと、傍で支えられない自分が悔しかった。
だからリオンは早く近衛騎士になりたくて。誰よりも鍛錬を積み、職務に邁進したが、すると周りには功を焦っていると今度は煙たがられる。
だが、リオンはそんな声には構わなかった。功を焦っているのは本当のこと。功績と実力があれば、それだけ早く王女の傍へ上がれるようになるかもしれない。周囲の声になど振り回されている暇はありはしなかった。
やっかみも多く時には足も引っ張られたが、そんなリオンの熱意を理解してくれている者もいて。先出のギルベルトがその一人だった。
彼は大人しいが勤勉なリオンにはとても目をかけてくれていて。その頃には近衛騎士隊の副隊長だった彼は、長に昇進した時、リオンを共に引き上げてくれた。それすらも周りには贔屓だなんだと陰口は叩かれたが、そんなことはどうでもよかった。
念願叶い、数年ぶりに再び王女と見えた時は、本当に、本当に天にも昇るほど嬉しかった。
成長したローズはとても綺麗で。しかし、その表情にはどこか影が見えるような気がして、リオンはそれがとても気掛かりだった。
よくよく見ていると、あんなに慕われていた使用人たちとも以前よりも距離がある。
そうして疑問を持った彼は、よほどローズのことを見てしまっていたのだろう。それを師には嗜められた。
師は珍しく厳しい顔をして言うのだ。
『リオン──お前は分かりやす過ぎる。他の連中には氷のように冷たいくせに、王女を見かけるとあからさまに嬉しそうな顔をする。しかもそんなにお姿を目で追っていたら、言葉にせずとも好意があると言ってるも同然だ。──それでは長く近衛騎士を務められないぞ』──と。
そう指摘されて、はじめて自分のそんな有様に気がついたリオンはとてもびっくりした。
そんなつもりは全然なかった。てっきり王女を前にしていても、他の者たちの前でそうなるように、緊張に顔がひきつり仏頂面をしているものだとばかり思っていた。
真っ赤になって慌てるリオンを見て、ギルベルトは心配そうに続ける。
『もしそんな態度を王太子や彼の手の者に見咎められれば、きっとお前は近衛騎士を外されるか利用されるかだ。王太子は、もうずっとローズ様とは別に恋人がいて──不仲の婚約者を追い出したがっている』
そこで初めてローズの長年の窮状を教えられたリオンは唖然とした。
確かに昔から王太子とローズは仲がいいとは言い難かったが、ローズは国同士の架け橋として献身的に王太子を支えていて、最近では王太子も彼女を大切にしていると聞いていた。
“聞いていた”というのは、リオンがすでに王女のそばには上がれない立場だったゆえに、彼女の近況は人伝に聞くしかなかったためだが……つまり、それらは全て外向きの話であったということだ。
おそらく内情は厳重に伏せられていたのだろう。近衛騎士となって初めてその内情を知ったリオンは衝撃を受けた。
ギルベルトとはずっと交流があったが、彼も臣従の誓いがあるゆえに王太子らの内輪話を漏らすわけにはいかなかったようだ。
そうして近衛の仲間となったのを機に話を聞かされ、震えるほどに憤るリオンにギルベルトは重々言い聞かせる。
『──いいかリオン? お前が王女を敬愛していて王太子を腹立たしく思うのは分かるが、それは決して顔や態度には出してはならない。我々近衛は王家の方々を守り、その秘密も共に守らなければならない。この件に関しては、我らにはなんら権限はないのだ』
それが出来ぬものは近衛騎士ではいられない。
それはすなわち、王女ローズの傍にはいられないということ。
ギルベルトは自身も複雑そうな顔をしながらリオンを慰める。
『何より、王太子妃となるため奮闘していらっしゃるローズ様の努力を無碍には出来んだろう? もし先々ローズ様が助けをお求めになったら? その時にお傍にいられなかったらお前は後悔するのではないか?』
それまでは王女を見守るべきと言われ、リオンは返す言葉もなかった。
──だから今も、本当は黙っているべきなのかもしれない。
だが、
「………………」
リオンは目の前でさも当然のように王女の真後ろを歩く男装の侍女を睨んだ。
──ヴァルブルガ・サネ。
麗しい青年と見紛うような見目の、王女の侍女。
王太子の亡き母の親戚筋サネ家の娘で、王太子が王宮に招き、密かに王女に近づけさせた者だった。




